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遊歴中珍書奇冊など有之候はゞ時としては食指を動し申間敷も難計


『吉田松陰書簡集』(広瀬豊編、岩波文庫、1993年8刷)

本棚の入れ替えをしていたら『吉田松陰書簡集』がひょいと現れた。ずいぶん前に新潟へ旅したとき、カバンにしのばせて列車や宿舎で読み耽ったことを思い出す。そのときのメモが挟んである。古本屋が登場する記述を拾っているので、ひととおり写しておく。

◯勧農固本録二冊、古本舗にはどこにも余多有之ものに御座候間、勿論可被成御覧候間、如何様之ものに候哉。 

P31 兄杉梅太郎宛 嘉永4年9月23日 松陰在江戸

嘉永4年は22歳。4月9日に江戸に到着して安積艮斎や佐久間象山らに師事しながら鳥山新三郎らと交わっていた。兵学実地研究のため東北を旅したのもこの年である。勧農固本録は下記のような書物で広く流布していたようだ。ただしそれが有用か無用かは知らないと後の便りでは付け加えている。実兄の杉梅太郎宛。松陰の幼名は杉虎之助。数え五歳のときに叔父吉田大助の仮養子になり、六歳で相続し大次郎と改名。(松陰の事蹟は本書巻末年譜による)

勧農固本録 (かんのうこほんろく)
江戸時代の農政書。丹波国篠山藩士の万尾時春が1725年(享保10)に刊行。上下2巻。書名は〈民は惟(これ)邦(くに)の本,本固ければ邦寧(やすし)〉の由来による。内容は土壌や作物などの農業技術にも触れているが,検地や検見や年貢の収納等,幕藩体制下の農村統治法に力点がおかれている。江戸中期の農村統治,あるいは支配者の農民観を知るために有用である。《日本経済大典》所収。  

コトバンク

奥羽行之日数正二二(閏)三と四ケ月之積に御座候。(中略)且遊歴中珍書奇冊など有之候はゞ時としては食指を動し申間敷も難計 

p35 兄杉梅太郎宛 嘉永4年9月27日 松陰在江戸

旅行中に欲しい本が見つかったら買わなくていけないから所持金をたっぷり用意しておきたいという意味。

固本録は富民録とは違ひ申候。古本店には許多有之候間、後便可奉送上候。但有用之書歟、無用歟は知不申候。 

p39 兄杉梅太郎宛 嘉永4年11月28日 松陰在江戸

今日骨董舗上にて看手本一冊、値只六十銭、類家巌君所愛之大橋様故買贈仕候。 

p53 兄杉梅太郎宛 嘉永6年2月11日 松陰在大阪

書道御家流の一つである大橋流の書道の手本を骨董屋で買い求めて父に送ったということであろう。

一、靖献遺言之一書何卒御恵贈與奉祈候。僕於死生幽明之間、毫無所疑。然獄中多閑、読此等之書、亦是足養吾志也。 

p96 宮部鼎蔵宛 安政元年4月24日 松陰在江戸獄

獄中があまりにヒマだから『靖献遺言』を一冊差し入れてほしい。

靖献遺言(せいけんいげん)は、儒学者浅見絅斎の主著で、中国の忠臣義士の行状について記した書。1684年から1687年(貞享4年)にかけて著され、絅斎没後の1748年(寛延元年)に刊行された。尊王思想の書としては日本人に最大の影響を与えたと考えられている。
竹内式部、梅田雲浜、吉田松陰が愛読していた。雲浜に至っては、松陰から「靖献遺言にて固めたる男」と呼ばれるほどであった。幕末に大ベストセラーとなり、勤王の志士の必読書と呼ばれ、明治維新に大きく影響した。昭和の戦時中の日本人にも影響を与え、神風特攻隊の隊員に読む者が多くいたとされる。 

ウィキペディア「靖献遺言」

『靖献遺言』の内容
屈原、諸葛孔明、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因及び方孝孺の8人の評伝である。その8人の共通することは、正統の王朝に忠義を尽くし、その王朝の敵対者には徹底的に抵抗したことである。

ウィキペディア「靖献遺言」

とはいうものの弱音を吐いている手紙もあった。イソップ寓話を読んで完敗と悟ったと。

又此内の伊婆菩喩言(イソツプ寓話)得と見候へば一々今日の夷情尽せり。いかんせん。左候へば僕が一身は不足申候へ共、神国も吾藩も今日限りに相成申候。 

p142 月性宛 安政5年正月19日 松陰在萩松本

幕末、あまりに多くの優れた若者が失われた。吉田松陰や坂本龍馬が明治に生き残っていれば、日本の姿も随分と変わったのではないかと思わずにはいられない。

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