梶井基次郎は私に嘘の話をしてきかせたのだ。そして彼は死んでしまつた。
高橋輝次『戦前モダニズム出版社探検』を読んでいると、厚生閣の雑誌『月刊文章』に連載された伊藤整の「小説作法」が面白いというくだりがあった。その文章は『文学の道』(南北書園、昭和23年)として単行本に収められているという話が出てきたところで、ハタと膝を打った。この本はたしか持っている。取り出してみると昭和24年再版本である。そこで高橋氏が話題にしている伊藤整が梶井基次郎と同じ下宿に住んだときの回想(第一話)をさっそく読んでみた。
伊藤整は1905年生まれ。数え年で二十四歳というのは昭和三年だが、ウィキには《1927年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学ぶ。また北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結び》とある。念のため梶井基次郎年譜(2000年版全集所収)を見ると、昭和三年(1928)五月の項に次のように出ている。
そもそもこの下宿は淀野隆三が住んでいたのを梶井に紹介したのだった。梶井は大正十四年五月三十一日にそこへ引っ越した。麻布飯倉片町三十二番地(現・港区麻布台3-4-21)堀口庄之助方。植木職人の家で、養子の繁蔵と津子の若夫婦が階下に住んでいた。大正十五年十月には梶井は三好達治を強く誘って下宿の隣室へ移らせた。しかし体調が悪くなり、この年の年末に湯ヶ島へ療養に出かける。
この療養はけっこう長引き、北川冬彦が飯倉片町の梶井の部屋を借りたいと言ってきたので遠慮せずに使うようにと返事をした。そして湯ヶ島から戻ってふたたびその下宿へ入ったのが上に引用した昭和三年五月ということになる。梶井年譜を信用すれば、伊藤整に《一月ほど梶井基次郎と話をする機会》があったというのはどうやら正確ではない。
また、高橋氏は阪本越郎「梢の追憶 第二次椎の木について」(『椎の木』昭和七年一月号)にも梶井の下宿の話が出ていることを書いてくれている。
現在の狸穴町というのは麻布台三丁目と二丁目に挟まれた地域になるので飯倉片町に隣接していると言えるが、阪本の記述はそれ以外も同様に正確さを欠くようだ。昭和七年の時点でこれだから人の記憶はあてにならない。
伊藤整は梶井と話をして記憶に残ったことが二つある、という。まず、梶井は志賀直哉が好きで、その文章を書き写したと言ったこと。
念のために言えば、梶井はこれを大阪弁で語ったのである。しかし四歳年下の伊藤は梶井の志賀直哉好きが理解できなかった。世代間ギャップである。
そして、もうひとつ記憶していることは梶井が語って聞かせてくれたボオドレエルの散文詩「硝子屋」の内容が実際と違っていたこと。
伊藤は、梶井が硝子屋の背中で粉微塵になったガラスが五色の色ガラスだと話したと記憶していた。ところが後に三好達治の翻訳で読むと、硝子屋は色ガラスを持って居なかったことで追い払われたのだった。
さらに「櫻の木の下で」(「櫻の木の下には」)のあらましを梶井の口から聞いて感心したのだが、実際、雑誌が出て活字で読んで見ると、梶井の語ったときほど感動しなかったこと、についても書かれている。
そしてこう結論している。
梶井の短編にボードレールのイラついた作風の影響があるのは納得できる。「檸檬」などもそうだろう。「櫻の木の下には」はシュールだが、思いつきが目立って、それほどの作品とも思えない。梶井の話術で聞いたらまた違うのだろうが。あるいは、筆写してみると、読むのとは違った苦心が見えてくるのかもしれない。
梶井基次郎全集年譜によれば、梶井の読んでいたボードレール『パリの憂鬱』はやはり伊藤の言うようにアーサー・シモンズの英訳だった。昭和二年から三年にかけて座右の書として書き写したりしていたようだ。
「硝子屋」の原タイトルは「Le Mauvais Vitrier」で英訳は「The Bad Glazier」。すでに昭和三年には高橋広江訳で青郊社から『巴里の憂鬱』が出ており、三好達治訳が厚生閣書店から出るのは昭和四年十二月である。なお「Spleen」(ボードレールは英語を使っている)を「憂鬱」と訳したのはかなり問題があるような気がする。スプリーンはもっと悪意がある。
Charles Baudelaire, Le Spleen de Paris
https://www.vousnousils.fr/casden/pdf/id00268.pdf
Arthur William Symons, Paris Spleen
https://books.google.co.jp/books?id=15craP5h4O4C&pg=PR5&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false
また「櫻の木の下には」の『詩と詩論』掲載については次のような経緯があった。
伊藤整が創刊号に載せると梶井が語ったというのは、実際そのつもりだったのかもしれないが、作品の出来に納得できずに、書き直して二号へ掲載となったようである。