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覗眼鏡を通して、里見八犬伝を教へられ、鈴木主水伝を教へられた


『書斎』第4巻第7号、三省堂、昭和15年7月1日、表紙(葡萄)中島亀三郎

三省堂が戦前に発行していたPR雑誌である。この号には、成瀬無極、沖野岩三郎、斎藤瀏、邦枝完二と筆達者の名前が並んでおり、さすが『書斎』という感じがする。この雑誌に執筆されたエッセイを集めた『父の書斎』(三省堂、昭和18年)は本好きにはたまらないアンソロジーになっている。

『父の書斎』
https://sumus2013.exblog.jp/31340339/

先日取り上げた高倉輝の『阪』にも登場していた成瀬無極は「書斎を出る」と題して、原稿に行き詰まって琵琶湖へ出かけてゆき、宿に泊まったが、それでも持参した風呂敷包みには書物が入っていた、というような内容をやや大げさに描いている。

何しろ、何万冊ありますか、この図書部の本といふ本は一冊のこらず空で憶えてゐるんですからね
https://note.com/daily_sumus/n/n4079aa1ab7e7

面白いと思ったのは沖野岩三郎「絵と眼鏡」。フランス帰りの友人の画家の展覧会を沖野が主催したとき、来場者の一人が右手の指で望遠鏡を作って絵を見ていたことに感心してしまう。そこから幼年時代の「のぞき眼鏡」の思い出が誘い出される。

沖野岩三郎(1876-1956)は海岸から二十里も離れた山奥(和歌山県日髙郡美山村)に生まれたから、美術品などとは無縁に過ごした。

けれども唯ひとつの楽しみは、毎年一回越中富山の薬屋が、薬の置替に来た時、木版摺の絵を二三枚置いてくれる事であつた。薬屋の名前は広貫堂、つぼや、などで、広貫堂の絵がいちばん大きかつた。
 私は其の薬屋のくれる絵で、鏡山下女のお初を知り、千本桜、鎌倉三代記、一の谷ふたば軍記などの芸題を知つたのである。

p8-9
根塚伊三松『売薬版画 おまけ絵紙の魅力』巧玄出版、1979 より

そしてさらに沖野少年の美術眼を進めてくれたのは春祭りと秋祭りにやってくる覗眼鏡屋であつた。子供らはこれを『のぞき』と呼んでいた。

 小さい舞台を組み立てて、絵看板を掲げる。そして、年若い女が鞭を振り振り歌を歌つて説明する。三人が一組になつて、腰をかがめて眼鏡に片眼を当てて覗く。
 『え……鈴木主水といふさむらひは……』と、歌ひながら紐を引くと、絵が替るのである。一枚の絵が引き上げられると、次の絵がどすんと音を立てて落ちて来る。
 私たちは、此の覗眼鏡を通して、里見八犬伝を教へられ、鈴木主水伝を教へられたのである。

p9
覗きからくりの屋台 大正初期(Wikipedia「のぞきからくり」より)

しばらくすると覗く対象が絵から写真になる。

 此の覗眼鏡の更に進歩したものが来た。それは眼鏡が前のものの三四倍の大きさで、中には写真が並べてあつた。五人が一度に眼鏡の前に屈みこみ、中の写真を覗いてゐると、豆絞りの手拭を鷲掴みにした男が、覗いてゐる人の肩を軽く押へながら、
 『あなたの御覧なさるるは、日光五社山江戸が崎……あなたの御覧なさるるは、東京は芝高輪の泉岳寺……』と、いふやうに一一説明して、順繰りに一通り見せるのであつた。
 『何と立派に見えるものだ。』
 それは、眼鏡への讃嘆の声であつた。同じ眼鏡で日清戦争の絵を見せたり、歴史ものの絵を見せたりした。

p9-10

さらにその次には《一疋の馬が千疋に見える眼鏡が来た》そうだ。そうして発音機(蓄音機)が村の祭礼に来るようになってからは覗眼鏡屋の方は来なくなった。次いで幻灯会がやって来た。

沖野が初めて活動写真と言うものを見たのは町に住むようになった頃だった。和歌山市の師範学校へ入ったときであろう。

其の頃の活動写真は、物語類は無く、海だとか川だとか、景色が多かつた。一疋の馬が走つて来て、尻尾をふるといふやうな所で、見物はわつと沸いたものである。
 それが稍進歩して、火事の光景が映されたりした。私の知つてゐる老婆は、それを見て早速家へとんで帰り、ばけつへ水をくんで入口に置いて寝たといふ実話もある。

p11

1896年(明治29年)11月、高橋新治が輸入した「キネトスコープ」(当時はニーテスコップと呼ばれた)が神戸市花隈の神港俱楽部で初めて興行され、フランスから帰国した稲畑勝太郎がシネマトグラフの映像を大阪市戎橋通りの南地演舞場で上映したのが日本初の「映画興行」である(Wikipedia「活動写真」より)。当時、沖野は20歳だった。

 活動写真がまだ映画といふ名にならない頃、俳優は誰であつたか忘れたが、不如帰の写真が、私のゐる町へ来た。芝居と違つて、本物の逗子の海岸が見える。活きた武男と浪子が出て来る。説明の弁士が涙を揮つて愛別離苦を説いた。それを見た或官吏の細君は、急に世をはかなんで、劇場から吾が家へは帰らず、海岸に行つて身を投げたのであつた。当時の活動写真は、それほど見物に迫つたものである。じごまを見て、不良をやるのは当然のことであつた。

p11

《不如帰の写真》は徳富蘆花のベストセラー小説『不如帰』(『國民新聞』明治31〜32年連載、33年単行本)をもとにした映画のことだろう。それならば明治42年公開が最初だったようだ(Wikipedia「不如帰(小説)」)。

《じごま》は『ジゴマ』(Zigomar)、レオン・サジイ(Jean Eugène Léon Sazie)によるフランスの怪盗小説シリーズ。これを原作とした映画は、明治44年(1911)に封切られ、日本で爆発的なブームとなり、子供への影響から映画の上映禁止にまで及んだ(Wikipedia「ジゴマ」)。

 明治などは、現在からすれば、のんびりした時代と思いがちだが、メディアの消長は今と変わらないくらいめまぐるしかったのかな、と思わないでもない。

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