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毎日書物三冊宛読ムトキハ


西尾吉太郎+林小弥太『改正増補珠算問題巻之三』(真部武助、明治十二年七月出版)

改正増補珠算問題巻之三』の表紙に貼付されているブック・プレートに引きつけられて求めました。凝ったケイで囲まれている文字はこう読めます。

 赤城簡易小学校 第二四号 二

左上の四角い印は「兵庫県氷上郡公立赤城小学校」でしょうか。簡易小学校というのは次のようなものでした。

小学校令が公布された明治十九年当時、日本全国の学齢児童の三分の二は、授業料を払うことのできない貧困家庭に属していた。森文部大臣はそれらを入学させる手段として、簡易科設置を実施した。簡易小学校は授業料を徴収せず、教科書は学校で貸与した。また、児童の就学が家庭内の労働力を奪うことを考慮し、授業時数は一日に二時間以上三時間以内に抑えた。学科は読書、習字、作文、算術とし、算術は総授業時数の半ば以上たるべきとした。また、簡易科に限って、学校経費は全額区町村が支出することとした。
 十九年七月県が小学校簡易科の教則を定めると、中津軽郡の大半が簡易科設置に踏み切った。郡はこれで未就学児童が大幅に減少するものと期待した。ところが事実は逆で、簡易小学校の設置はかえって未就学児童の増加を促した。その原因の一つは、やはり学費の問題があった。簡易科は授業料や教科書が無料になっただけで、学用品代や通学に用する服装などの出費、通学による児童の家庭内労働力の流出など、就学には父母の経済的負担がつきまとっていた。原因の二つ目は、簡易小学校が貧民学校視されて、差別と蔑視を受けたことが挙げられる。
 経済的犠牲を払って、子どもを就学させたものの、尋常小学校の児童に蔑(さげす)まれ、露骨な差別を受けたのでは児童はもちろん、父母にとっても堪えがたい苦痛だったに違いない。事実、簡易小学校は、児童ばかりでなく担任する教員までが、簡易科教員の名称で、小学校訓導や尋常科教員より低い地位に置かれた。このような差別が簡易科の不振につながり、森文部大臣の遠大な計画と期待にもかかわらず、明治二十三年公布、同二十五年実施の改正小学校令のもと、簡易小学校はわずか数年で小学校現場から消滅した。 
弘前市立弘前図書館/簡易小学校について 
https://adeac.jp/hirosaki-lib/text-list/d100040/ht020910

弘前市立弘前図書館/簡易小学校について

なかなか難しいものですが、とにかくこの珠算問題集は無料で貸し与えられた書物の一つだったと考えていいようです。

問題のなかに書物に関するものがいくつかあります。

乗法

百三十六 毎日書物三冊宛読ムトキハ十七日ニハ幾冊ヲ読ムベキヤ
百四十八 書物アリ一枚ハ二十二行ニシテ一行ノ字数十五字ナルトキハ一枚ノ字数幾何ナリヤ
百五十二 書物一部ノ値金十五円ナリ今此書物百五十五部ノ代価幾円ナリヤ

加減乗雑題

五  童子書物ヲ副読スルニ午前十五枚午後ニ二十八枚ト此ノ如クスルコト七日ニシテ幾枚ヲ読ムヤ
十一 紙数三十六枚ノ書物ヲ五十五冊写スアリ其中八百四十六枚ハ既ニ写シ終レリト残リ紙数幾枚ナリヤ

22行15字組は横長な本ですねえ。「一枚」は「一頁」の意味のようです。書物が一部15円というのも、明治15年としては驚きの値段ではないでしょうか。おそらく当時の1円は現在の1万円ほどの価値はあったと思います。書物を写すというのは徳川時代以来の伝統的な勉強法でしたから、問題としてはごく自然なのでしょう。

計算問題集にも面白い発見があるので見逃せません。

表紙見返し


序文
本文1頁目
問題の一部
奥付

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