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何気なしに中を覗いて見たのだが、筋のよさゝうな染付の壺や、餅花手の大皿などが飾つてある


『手帖』第三冊(甲文社、昭和23年4月30日)表紙画=レンブラント

押入れの片付けをしていて見つけた雑誌『手帖』。発行人は矢倉年で発行所住所は京都市左京区下鴨泉川町六。甲鳥書林と同じ住所である。それもそのはず、甲鳥書林は矢倉と中市弘の兄弟(実の兄弟のようです)が戦前に経営していた出版社だった。戦後、二人は別々の道を歩むことになり、書林新甲鳥を中市が、甲文社を矢倉が発行人となって再出発している。

手帖』は昭和21年に第一冊が出て、これで三冊目。中谷宇吉郎、鈴木高成、佐々木惣一、泉井久之助、伊東静雄、水原秋桜子、大山定一、三宅周太郎の執筆。144頁もあって、かなり濃厚な内容である。

ここでは水原秋桜子の「個展の季節」と題されたエッセイから銀座の画廊めぐりの様子をメモしておきたい。水原は八王子から東京の病院まで電車で通勤する医師である(むろん著名な俳人ですが)。荻窪まで来たときに電車の故障で降ろされてしまう。そこで骨董屋があったことを思い出して訪ねてみる。

何気なしに中を覗いて見たのだが、筋のよさゝうな染付の壺や、餅花手の大皿などが飾つてある。「ほゝう」といふ思ひで中にはいつて見廻すと、藤島武二、岸田劉生などといふ色紙が雲盤に入れてかけてある。ますます感心して、どういう人の店なのだらうと思つたが、ふと隅を見ると、一枚の俳句の短冊があり、それが私の古い友達Sの筆で、三十円といふ価格がついてゐる。
「Sの短冊が三十円か。」ーー私は、それが高いとも安いとも思はず、妙にくすぐつたい思ひでその店を出て来た。

p84-85

ところが、じつは、その店はSその人が自分のコレクションで始めた骨董屋だったことが分かる。30円という値段は作者自身が付けていたわけだ。

電車が復旧して東京駅に着いたが、病院での仕事がなかったため、銀座の兜屋画廊で開催されている曽宮一念の個展へ向かう。

 兜屋画廊は、銀座の交詢社に近いところにある。もと八咫屋といふ額縁店が経営してゐたもので、広くはないが感じはすがすがしい。はいつてゆくと、十四五人の、比較的若い人達が来てをり、画は十点ばかり壁にかけてあつた。皆小品で、一番大きいのが十号、それから六号、数としては四号のものが多い。

p87

中略

 主催者の西川君が、お茶を飲んでゆけといつて、別室へ導いてくれた。私より前にゐた客が二人、一人は福島繁太郎氏、一人は資生堂の美術部長の白川氏である。しばらく話してゐると、会場から戻つて来た西川君が、壁にかけてあつた素描の額をとり下ろして見せてくれた。仏蘭西人らしい中年の男子立像である。実に丁寧に描いてある。

p91

それは安井曽太郎の若い頃のデッサンだった。西川君は安井のフランス時代の素描展が開かれているの知っているかと問うた。

「知らない。どこであるの?」
「交詢画廊ですよ。」
「第一、さういふ画廊も知らない。」
「こんど新らしく出来たので、帝劇画廊を経営してゐたK君の経営です。」
「あゝさうか、その前に青樹社にゐた人だね。それではこれから見にゆこう。」
 私は兜屋画廊を出た。一町ほど東へゆくと交詢社で、その南西の角の一部が画廊になつてゐた。小さな一室であるが、これも感じはわるくない。壁面には小さい素描と水彩画とが十四、五点掛けてあつた。すべて安井先生が仏蘭西に留学して居られた時の作である。

p92

中略

誰が所蔵してゐたものか、美しく保存されてゐる上に、今度多聞堂あたりで額縁を作つたのであらう。実に好ましい小品に仕立てられてゐるのであつた。
 見てゆくうちに、アカデミー、ジユリアン時代の「男の裸像」がある。これは前の林の画とはちがつて、かなりつよい線で描かれてゐる。アカデミー、ジユリアンのローランスの教室に居られた頃の先生は、誰よりも素描が巧く、コンクールのある毎に一等をとられたさうであるが、これもその中の一枚かも知れない。

p94

文中《林の画》はこのくだりの前に感想が書かれている滞欧時代の作品である。見終わった秋桜子は近くの珈琲店で休息しながら、近頃銀座にできた画廊のことを考える。(太字は引用者による)

 以前には資生堂画廊八咫屋画廊日動画廊青樹社と四個所だけであつたが、近頃になつてからかなり増加した。すはなち新橋の方からかぞへて来ると、千疋屋店内にある画廊、資生堂画廊交詢画廊兜屋画廊日動画廊柴田ギャラリーと六個所もある。

p95

もう少し行けば高島屋北荘画廊もあるというが、昭和二十二年頃の銀座はまだ数えるほどしか画廊はなかったようで、無数の画廊が軒を並べていた頃しか知らない小生としては、これにはちょっと驚かされた。柴田ギャラリーは一階が書店、二階が骨董店で、三階が展覧会場になっていたそうだ。二階の一室には武者小路実篤の絵を主に扱う新村堂が神田神保町から移転してきていた。

珈琲店を出て、歩いているうちにもう一度どこかで休みたくなり、千疋屋の喫茶部へ入った。

 こゝでも一杯の珈琲を註文し、果物を並べてある棚をよく見ると、いま林檎の出ざかりらしく、デリシヤスが燦々と色彩をきそつてゐるほかに、甲州葡萄の紫、肌の涼しい梨、大きく笑み割れた無花果、まだ甘くないらしい走りの柿など、さすがに千疋屋で、見事なものばかりが並んでゐた。私は、ふとその林檎を写生して見たくなり、珈琲を飲み終つてから売場へゆき、二つ三つ形のよいものを選んだ。店員は親切で、私の選ぶがまゝに任せ、それを秤にかけてから、丁寧に包んで、提げるやうにしてくれた。かういふ些細なことも、この頃では心を明るくすることの一つであつた。私はそれを提げて八重洲口の方へゆつくり歩いて行つた。

p97-98

この心地よい疲れの感じは、昔、学生時代によく銀座の画廊を覗いて回った頃に味わったものである。

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