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「アカシア」の中に音楽がかかっていた。自分の体の中にぽっかりと穴があき、そこに血のようなもの、黒い液体のようなものがつまっていた。


中上健次『枯木灘』(河出書房新社、52年5月27日、装釘=中林忠良)

いつもの均一コーナーにて『枯木灘』初版を発見。少し汚れてはいるが、函、帯、グラシン、栞も揃っている。お買い得だった。

中上健次でまず思い出すのはその自筆原稿である。たしか京都の丸善だったような気がするのだが、著名作家たちの自筆原稿の展示会があった。そこに並んでいた字間も行間もなくビッシリと文字の連なりが紙(原稿用紙でさえなかった)を埋めている中上の原稿には唖然とした。もうアート作品としか見えなかった。

中上は喫茶店で執筆することで知られており、新宿中央公園前の「珈琲ブラジル館四丁目店」を愛用していたとのこと。『枯木灘』にも「アカシア」という喫茶店が重要な背景として登場しているので、何箇所か引用しておく。

 夜の闇を歩いてきたせいか、「アカシア」の店内の照明が眩しかった。「藤田」はシャッターをおろしていた。秋幸は同級生だった店の男に眼で挨拶し、夜の冷えた空気の中を意味もなく随分歩いてきた気がした。自分の体の中の暗がりを歩き廻って来た、と思った。
 酒を飲もうかと迷い、コーヒーを頼んだ。

p69

「アカシア」の中に音楽がかかっていた。自分の体の中にぽっかりと穴があき、そこに血のようなもの、黒い液体のようなものがつまっていた。「アカシア」の窓硝子に秋幸の顔が映っていた。昼間土方をやっている時とは、まるっきり違って見えた。日の光は外のどこをさがしてもない。日にさらされる木や草に、今なりたい。その男のことを思う度に、それを感じた。
 秋幸は立ちあがり、カウンターの横の赤電話で美恵の家に電話を掛けた。 

p71

「アカシア」の中で徹がコーヒーを、秋幸は砂糖をスプーンで五杯入れて甘ったるい砂糖湯のようになった紅茶を飲んだ。秋幸は小声で徹に、本当はクリームパフェが食べたいと言った。「土方が女の子みたいな食い物食っとるとわらわれる」と言うと、徹はその冗談を真に受け、「かまうか、気にせんと食え」と言う。本当は甘ったるい物は口に含むだけでいやだった。
 雨の中を「藤田」の女事務員がドアを開けて入ってきた。徹が気を利かして注文してくれたクリームパフェを食っている秋幸を見て、「よう似てますな」と言った。女に秋幸は、「誰にや」と訊く。
 「このごろ酒はもう要らん、甘いもんばっかりで充分やと言うて、そんなもん食べてましたよ」
 女は横のテーブルに坐った。 

p85

 五郎はホットケーキを食った。徹はテーブルの壁際に取りつけてある占いの機械のレバーを金も入れずにパチパチ音をたてて弾いていた。秋幸は椅子に背中をもたせかけ、そっくり返る格好でコーヒーを飲んだ。いまさらながら大きな男だった。乗馬ズボンをはいた脚を椅子の外に出している。五郎が半分ほど食って不意にホットケーキを食うのを止めた。顔をあげた。「どした?」と秋幸が訊いた。「毛」と五郎が言い、その男がその皿をのぞく。男は手をさし出してウェイトレスを呼んだ。ウェイトレスにマスターをここへ呼べと言った。「こんなもの客に出したらあくもんかい」マスターに五郎の食いかけのホットケーキの入った皿をさしだした。 

p180-181

 日の暮れと共にダンプカーを運転して掘り割のそばに徹を送った。「アカシア」に紀子を呼び出したのは、どんな理由も他になかった。秋幸はただ紀子に会いたかった。公園の水銀灯を受けて一面に銀色の産毛がはえて見えた乳房に触れたかった。抱きしめたかった。抱きしめられたかった。
 秋幸は文昭に借りて車を用意していた。流れていたレコードの音が止むと、「アカシア」の店内まで、拡声器で流している民謡がきこえた。マスターがカウンターの中から身をのりだして棚のムード音楽のLPを取り、「あんな盆踊りの歌きいとるとつらくなってくるな」と話しかけた。 

p196

 丁度「藤田」の前に出る通りで車を右に廻した。「アカシア」の前に車を横づけにした。「アカシア」の中に入り、秋幸は紀子の家に電話した。徹は秋幸を見ていた。紀子は家に来ないか、と誘った。秋幸がことわると、すぐ来ると言った。 

p220

 秋幸はコーヒーを飲んだ。
 紀子が入って来たのは、徹がレコードを替えに行った時だった。紀子は秋幸の隣りに坐り、「水着持って来たんよ」と小声でささやいた。「せっかくやから、二人で泳ぎに行かへん?」 

p220

昭和な喫茶店がうまくストーリーのなかに取り入れられている。電話(10円玉が使える赤電話は1955年から)は必須の設備であった。また《占いの機械》はたしかにどこの喫茶店にも置いてあったような気がする。これは「おみくじ器」というようだ。

また客が勝手にレコードを替えるのもローカルな店ならではではないか。民謡にシンパシイを感じられないマスター好みのムード音楽はポール・モーリアやヘンリー・マンシーニだろうか。「アカシア」という店名も舞台となった町に意味ありげな色合いを与えている。黄色いアカシアの花言葉は「秘密の恋」。

本作の初出は『文藝』昭和51年10月号〜52年3月号ということだが、おそらく作品の時代背景はもう少し前になるのだろう。

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