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どうも関西の人には、ほんたうの意味での友達などになれないやうなものが、何かしらあるのではなからうか


里見弴『若き日の旅』(甲鳥書林、昭和15年5月25日)

里見弴『若き日の旅』を甲鳥書林の出版物だからとご恵投いただいた。深謝申し上げます。明治四十一年、志賀直哉(東京帝国大学英文学科在学中)、木下利玄(東京帝国大学国文科在学中)、山内英夫(里見弴、学習院高等科在学中)の三人が近畿地方を旅行したときの思い出を小説風にふくらませたもの(当時の日記をもとにしたようである)。文科の学生三人ののんきな旅が目に見えるように描かれていて興味が尽きない。


著者署名入り

旅費は35円。今の金額にすると大雑把だが30〜40万円くらいではないかと思う。

ざつと計算してみたところ、特に貧乏旅行といふ企でない限り、どうしても三十五円くらゐは要る。三十五円あれば、ディッケンスの全集が買へる、なんて思つたらもう出かけられない。

p3

以下、旅程をざっと拾っておく。若いだけにかなり欲張ったルートである。これでも幾分かは予定を略したと書かれている。

新橋  3月26日、終列車に乗る
熱田  下車 誓願寺、熱田神宮、白鳥御陵
名古屋 棊子麺(きしめん)を食べる
伊賀上野 甲鳥書林の矢倉年の生誕地 木賃宿・近江屋に宿泊
月ヶ瀬見物
笠置  麓の温泉宿に泊まる
宇治  平等院、宇治上神社、興聖寺、黄檗山
京都  夕方、三条小橋の吉岡屋に投宿、新京極をぶらつく
京都  翌日、南座〜花見小路〜五条坂の古道具屋で浮世絵を買う〜大仏殿〜博物館〜三十三間堂〜養源院〜清水〜三年坂〜高台寺〜八坂神社〜円山公園〜知恩院〜南禅寺、宿で夕食、第二福真亭で女義太夫を聞く
京都  比叡山〜坂本〜唐崎の松〜大津、湖水めぐり:膳所〜石山寺〜三井寺〜紺屋ヶ関(二葉亭で牛鍋)。疏水下り〜京都、歌舞練場、投宿
奈良  春日神社〜博物館〜大仏殿〜新薬師寺〜興福寺、大黒屋に投宿
奈良  法隆寺、汽車で吉野口へ、導者宿に泊まる
奈良  吉水神社〜蔵王堂〜下市〜吉野口〜和歌山、三流宿に泊まる
和歌山 岡公園〜和歌浦〜玉津島、難波駅、千秋楼に投宿、梅田の郵便局、角座
大阪  道頓堀〜丸善〜千日前〜中座
4月8日〜9日  梅田駅〜新橋駅(御殿場あたりの大雪のため列車が徐行、ほぼ一昼夜かかる)

新橋までの切符を買ってちょうど35円を遣い切った。

メモしておきたいところは、まず奈良のミルク・ホール。明治41年だとまだ珈琲糖だったのか。

 ミルク・ホールにはいり、麪包[パン]と珈琲[コーヒー]で簡単に中食をすませた。鬢付[びんつけ]のやうな牛酪[バタ]、蜻蛉印[とんぼじるし]の角砂糖の中心に、少しばかり珈琲の粉がはいつてゐるやつを、湯で溶しただけの飲料[のみもの]、ーー当時としては、とは云へ、なか〜〜こんなことでは貧乏旅行の部にはいらない。

p106

そして、大阪の丸善。

 十一時ちかくなつて、やつとお輿[みこし]をあげ、正面[まとも]に暖い陽[ひ]を浴びながら、既に三度目の往来を道頓堀へ向ふ。途中丸善によると、志賀に挨拶する小僧があり、懐しさうに何か云つてゐたが、出てからの話に、ーー去年の春、日本橋の本店からこつちへ廻されて来たのだが、どうしても性に合はず、いまだに帰りたい、帰りたいと、そればかり思つてゐる、などゝ、低声[こごゑ]で愚痴をこぼしてゐた、どうも関西の人には、ほんたうの意味での友達などになれないやうなものが、何かしらあるのではなからうか、あの小僧さんばかりでなく、前から、関西も、土地としてはいゝけれど、人間に困る、といふやうな話は度々聞くが、ーーそんなことを云つてゐた。これから、半信半疑の語調を除き去れば、十数年に及ぶ上方住居[かみがたずまひ]の後に、いま東京に帰つてゐる志賀の言葉そつくりそのまゝになる。つまり、志賀も、この丸善の小僧も、関西人に対する感情の点ではなんら逕庭がなかつたわけだ……。

p198-199

日本橋から道頓堀へ小僧の転勤があったというのは意外。現在以上に、関西と関東における風土・風俗・気質の違いは大きく感じられたようである。


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