やがて伝説となる『響け!ユーフォニアム3』第12話を視聴して
2024年6月23日
2024年6月23日、日曜日。
今日、私達は京都アニメーションの作る伝説にまた出会うことができました。
初めに
まず初めに、私DaiKINGは『響け!ユーフォニアム』原作既読勢です。
原作『響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 後編』の発売日は2019年6月22日。
発売はちょうど今日から5年前の昨日です。
原作は久美子が最後に麗奈と全国大会でソリを吹く、いわゆるハッピーエンドでした。
「高校の吹奏楽部」というものの醍醐味を描ききった原作には、さっぱりとした読後感を覚えた記憶があります。
そんな原作とは大きく道を違えることとなった今回。
正直まだ自分を取り戻せてはいません。
ブラインドオーディション
2年前(作品内)、麗奈と香織先輩のために執り行われた公開オーディション。
今回はその公開オーディションに更に匿名性を加える事で、公平性を最大まで高めたブラインドオーディションが久美子と真由のために執り行われた。
私自身も吹奏楽部にずっと居たので分かるが、正直高校の吹奏楽部の公開オーディションで匿名性と公平性を完全に担保する事は不可能だ。
だって毎日毎日、平日も休日も、朝も昼も夜もその奏者の音を聴いてきた。
2年生は2年近く、3年生は3年近く、久美子の音を聴いてきた。
久美子の音と一緒に、共に音楽を作り上げてきた。
もちろん全員がそうだとは言わないが、
久美子と長い時間を過ごしてきた北宇治高校吹奏楽部の皆が、
慕う先輩の音を日々横で聴き続けてきた久石奏が、
そして間違いなくずっと一番近くにいた高坂麗奈が、
“黄前久美子の音”を聴き分けられないはずがないのだ。
相違
正直、上述したように原作はかなり「さっぱり」と読み終えた印象があった。我々読者の肩入れする久美子にとってのハッピーエンドだったからだ。
努力の報われる青春の物語だったから。
でも今回は違った。
原作の良さとはまた違う京都アニメーションの考える良さと、京都アニメーションが見せたかったもの、伝えたかったことに、読者含め我々視聴者は心を奪われた。
ほんとうの黒江真由
正直な所、黒江真由という人間を私は今日まで掴みきれていなかった。
だか彼女の中に「音楽に嘘はつかない」という正しさを見出した今回、私はやっと彼女の輪郭を掴みきれたような気がした。
宇宙人のようにも見えた彼女の中にあったその正しさは、信じるもののために吹くという彼女の正しさは、我々が久美子や麗奈達に見たものと同じだったからだ。
久石奏の涙
久石奏の涙を見た時、私は彼女と共に大粒の涙を流しながら、はっとさせられた。
今私の中にあるこの感情。
奏と同じこの感情は、2年前(作品内)にまさに同じ場所で吉川優子が中世古香織を前にして持っていたものなのではないか、と。
あの時、我々視聴者は主人公黄前久美子の特別である高坂麗奈の側(そば)にいた。
だからきっと麗奈に肩入れをし、そこに「実力主義」という大義も我々の背中を押したことで、久美子に追随して物語に没入していった。
でも今度は違う。
我々は、3年間の久美子の生き様を9年間かけて観てきた。
見守ってきた。
共に歩んできた。
だから、久美子に肩入れせずにはいられなかった。
以前、自分の中に味方として迎え入れたはずの「実力主義」。
そんな大義/正義を前にして、視聴者である私はそれから目を背け、久美子に肩入れせずにはいられなかった。
「実力主義」を本当の意味で謳う事の難しさを叩きつけられてしまったのだ。
美しいものを見た
だからこそ、この子達は素晴らしい。
本当に素晴らしい。
あの場に居た皆が、もれなく全員が、自分の信じる正しさを貫いた。
あの場に自分の信じる正しさを曲げた者は誰一人としていなかった。
ただひたすらに、上手くなりたいという正しさ。
特別になりたいという正しさ。
自らの良いと思う音楽を選ぶ正しさ。
純に良い演奏を選ぶ正しさ。
そして、
「音楽に嘘はつかない」という正しさ。
自分の信じる正しさを貫く美しさに私は涙せずにはいられなかった。
ここまできて最後に、今回描かれた原作との違いは何だろうと考えた時に、ひとつの言葉に行き着いた。
映画『響け!ユーフォニアム 〜誓いのフィナーレ〜』で黄前久美子が言った言葉だ。
一生懸命頑張って、努力しても、その努力が報われるとは限らない
正確な引用ではないが、この言葉に今のところ私は行き着いた。
『響け!ユーフォニアム』という作品、それをアニメーションにした京都アニメーションが描いたものはこの恐ろしく残酷な現実だ。
もしかしたら分かりやすいハッピーエンドではないかもしれない。
諸手を挙げて肯定できるハッピーエンドではないかもしれない。
でも、この努力は決して無駄ではない。
久美子や、久美子達の求めたもの、渇望したもの、成してきたものは絶対に無駄ではない。
久美子の人生はこれからもまだまだ続いていく。
我々がアニメ『響け!ユーフォニアム』のフィナーレを見届けた時、そして久美子の人生をもし振り返る時があったとして、
この青春は間違いなく一生物の価値あるもので、正しく、そして美しいものであるはずだ。
彼女達の信じたものはきっと彼女達の誇りになる。
だから今日、
私達は、美しいものを見た。
(↑全画像引用元)
追記
興奮と熱、涙と勢いでこのnoteを書き終えた。
少し落ち着いてみて、久石奏は自分の正しさを貫いたのだろうかという点に思いを馳せる。
彼女の正しさは彼女自身の手によって曲げられてしまったのだろうか。
私は単純にそうだとは言いきれない。
もちろんそうでないとは言いきれない部分もある。
きっと1年前の彼女に直接今回の件を問うてみれば、おそらく”そうだ”と言われてしまうだろう。
だが、今の久石奏はきっと1年前の彼女とは違う。
彼女はこの1年、黄前久美子の横で後輩としてユーフォニアムを奏で続けてきた。
部長として、先輩として、奏者として正しく在り続ける久美子を真横で見続けてきた。
彼女の親友である剣崎梨々花が『リズと青い鳥』で先輩と一緒にコンクールに出たかったと涙したあのシーンを思うと、今回の久石奏の涙を、私は涙無しで見ることは到底できなかった。
久美子先輩と一緒に吹奏楽コンクールの全国大会で演奏する事も、せめて久美子先輩がソリを吹くという事も叶わなかった彼女の事を思うと、やはりこの心の痛みを隠すことはできない。
もしかしたら、やはり彼女の正しさは彼女自身の手によって曲げられたのだと言われるかもしれない。
その評価はきっと正しいのかもしれない。
だが、彼女が黄前久美子という先輩の下で、もうひとつ新たに育んでいた正しさはきっと決して曲げられはしなかったのだと私は信じたい。
言い訳
今回、久美子と麗奈のラストのシーンはこれまでアニメ『響け!ユーフォニアム』と共に歩み続けてきた視聴者に対する御褒美のような仕掛けが沢山あった。
もう少し時間を置いて観れば、きっとこの様々な仕掛けに沢山の言葉を尽くして賛美を重ねたくなるだろう。
だが今はまだその気分になれていない。
きっと自分自身がまるでこの物語の一員であると錯覚するかのようにこの物語に入り込みすぎているからだ。
私だって死ぬほど悔しい…!!
改めてこの作品の持つ力の強さに畏れ入ると共に、こんな傑作に出会えたことに感謝したい。
『響け!ユーフォニアム』に出会わせてくれた武田綾乃先生と京都アニメーションの皆様。
本当にありがとうございました。
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