「人間をやめること」
最近の考えていることを一通りまとめてみた。
なぜかというと数秒の自己紹介で自分の考えを伝え切るのが難しいからである。
自己紹介の際に、まずはこれを読んでくれって言うことにしたい。
序文から、8章つづいて、最後まとめという流れ。
少し長いけど、ぜひ読んでもらいたい。
序章: 人間をやめる旅
1. 人間をやめるとは何か
「人間をやめる」という概念は、単なる生物学的存在としての人間から脱却し、より広範で新しい存在の形を模索する試みである。これまでの歴史において、人間はその知性や技術の力を用いて自らを進化させ、周囲の世界を支配しようとしてきた。しかし、その過程で、私たちは自身を「人間」という狭い枠組みに閉じ込め、多様な可能性を見失ってきたのではないだろうか。
「人間をやめる」とは、この固定観念から解放され、異なる視点から自己を再定義し、既存の限界を超えて変化を遂げることを意味する。またこれまで打ち立ててきた、「人間様」という立場を自ら進んで降りることも意味する。生物学的な変化・進化のみならず、精神的、社会的な変革も含め、私たちはこれまでの「人間」の枠組みを超え、はたまた枠組みを変え、新たな存在の形を探求する必要があるのだ。
2. なぜ人間をやめる必要があるのか
人間中心主義は、私たちが地球上の他の生命や環境との関係を歪めてきた一因である。私たちは他の生命を犠牲にし、自然を支配し、世界を自らの都合に合わせて形作ってきたが、その結果として環境破壊や社会的不平等が生まれた。このような状況を改善するためには、私たち自身の在り方を根本的に見直し、これまでの人間中心的な考え方を超える必要がある。
また、技術の進化により、人工知能やバイオテクノロジーが発展する中で、私たちの「人間」としての定義も変わりつつある。これからの未来において、私たちは自己のアイデンティティや存在の意義を再考し、新しい存在の形を模索することが求められる。
3. 異種間の概念
異種間とは、人間を含む様々な生命体が共生し、相互に影響を与え合いながら生きる状態を指す。世界は関係性できているのだ。これまで人間は、自らを他の生物から分離し、特別な存在とみなしてきたが、実際には私たちもまた自然界の一部に過ぎない。異種間の概念を取り入れることで、私たちは自己と他者、自然との関係を再定義し、共生の可能性を探ることができる。
この概念に基づき、私たちは人間という枠組みを捨てて、超えていける。他の生物や時には人工知能、さらには未知の存在との、新たな関係性を築くことができるだろう。異種間の視点から見ることで、私たちの認識は広がり、世界や未来に対してより深い理解と共生が実現するのだ。
第一章: 人間とは何か
1. 人間の歴史とその限界
人類の歴史は、進化とともにその姿を変え、文明を築き上げてきた過程である。石器時代の狩猟採集社会から農耕の発明による定住化、そして産業革命による都市化と技術革新に至るまで、人類はその知恵と技術を駆使して環境を制御し、繁栄を追求してきた。しかし、この進化の過程で、私たちは自身の限界をも顕在化させた。
この限界とは、私たちが自己を人間という枠組みに閉じ込め、その外にある可能性を見過ごしてきたことにある。人間の歴史は、他の生命や環境に対する優位性を主張し、それを支配しようとする試みの歴史でもあった。しかし、この支配的な姿勢は、地球環境の悪化や他の生物の絶滅、さらには人類自身の存続を危うくする危機をもたらしている。
さらに、科学技術の進化に伴い、私たちは新たな限界に直面している。人工知能やバイオテクノロジーは、私たちの身体や知性の枠を超えた存在の可能性を示しているが、それと同時に「人間とは何か」という根本的な問いに直面させている。この問いに答えるためには、私たちは従来の人間中心的な考え方を超えて、自己を再定義する必要がある。
2. 人間中心主義の問題点
人間中心主義は、私たちが地球上の他の生命や環境に対して、支配的な立場を取る根本的な思想である。この考え方は、私たちが自らを特別な存在とみなし、他の生物や自然環境を利用する対象と見なすことを正当化してきた。しかし、この思想は持続可能な社会や環境を築く上で重大な問題を孕んでいる。
第一に、人間中心主義は、環境破壊や生物多様性の喪失を引き起こしてきた。私たちは自然資源を無限に消費できるかのように振る舞い、その結果、気候変動や生態系の破壊といった深刻な問題を招いている。また、他の生物との共存を無視することによって、私たちは自然界のバランスを崩し、自らの生存基盤を脅かしている。
第二に、人間中心主義は、社会的不平等や人間同士の対立をも助長している。自らを他者よりも優位に置く考え方は、他の文化や民族、さらには他の人間をも支配しようとする傾向を生み出す。このような姿勢は、社会的な格差や紛争を引き起こし、共生の精神を阻害している。
3. 新しい人間の形としての異種間
異種間という概念は、私たちが従来の人間中心主義を超えて、自己を他の生命や存在と共に捉える新しい枠組みを提供するものである。人間を「人間」という狭いカテゴリーに押し込めるのではなく、異なる生命や存在との共生を前提とした新しい形を模索することで、私たちはより広く高い視野と深い理解を持つことができる。
この異種間の考え方は、私たちが他の生物や人工知能、さらには未解明の生命形態と共存し、相互に影響し合うことを可能にする。人間だけが特別な存在ではなく、他の生命や存在もまた価値を持つものであり、それぞれが独自の役割を果たしていることを認識することが重要である。
異種間の枠組みを採用することで、私たちは自己の存在をより広い文脈で再定義し、新たな倫理や価値観を構築することができる。この新しい人間の形は、共生と相互理解を基盤とし、持続可能な未来を築くための道筋を示しているのだ。
4.アイデンティティについて
アイデンティティとは、一見すると私たちの存在を支える確固たる土台のように思える。しかし、それは果たして本当に安定したものなのだろうか。「我思う故に我あり」という命題は、人間の存在を意識と結びつけ、自己の確立を強調する。しかし、この考え方は、あまりに自己中心的であり、存在の本質を狭める可能性がある。
そもそも、中心はどこにもない。我々は、自己の中心を求めるが、それは幻想に過ぎない。世界もまた、中心を持たず、ただ無数の関係性の中で揺れ動いている。自己とは、他者や環境との相互作用の結果であり、固定されたものではないのだ。
あるのは、ただ「あるがまま」の状態である。我々は、そのままで存在しているに過ぎない。アイデンティティを求め、確立しようとする行為は、逆に私たちを縛り、制限する可能性がある。本当の自由とは、自らを定義することをやめ、ただ存在し続けることなのだ。中心を求めず、あるがままに生きることで、私たちはより豊かな存在を享受できるはずである。なので、我思う故に我ありから始まるな。さらには、これほどまでに微生物を体に宿している我々にとって、自分とはなんなのか。そんなことはもはや分かりっこないのだ。
5.創作についての所感
創作とは、私たちが自身の存在を表現し、世界と対話するための行為である。創作は単なる技術や才能の問題ではなく、もっと深いところで私たちの身体性と結びついている。創作は、身体性を復活させる活動であるといっても過言ではないだろう。現代のデジタル社会において、私たちは身体性を忘れがちであるが、創作を通じて再びその存在感を取り戻すことができるのだ。
創作はまた、生き心地を得るための行為でもある。創作することで、私たちは自己を表現し、自己を理解し、自己を超越する。これこそが真に生きることだといえる。創作は自己満足や趣味の範囲を超えて、人間の根源的な欲求に応える行為なのだ。
全員が創作できるはずだ。創作は特権的な行為ではなく、誰もが持つ潜在的な能力である。創作を通じて、私たちは自己を再発見し、自己を確立し、そして自己を超えていくことができるのである。創作は、私たちがより人間らしく、そしてより自由に生きるための道であるのだ。Create or die !!!
第二章: 身体性と自然
1. 身体性の重要性
人間の存在は、常に物理的な身体に依存してきた。身体は、我々が世界と接触し、経験し、理解するための最も基本的な手段である。近代においては、テクノロジーの進化や都市の発展に伴い、脳化が起こり、身体性の重要性が軽視される傾向があるが、これは人間の根本的な存在意義を忘れる危険性がある。身体を持つことの意義は単なる物理的な存在に留まらず、我々の認識、感覚、そして世界との関係性を改めて意識するものである。さらには、現実感を強く認識する方法でもある。生きる、ということを感じ取るためには身体性は不可欠なのである。
2.都市空間と自然空間
都市空間は、効率と機能性を追求するあまり、身体性を犠牲にしている。コンクリートに囲まれた街並みや、無機質な建物群は、人間の身体にとってあまりにも異質であり、自然との調和を失った存在である。これに対し、森や山、川、海といった自然空間は、身体が本来あるべき場所とも考えられる。これら空間は、我々が心身共に健康であるために不可欠な要素を提供する。自然に身を置くことで、我々は身体の本質を再認識し、都市が失った感覚を取り戻すことができる。
3.身体性の復活と世界の再認識
世界を正しく認識するためには、身体性の復活が不可欠である。都市空間が提供する虚構の快適さから離れ、自然の中で身体を解放することが求められる。自然との一体感を再び取り戻すことで、我々は自身が自然の一部であることを再確認できる。身体性を再評価し、これを基盤として新たな世界認識を構築することこそ、現代社会が抱える諸々の問題を解決するための処方箋となるのである。
第三章: 電脳狩猟採集民族共同体
1.古代の狩猟採集社会との比較
人類は長い歴史の中で、狩猟採集社会から始まり、農耕社会、産業社会、そして情報社会へと進化してきた。狩猟採集社会では、人々は自然と共生し、必要な資源を直接自然から得ることで生計を立てていた。彼らの生活は、自然のリズムに深く根ざしており、無駄のない持続可能な社会が形成されていた。
一方、現代社会では、技術の進歩に伴い、人々は自然から離れ、都市という人工的な環境の中で生活している。これにより、自然との繋がりが希薄になり、環境破壊や資源の過剰消費といった問題が顕在化している。古代の狩猟採集社会の知恵を取り入れることで、現代社会の問題を解決するヒントを得ることができる。
2.テクノロジーと自然の融合
電脳狩猟採集民族共同体という新たな概念は、テクノロジーと自然を融合させることで、持続可能な社会を実現する試みである。ここでの「狩猟採集」は、単に自然からの資源採取を指すのではなく、デジタル技術を活用して情報やエネルギーを効率的に収集し、利用することを意味する。これにより、現代の高度な技術を活用しつつ、古代の持続可能なライフスタイルを再現することが可能となる。
例えば、個人がエネルギーを生成するシステムや、食料を自分で培養する技術を駆使することで、社会全体が自然と調和し、資源の無駄を最小限に抑えることができる。さらに、これらの技術はインターネットを通じてグローバルに共有され、コミュニティ全体が協力して資源を分かち合う新しい経済モデルを構築する。
3.持続可能な社会への道筋
電脳狩猟採集民族共同体は、持続可能な社会への一つの道筋を示している。このモデルでは、テクノロジーを駆使して資源を効率的に分配し、必要な分だけを採取することで、自然環境を保護しつつ人類の生存を確保することができる。これにより、従来の大量生産・大量消費型の経済モデルから脱却し、持続可能な社会を実現することが目指される。
このような社会では、個々人が自分の生活に責任を持ち、自らの手で必要な資源を得ることが奨励される。自ら立つ、という感覚である。これにより、コミュニティ全体が協力し合い、無駄のない生活を営むことが可能となる。電脳狩猟採集民族共同体は、未来の持続可能な社会の一つのビジョンであり、テクノロジーと自然を調和させる新しい形態の共生モデルである。
第四章: 生と死の再考
生と死の本質を問う
生と死は、人間存在の根幹にある不可避の現実である。だが、現代社会においては、この二つの概念はしばしば深く考察されることなく、日常の中で流されてしまう。生きることとは何か、死とは何か、その本質を再び見つめ直す必要がある。生と死は単なる対立関係ではなく、一体となって存在するものである。この理解が、私たちがより豊かな人生を歩むための鍵となる。
資本主義と生命の外部化
現代の資本主義社会では、生命そのものが商品として外部化され、その価値が経済的な尺度でのみ測られるようになっている。殺生や死の現実は目に見えない場所へと追いやられ、スーパーマーケットで手に入る食品は、その背後にある命の犠牲を感じさせない。この外部化は、生と死の本質から目を背ける一因となり、私たちが本来持っているはずの生命への畏敬の念、感謝の念を希薄にしてしまっている。
狩猟と持続可能な社会
狩猟という行為は、自然との直接的な関わりを通じて生と死の現実を体感する手段である。現代において狩猟を行うことは、単に過去の伝統を踏襲するだけではなく、持続可能な社会を模索する一つの道筋となり得る。狩猟を通じて、自らの手で食料を得ることは、嫌々しいことも含めて、生命のサイクルに対する理解を深め、自然と共生するための重要な経験である。近頃の虚構人間が言うようなものではなく、本当の意味で持続可能な社会を実現するためには、生命の尊厳を再び取り戻し、生と死の現実にしっかりと正面から向き合うことが不可欠なのである。「殺さなくてもいいのになんでわざわざ狩猟なんてするの」と言う質問をする輩はバカである。その輩は常日頃から陳列されている、かつては生命だったモノについて、何も想い馳せることのできない、想像力の欠如した禍々しい人間とでも言おうか。
第五章: 成長しないという成長
経済成長とその限界
経済成長は、近代社会における成功と繁栄の象徴であり、持続的な発展を目指す原動力とされている。しかし、無限の成長が可能であるという考え方は、限られた資源と環境に対する過剰な負荷を生むものであり、持続可能性を脅かすと思う。経済成長の限界が現れたとき、それは単なる物質的な豊かさを超えた、新たな価値観と目標の再構築を意味する。経済的な成長がもたらす利益と、その背後に潜むコストとの間に存在する緊張関係を理解することが重要である。
脱資本主義とやらへの道
資本主義の枠組みを超えるためには、新たな経済モデルの導入が求められる。脱資本主義とやらは、単に既存の経済体系から脱却することではなく、社会の根本的な価値観や目標を再定義することを意味するのではないか。共有経済や協同組合、地域経済の強化、DAOなど、資本主義に代わる可能性のあるモデルを探ることが重要である。これらのアプローチは、物質的な成長に依存しない、心象経済なるものなど、新たな経済の形を模索するものであり、持続可能な社会の実現に向けた一歩となる。
何もしないことの意味
「何もしないこと」とは、単なる怠惰や無活動を指すのではなく、意識的な沈黙や内面の探求を意味する。この概念は、成長や変化の圧力から解放され、現状の理解と受容に至るための手段である。何もしないことにより、私たちは自己の内面と向き合い、外部からの刺激や目標に依存しない、より深い理解を得ることができるはずだ。このアプローチは、成長を目指すのではなく、存在そのものを見つめ直すことで、本当の自己変容を促すものである。そして、自分の認識が変われば世界は変わるのだ。何もしないことの意味を理解することで、私たちは成長しない中にこそ、真の成長が潜んでいることを見出すことができる。
第六章: 新しい自然とバーチャルの融合
バーチャルとリアルの境界
バーチャルとリアルの境界は、テクノロジーの進化によりますます曖昧になっている。デジタル空間と物理的な現実が相互に影響し合い、私たちの経験や認識を形作る。バーチャルな環境は、現実の制約を超えた新たな体験を提供し、リアルな世界に新しい可能性をもたらす一方で、物理的な存在感や身体性との連携も求められる。これにより、両者の統合が進み、私たちの世界観は大きく変容しているのである。
新しい自然の創造
新しい自然とは、従来の自然観を超えて、テクノロジーと自然の融合によって創造される新たな環境である。つまり、再野生化ではなく、新野生化である。野生に存在する、不愉快さ、アンコントロールな物事も勿論取り入れるのだ。
これには、バーチャルな自然景観やシミュレーション技術を用いた自然の再現、さらには再設計された生態系が含まれる。新しい自然は、従来の自然の美しさや機能を維持しつつ、テクノロジーの力を借りてその可能性や不愉快さを拡張するものである。私たちは、テクノロジーを駆使して、より持続可能で適応性、現実性の高い自然環境を創造し、新たな生態系の形成を目指す必要があるのではないか。
世界観認識の転換
新しい自然とバーチャルの融合は、私たちの世界観を根本的に転換する力を持っている。従来の物理的な世界に対する認識が変わり、デジタルと物理が交錯する新しい形の現実が受け入れられるようになる。これにより、私たちは物理的な存在を超えた新たな価値観や存在の意味を再考することになる。新しい世界観は、デジタル技術と自然の融合によって広がり、より深い理解と新しい体験、すなわち新・野生化を提供する。その結果、私たちはより包括的で多様な現実を受け入れ、変化する環境に柔軟に適応する能力を身につけることができる。そうして自然に畏敬の念を抱き、新たな自然を奉り、祭を執り行うのだ。
第七章: 地球の未来と人類の存続
地球が消える日
地球が消える日、つまり、太陽が赤色巨星へと膨張し、最終的に地球を飲み込む時期は、約10億年後と推定されている。この過程で、太陽の輝きは増し、地球上のすべての海水は沸騰し、現存する生命は絶滅するであろう。最終的には、地球そのものが太陽によって焼き尽くされ、生命の宿る場所はなくなる。この壮大な終末のシナリオは、私たちに長期的な視点で未来を考える必要性を喚起するものである。
宇宙での人類の存続方法
地球が消失するその時に備え、人類は宇宙での存続を模索する必要がある。そのためには、いくつかの戦略が考えられる。まず、①他の惑星や衛星への移住が挙げられる。火星や他の天体における居住可能な環境を作り出すことが求められる。また、②棲む場所の改造、つまり宇宙コロニーや人工的な居住空間の建設も重要な選択肢である。さらに、③身体拡張、つまり生命維持システムの発展や資源の循環利用が不可欠となる。最終的には、とても過酷な環境での生活が可能な技術と知識の進化が、人類の存続を左右する。最後に、あくまで希望であるが、④遺産を宇宙に漂わせる、つまり、アートや歴史を宇宙へ放出し、漂わせ続けるのだ。そうして宇宙の終焉まで、人類は概念的に存続することができる。つまり、残るものを作らねばならない。Create or die なのだ。
地球人としての新しいアイデンティティ
宇宙空間や過酷な地球での生活が現実のものとなる未来において、「地球人」という概念は新たな意味を持つことになる。地球人という枠組みがなければ救うことはできない。過酷な環境の地球内外で生きることになる人類は、単なる地球の住人ではなく、宇宙を舞台にした新しい存在形態を持つことになる。国境をなくした、新しい生命体になる必要がある。この変化に伴い、アイデンティティも再構築しなければならない。境界線を超えた存在としての「地球人」は、物理的な境界を超えた共通の認識と価値観を共有することになる。この新しいアイデンティティは、人類がどこに住もうとも、宇宙全体を一つの家として、そして数多の生命を家族として捉えるための基盤となる。地球から宇宙へと広がる未来において、人類は新しい形での連帯と認識を築く必要がある。
第八章: 国民皆農と自産自消
自産自消の未来
自産自消とは、個々人が自らの食料を自身で生産し、消費する生活様式である。この考え方は、持続可能な未来を築くための重要な要素である。農業と生活の密接な結びつきを感じるものだ。未来において、自産自消は単なる流行ではなく、実用的で必須の生活スタイルとなるであろう。技術の進化により、都市部でも容易に家庭菜園や小規模農業が可能になり、地産地消的な食料供給の自立が現実のものとなる。さらには、自身の身体に限りなく食糧生産を寄せていく、自産自消も可能になると考えている。このような変革は、食料の安定供給と環境保護の両立を実現し、個々の生活の質を高めることに寄与する。
小さなインフラと電脳狩猟採集民族共同体
小さなインフラとは、大規模な施設やシステムに依存することなく、個のレベルで必要な機能を提供する仕組みである。地産地消の実現には、こうした小さなインフラが不可欠である。例えば、家庭用のコンポスト装置や小型の雨水収集システム、エネルギー生成装置などが挙げられる。これらのインフラは、個々のニーズに応じた柔軟な対応を可能にし、地域コミュニティの自立を支える。さらに、自産自消的なことで言えば、自細胞肉培養器で自身の肉を培養し食したり、光合成帽子やエネルギーシューズで自身に必要な電力を賄うのだ。歩くという運動がそのまま生活に直結する。他にも、空気中の水素から水を作る水素吸デバイスや集汗濾過服を身につけたりと、インフラを小さくすることで、自産自消を実現するのだ。
小さなインフラは、エネルギー効率を高め、資源の無駄を減少させるため、持続可能な社会の基盤を形成する。彼らはDAO的な組織形態によって世界を形作る。そして、趣味として農を楽しむのだ。衣食住は全て小さなインフラ、つまり衣服、包むことで賄う。そのため、やることと言ったら遊ぶことしかないので、新野生化した自然に畏敬の念を抱き、奉り、祭を行っているのだ。
アーバングリーンシェアの提案
アーバングリーンシェアとは、都市空間における緑の共有と活用を促進する概念である。都市環境の中で自然との調和を図り、住民が共有する緑地や農地を設けることで、都市生活における身体性や持続可能性を向上させる。具体的には、都市の空き地や屋上を利用したコミュニティガーデンや都市農業プロジェクトが含まれる。これにより、都市住民は地元で生産された新鮮な食材を享受でき、地域社会の結びつきが強化される。アーバングリーンシェアは、都市空間に自然のエレメントを取り入れることで、環境負荷を軽減し、住民の生活の質を向上させるための効果的な手段となるであろう。
あとがき 人間をやめ、異種間へ
異種間の未来像
人間を超え、異種間へと移行する未来は、単なる科学的な試みではなく、深遠な哲学的および社会的な転換を意味する。異種間の未来像には、肉体的・精神的な枠組みを超えた新しい存在形態も含まれる。これには、異なる生物種やテクノロジーとの融合を通じて、新たな意識や存在の形態を模索することでもある。例えば、生物学的な機能を持たない純粋な意識体や、人間の感覚を超えた知覚を持つ存在なども考えられる。このような未来像は、私たちの存在の本質に対する根本的な問いを投げかけるものであり、既存の知覚と理解の限界を突破するための挑戦である。しかも、人間をやめて異種間に再定義しなければ、共生も、地球人も、成り立たない気がするのだ。
新しい社会へのビジョン
異種間の存在を前提にした社会構造と価値観の再構築を行うこと。これは、人間中心の社会から、多様な存在が共生する社会への移行を意味する。新しい社会では、技術と生物学の融合が進み、自然と人工の境界が曖昧になる。例えば、異なる種が共存するコミュニティでは、従来の社会制度や価値観が再定義され、共生と協力の原則が重要視される。この社会では、物質的な豊かさだけでなく、存在の多様性とその調和が重視され、各存在が互いに尊重し合う新たな価値体系が築かれる。
人間をやめた・超えた存在として
人間をやめた・超えた新たな存在形態は、既存の価値観や社会規範を刷新し、新しい形態の「人間」またはそれに代わる存在がもたらす可能性を探るものとなる。
最終的には、人間をやめた・超えた存在が、私たちの知覚・身体性の枠組みを変え、より広く高い視野で世界を理解・認識し、世界を変えていく。