常日頃から喫茶店文学を収集しているのを知って協力してくれる方からこの本が届いた。小笠原貴雄については全く知らなかったので検索してみた。
他に、タレント中川翔子の母方の祖父だという情報もあった。詳しいのは小田光雄氏のブログ「出版・読書メモランダム」である。
古本夜話608 文芸誌『風雪』、風雪社、小笠原貴雄『風雪』
https://odamitsuo.hatenablog.com/entry/20161211/1481466770
本書には短編小説五篇が収められている。いずれも私小説と思っていいようだ。
表題作「ゴーゴリ喫茶店」は、(早稲田)大学正面にある喫茶店を舞台に、そこに集まる論客や作家や画家、学生などの左翼文化人を経営者のマダム一家ともどもに、非常にリアルにというか、かなり露悪的に、描き出している。登場人物は変名になっているが、すべて実在の人物であろう。そのなかに小瀧初雄という作家がいる。
ところが、である。
小瀧初雄は尾崎一雄である。昭和12年上半期の第五回芥川賞を『暢気眼鏡』(砂子屋書房)で受賞している。とすればゴーゴリ喫茶店のドタバタ劇はその当時ということになるわけだ。
《プロ作家の鍋元》は鍋元豊で、《四年前に中央公論へ書き、それから官憲の圧迫で書けないが、まあプロ文芸ぢやア小林多喜二か鍋元だろうな》とも書かれていることから徳永直(《1933年、『中央公論』に「創作方法上の新転換」を発表、文学の政治優先を主張する蔵原惟人らを批判し、日本プロレタリア作家同盟を脱退した。》ウィキペディア)だと分かる。
当時、芥川賞を受賞するということがいかに晴れやかだったかが分かる描写ではないだろうか。ただし、尾崎一雄はいきつけの質屋の主人から「尾崎さんもこれで私共と縁切れにおなりになつてまことにおめでたいことです」と言われたにもかかわらず、一月後、芥川賞の賞品のロンヂンの懐中時計を預けに行ったそうで、そのとき「質屋の主人は実にがつかり顔をした」とか(尾崎一雄「受賞といふハプニング」)。
他には就職活動とその結果入った雑誌社のやりきれない状況を描いた「虹」もそのリアリティは出版史として非常に興味深い。石川武美の『主婦の友』の特殊な社内事情が鳥肌ものでうかがえる(むろん仮名にはなっているが)。戦時中の徴用の実態を描いた「月光」もなかなか。B29の爆撃シーンは迫真だ。
「あとがき」によれば、小笠原は、戦争が終わって、生き残った先輩や仲間たちと雑誌『風雪』を始めて、ふたたび小説を書き出した。
雑誌『風雪』時代の苦労については『風雪』(彌栄出版、1977、遺稿)という小説を執筆しているようなので、そちらも機会があれば読んでみたいと思っている。
『喫茶店文学傑作選 苦く、甘く、熱く』(林哲夫編、中公文庫、2024年8月25日)8月20日発売予定日。
喫茶店文学傑作選 苦く、甘く、熱く
https://bunko.sumikko.info/item-select/4122075505