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梶井基次郎は私に嘘の話をしてきかせたのだ。そして彼は死んでしまつた。


高橋輝次『戦前モダニズム出版社探検』(論創社、2024年11月30日)

高橋輝次『戦前モダニズム出版社探検』を読んでいると、厚生閣の雑誌『月刊文章』に連載された伊藤整の「小説作法」が面白いというくだりがあった。その文章は『文学の道』(南北書園、昭和23年)として単行本に収められているという話が出てきたところで、ハタと膝を打った。この本はたしか持っている。取り出してみると昭和24年再版本である。そこで高橋氏が話題にしている伊藤整が梶井基次郎と同じ下宿に住んだときの回想(第一話)をさっそく読んでみた。

私が二十四歳で上京したとき、北川冬彦の紹介で麻布の飯倉片町の庭師の家に室を借りたが、その家には梶井基次郎も下宿してゐた。私はそこに落ちついてから父の病で急に帰国したりして忙しい日を送つたが、一月ほど梶井基次郎と話をする機会があつて、記憶に残つたことが二つある。

文学の道』p5

伊藤整は1905年生まれ。数え年で二十四歳というのは昭和三年だが、ウィキには《1927年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学ぶ。また北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結び》とある。念のため梶井基次郎年譜(2000年版全集所収)を見ると、昭和三年(1928)五月の項に次のように出ている。

十日ごろ、湯ヶ島から飯倉片町の下宿に戻り、一階に間借りした。二階には北川と、この春、上京した伊藤整がいた。
[中略]
下旬、念願の深川のスラム街を見に行き、自分の身体ではとても住めないと悟った〔書簡二七九〕。伊藤整が父親の病気が重くなり、北海道に帰ったので、二階の部屋に移った。

2000年版梶井基次郎全集年譜 p482

そもそもこの下宿は淀野隆三が住んでいたのを梶井に紹介したのだった。梶井は大正十四年五月三十一日にそこへ引っ越した。麻布飯倉片町三十二番地(現・港区麻布台3-4-21)堀口庄之助方。植木職人の家で、養子の繁蔵と津子の若夫婦が階下に住んでいた。大正十五年十月には梶井は三好達治を強く誘って下宿の隣室へ移らせた。しかし体調が悪くなり、この年の年末に湯ヶ島へ療養に出かける。

この療養はけっこう長引き、北川冬彦が飯倉片町の梶井の部屋を借りたいと言ってきたので遠慮せずに使うようにと返事をした。そして湯ヶ島から戻ってふたたびその下宿へ入ったのが上に引用した昭和三年五月ということになる。梶井年譜を信用すれば、伊藤整に《一月ほど梶井基次郎と話をする機会》があったというのはどうやら正確ではない。

また、高橋氏は阪本越郎「梢の追憶 第二次椎の木について」(『椎の木』昭和七年一月号)にも梶井の下宿の話が出ていることを書いてくれている。

当時阪本氏の家の近くの麻布狸穴の植木屋の二階に、北川冬彦が仮寓しており、その同じ二階に伊豆から帰った梶井基次郎も住んでいた(梶井は伊豆で川端康成の『伊豆の踊子』の校正もやったという)。後に三好達治も北川と隣り合って居たことがあった。この三人が去ってしばらくして、北川冬彦の紹介で『雪明りの路』の若い詩人、東京商科大学に通う伊藤整が移ってきたという(筆者註・最後の証言は阪本氏の記憶違いだろう。伊藤整の『若い詩人の肖像』では、北川・梶井としばらく同居していた様子が生き生きと描かれている。「青空」の同人仲間もそこへ来ていたようだ)。堀口という植木屋の主人も文学好きで、文学者に部屋を貸すのを喜んでいた。「兎も角、この植木屋さんの二階はこれら新しい作家たちを育んだ巣であったのだ」と述懐している。

戦前モダニズム出版社探検』p295-296

現在の狸穴町というのは麻布台三丁目と二丁目に挟まれた地域になるので飯倉片町に隣接していると言えるが、阪本の記述はそれ以外も同様に正確さを欠くようだ。昭和七年の時点でこれだから人の記憶はあてにならない。

伊藤整は梶井と話をして記憶に残ったことが二つある、という。まず、梶井は志賀直哉が好きで、その文章を書き写したと言ったこと。

「僕は志賀さんの文章に大変感服してゐる。どういふ風にしてかういふ立派な文章ができるかと、あるとき、原稿用紙にその文章を書き写して見た。すると、活字になつたのを見るのとまるで感じが変つてしまふ。すらすら運んでゐるやうな処が、実はごつごつと骨を折つて書いたやうに見える。書いた人の、書いてゐた時の苦心や行き悩みなどが、はつきりと自分にわかつて来る。活字を読むのとは大変な相違だ、大変な相違だ。」

『文学の道』p5-6

念のために言えば、梶井はこれを大阪弁で語ったのである。しかし四歳年下の伊藤は梶井の志賀直哉好きが理解できなかった。世代間ギャップである。

その頃は私は詩を描いてゐて小説をかく気持は無かつたので、彼に言はれたけれども注意して読まなかつた。読むには読んだのだ。しかし私には面白くなかつた。

『文学の道』p7

そして、もうひとつ記憶していることは梶井が語って聞かせてくれたボオドレエルの散文詩「硝子屋」の内容が実際と違っていたこと。

まだ散文詩の翻訳が出ぬ前のことで、英語で読んでゐたやうであつた。一緒に散歩したときに、「散文詩」のことを感動をこめて彼が語つたのを私は思ひ出す。それは硝子屋の話である。

[中略]

 当時私は、まだそれを読んでゐなかつたので、これを聞いたとき、何といふ美しい話だらうと思つた。また梶井基次郎の知人の誰でもが言ふことだが、彼は立派な話手であつた。生彩ある、急所をとらへた話を、美しくはないが変に魅力のある表情と、いい声で楽しさうに語りつづける青年であつた。

『文学の道』p8-9

伊藤は、梶井が硝子屋の背中で粉微塵になったガラスが五色の色ガラスだと話したと記憶していた。ところが後に三好達治の翻訳で読むと、硝子屋は色ガラスを持って居なかったことで追い払われたのだった。

梶井基次郎は私に嘘の話をしてきかせたのだ。そして彼は死んでしまつた。しかしこの話のこの部分に関するかぎり梶井の創作の方が辻褄は合はないにしても美しい。私は変なものだ、と今でもよくこの話のことを考へるのだ。

『文学の道』p10

さらに「櫻の木の下で」(「櫻の木の下には」)のあらましを梶井の口から聞いて感心したのだが、実際、雑誌が出て活字で読んで見ると、梶井の語ったときほど感動しなかったこと、についても書かれている。

その頃北川冬彦や春山行夫が「詩と詩論」といふ季刊雑誌を計画してゐた。二百頁ほどの上質の紙を使つた立派な雑誌で、後年色々な功績を残すことになつた季刊雑誌の最初のものである。それの創刊号に梶井基次郎は「櫻の木の下で」をのせると言つてゐた。彼は自分の作品のことを書く前に人に話す癖があつた、と北川冬彦が言つてゐたけれども、それは本当のやうであつた。この作品のことも書かないうちに私は聞いた。そのときも彼の話かたは実に見事で、私は聞いてから、
「いいですね、それはいい作品になりますね」
 と興奮したのであつた。

『文学の道』p11

私は、話で聞いたときの興奮を忘れずにゐたので、すぐさまそれを読んだ。そして、私は軽い失望を感じた。その組まれ、印刷された活字面には、日光浴で真黒になつた目の細い顔で、白く歯を出して梶井自身が語つたとき程の魅力がなくなつてゐた。無駄がなく整理されてゐたために、彼が話した時のやうな滋味が湧いて来なかつた。私は書かれたその作品に失望した。

『文学の道』p11-12

そしてこう結論している。

私が失望したのは、彼の話しかたがあまりに素晴らしかつたためである。そして今でも彼はこの作品をあの話の輪郭として見、話の味を思ひ出す糸口としてやつぱり美しいと思つてゐる。 

『文学の道』p12

梶井の短編にボードレールのイラついた作風の影響があるのは納得できる。「檸檬」などもそうだろう。「櫻の木の下には」はシュールだが、思いつきが目立って、それほどの作品とも思えない。梶井の話術で聞いたらまた違うのだろうが。あるいは、筆写してみると、読むのとは違った苦心が見えてくるのかもしれない。

梶井基次郎全集年譜によれば、梶井の読んでいたボードレール『パリの憂鬱』はやはり伊藤の言うようにアーサー・シモンズの英訳だった。昭和二年から三年にかけて座右の書として書き写したりしていたようだ。

「硝子屋」の原タイトルは「Le Mauvais Vitrier」で英訳は「The Bad Glazier」。すでに昭和三年には高橋広江訳で青郊社から『巴里の憂鬱』が出ており、三好達治訳が厚生閣書店から出るのは昭和四年十二月である。なお「Spleen」(ボードレールは英語を使っている)を「憂鬱」と訳したのはかなり問題があるような気がする。スプリーンはもっと悪意がある。

[Le Spleen de Paris] Petits poëmes en prose - Les Paradis artificiels
Edité par Michel Lévy frères, 1869  初版本

Charles Baudelaire, Le Spleen de Paris
https://www.vousnousils.fr/casden/pdf/id00268.pdf

Arthur William Symons, Paris Spleen
https://books.google.co.jp/books?id=15craP5h4O4C&pg=PR5&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false


また「櫻の木の下には」の『詩と詩論』掲載については次のような経緯があった。

昭和三年
九月
 十三日、北川冬彦から九月に創刊した詩誌『詩と詩論』の次の号に「櫻の木の下には」を載せてよいかと打診してきたのに対して、原稿を送った〔書簡二八五〕。これは一度、湯ヶ島から北川宛に送ったものだが、納得のゆくものではなかった。
十二月
 五日、『詩と詩論』第二冊に「櫻の木の下には」、「器樂幻覺」が掲載された。

2000年版梶井基次郎全集年譜、p483

伊藤整が創刊号に載せると梶井が語ったというのは、実際そのつもりだったのかもしれないが、作品の出来に納得できずに、書き直して二号へ掲載となったようである。

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