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不自然な環境、不自然な思考って話。

人間が生きる環境はとても不自然だ。

土の上は歩かないし、目にする土はもともとそこにあったものじゃないし、生えている木は誰かが植えたものだし、本来の速度以上の速度で移動しているし、市場経済なんてものがあるし、税金を納めて年金をもらったりしているし、政治なんてものがある。

外的環境も、制度的環境も、これらは生物としての”自然な”人間に元来インストールされているものじゃない。

人間の自然な思考が適応している環境は、時間的なスパンは30年程度(狩猟採集時代の寿命)で、人間関係は150人くらいが上限で誰もが知り合いで(部族集団)、空間的な広がりは自分が歩いて行ける距離の範囲に限られる。もちろん地面から足は離せない。

足で歩ける範囲の環境で、150人程度の歩くことしかできなかった人間が、そこに暮らす構成員の誰よりもよりも長い寿命を持ち、1億人以上の人間を結び付ける国家を作り上げる。世界中の人間が国家を超えて経済取引を通じてつながる。

これは、どう考えても、文明以前の人間の能力で規定された自然な成り行きではない。今僕らが自然と思っている状況を作り上げるためには、寿命の30年よりもずっと将来のことを適切に考えて、直接知らない相手にも正確に伝わる伝達手段を持ち、目に見える具体的な物質や物の動きを抽象的に捉えてコントロールすることができるという確信とそのための技術を開発するなど、さまざまな「不自然な思考」が必要になる。

そんなことは「理性」以外には不可能だ。理性は不自然を成し遂げた。不自然な理性は、もちろん人間にとってきわめて不自然な思考様式で、それだけにもともと人間の脳に完備された機能ではない。もし最初から完璧にデザインされて、完璧に機能する自然な機能ならば、僕たちはこんなにダイエットで苦労することは無いし(将来のことが完全にわかるのなら、痩せる努力を将来しなきゃいけないことが分かっていて今太りにいくことはありえない)、あいつとは意見が合わないからぶったたく!みたいな炎上は起こらないし(他人の考えも完璧に理解できるなら、意見の相違や言葉遣いはむしろ当然のこととして処理されるはず)、きっと差別や戦争の様子もずっと違ったものになっていたはずだ(理性が完璧でもこれらが無くなるかどうかはわからない)。

少なくとも僕は貧相な理性しか持ち合わせておらず、今スグに得られる利益をぶら下げられると直感的に飛びつきたくなる。もしかすると僕以外の人はそうでもないのかもしれないが、少なくとも僕にとって自然な思考とは直感的なものだ。でも、現代社会はそんなふうに自然に直感的に生きると残念な結果になってしまうことが多い。環境自体が不自然にデザインされているのだから当然だ。

だから論理的に考えることが必要で、それは理性にしかできない。でも、それは不自然なことなので、それを頭にインストールするためにはやっぱり勉強が必要なのだと思う。

理性の力で論理的に考えることは、時に我慢が必要だ。また、理性は全然完璧じゃない。むしろ、最近の研究では人間の思考にはシステマチックなエラーがある(一定の状況では、理性は直感に勝つことが出来ず、どんなに騙されまいと思っていても、ほぼ確実に間違える)ことが分かってきている。だから、理性的であるからといって必ずしも全て問題が解決されるわけじゃない。

それでも、人間が(少なくとも僕が)現代社会の中で幸せに生きるために、理性的であること、論理的に思考することは必要なことだ。論理って大事よねって話は腐るほど聞いてきたし何を今さら、という感じもしなくは無いが、これは何度繰り返しても足りないくらいだろう。

そして、理性という不自然な思考を学ぶのに最も適切な科目が、算数と数学だ。これだけ国民から不人気な科目もなかなか無いものだが、その不人気にもめげずに主要五科目に列し続けているのは、それが不自然な環境を不自然に生きるために不自然な思考を養うための科目だからだと思う。

4月から、1年生に数学を教えることになったが、最初の授業ではきっとこんなことを話す。

んじゃね!

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浅沼大樹
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