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金平糖じゃなくてドラジェの精の踊り!


チャイコフスキー「交響曲第6番ロ短調作品74《悲愴》/《くるみ割り人形》組曲作品71a」
レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック(CBS SONY, SOCL 1008)

ここのところ毎日のように聴いていいるのがこのレコード。チャイコフスキー「交響曲第6番ロ短調作品74《悲愴》/《くるみ割り人形》組曲作品71a」レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック(CBS SONY, SOCL 1008)。

とくにB面の「くるみ割り人形」がいい。小学校の頃、時間区切りのBGMに曲の一部が流れてきたことを思い出す。そういう個人的なノスタルジーばかりではなく、これらの曲想がきわめて斬新なところに聴いていて感心するばかり。素人考えながら、よくこんな曲が書けたなと思う。

『くるみ割り人形』(くるみわりにんぎょう、露: Щелкунчик, 仏: Casse-Noisette, 英: The Nutcracker)は、ピョートル・チャイコフスキーが作曲したバレエ音楽(作品71)、およびそれを用いたバレエ作品である。チャイコフスキーが手掛けた最後のバレエ音楽であり、1892年にサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で初演された。

ウィキペディア「くるみ割り人形」

チャイコフスキーは1891年にヨーロッパからアメリカへ半年にわたる演奏旅行をした。カーネギー・ホール(当時はミュージック・ホールと呼ばれた)開場式に招かれたのである。そのときすでにマリインスキー劇場でのオペラとバレエを組み合わせた新作を依頼されており、オペラは『イオランタ』、そしてバレエはE.T.A.ホフマンの童話 『くるみ割り人形とねずみの王様』をアレクサンドル・デュマ・ペールが翻案した『はしばみ割り物語』を原作とすることになり、1891年2月には作曲に着手していた。しかし仕事ははかどっていなかった。

同年9月27日にビスマルク伯爵号の船客としてペテルブルグに帰ってきた彼が、およそ半年にわたるそのヨーロッパとアメリカへの旅行の前後に作曲した作品で、第2幕の《こんぺい糖の踊り》に使用される鍵盤楽器チェレスタは、ル・アーブルへの途上パリで知った、当時ロシアにはまだ輸入されていなかった新楽器です。チャイコフスキーは帰国後《くるみ割り人形》の作曲を再開すると、ヴィクトル・ミュステルが創案したその楽器を大急ぎでパリに注文し、ロシアの友人たちにはそのことを内緒にしておきました。彼は、リムスキー=コルサコフやグラズノフがチェレスタのことをかぎつけて、可愛らしい夢幻的な音色をもつその楽器を自分より先きに利用することを心配したのです。

レコード解説:藁科雅美

なるほど、そういう音の新奇さを求めた結果なのかもしれないが、そもそもアメリカ旅行そのものからかなり大きな刺激を受けたのは間違いないだろう。

チェレスタ(またはセレスタ、伊: celesta)は、体鳴楽器に分類される鍵盤楽器の1つ。パリの楽器制作家オギュスト・ミュステルが発明し、1886年に特許を得た。ウィキペディア「チェレスタ」

解説のなかでは

《くるみ割り人形》のドレス・リハーサル(本番どおりの総練習)は12月17日にペテルブルグで帝室バレエ団(現キーロフ劇場国立レニングラード・バレエ団)によっておこなわれ、その日は皇帝アレクサンドル3世も臨御されて、チャイコフスキーは親しく賞賛のことばを賜りました。しかし、有名な《セレナード》の作曲者ドリゴの指揮によるこのバレエの初演は、惨めな失敗に終りました。そして、帝室劇場のレパートリーから早々に姿を消して、その後40年間ほど、完全な形での蘇演はまったくおこなわれませんでした。

レコード解説:藁科雅美

とされているのだが、ウィキの解説に従えば、1934年にGATOB(1917年のロシア革命後は「国立マリインスキー劇場」と呼ばれ、さらにその後「国立アカデミー・オペラ及びバレエ劇場(略称GATOB)」と改称された)で再演されるまでに、1919年、ボリショイ劇場でA・ゴルスキー版が上演されている。

なお「こんぺいとうの精の踊り」と訳されているところ、実際は「Danse de la Fée Dragée」で「ドラジェ」とは、一般的には、アーモンドに砂糖衣をほどこした菓子のことである。

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