見出し画像

地方大学のあり方について間違っていること3つ

こんにちは。北海道旭川市で大学教員をしています。

今日は、地方大学のあり方について語れる範囲で書いてみたいなと。議論としてはよくある話かもしれないし、一般論とするにはあまりに視野が狭いので、あくまでも僕の目の届く範囲、考えが及ぶ範囲に限ります。それから、言わずもがなですがここで書かれたことは私見であって、僕が属する組織の考えではないことも明記しておきます。

*どうしてもですます調の文章はぎこちなくなってしまい思っていることが素直に書けないので、失礼とは思いつつもここからはである調で書くことにします。ちょっと高圧的に感じてしまうかもしれませんが、そんなつもりは毛頭無いので、ご容赦くださいませ。

さて、今回のテーマは「地方大学のあり方について」ということで、自分が属する大学も当然含まれるし、内容の中心にならざるを得ない。人口減少が問題視されて久しい(むしろ遅すぎる)が、大学の将来についてもこの問題は非常に重要だ。メインの顧客となる18歳人口が減っているのに、大学の数は減らない。当然のように大学経営は厳しくなる。受験者数が少なくなるのに大学の数が減らない上に全体的な定員も減らさないから(これにはいろいろ複雑な事情がある)、人気のある大学に入れる学生の割合が増える。それにともなって、ちょっと人気のある大学は今までは入試で落としていたような成績の学生を入学させるようになり、そこそこ人気のある大学は今までは入試で落としていたような成績の学生を入学させるようになり…以下同文ってことで、しわ寄せは人気のない大学にまでやって来る。

受験生が無限に存在していれば話は別だが、それが減っているので結局もともと選ばれない大学の学生確保が一番厳しいということになる。

1.生き残るという発想自体が間違っている

こういう状況でよく話しに出てくるのは、「地方大学がいかに生き残るか」ということだ。でも、これは発想がもうすでに間違っている。この「生き残る」という言葉は本当によく聞くが、地方の、特にボーダーフリー(BF)大学に属する大学は、「もともと生き残れていない」のだ。

旺文社の教育情報センターの発表では、平成29年度で全国に大学は767校あり、そのうち私立大学は588校あるとのことだ。(http://eic.obunsha.co.jp/pdf/educational_info/2017/0626_1.pdf

そして、その4割が定員割れという。僕が勤める旭川大学も、残念ながらそのような定員割れの私立大学の一つだ。この少子化の中で「生き残りを賭けて頑張らなければならない」大学ということになるだろう。

でも、ちょっと待ってほしい。少なくとも旭川大学に関しては、状況が変わったから「生き残るための努力をする」というのはおかしい。なぜなら、定員割れを起こしているのは今に始まったことではないからだ。経済学部の定員は100名。それも現在満たせていない。

旭川市の人口統計によれば、平成29年度の1月時点で18歳人口は約2,800人いる。そのうちの4割が進学するとしても、1,200人程度の受験生が市内にいることになる。市外からのスポーツ推薦入学なども勘案すれば、一般受験はおそらく65名くらいのはずだ。それが埋まらない。市外からの受験などがあっても埋まらない。僕が赴任してからの5年間、一度も満たせていない。それどころか、10年以上満たせていないのだ。正直言って、とても悔しい。でもそれが現実だ。そして、そのような状況の私立大学はゴマンとあることだろう。

勘違いしてはいけない。そもそも「選ばれていない」のだ。生き残るというのは、ライバルたちのなかで自分のポジションを確立してサバイブすること、つまり競争の最中における戦略の話だ。でも僕たちが直面する状況は違う。すでに現時点での競争には敗れていると言わざるを得ない。そこを認めずして、大学のあり方を語ることはできないと思う。

2.戦うフィールドが間違っている

大学にはいろいろな役割がある。東京大学と旭川大学は違うし、慶応大学と旭川大学も違う。学生数、予算、研究環境、教員数、卒業生の進路の多様性などでは勝負にならない。ぼろ負けだ。だから、戦うフィールドを選ばなければならない。

そんなことは分かっている、という声が聞こえてきそうだが、僕にはそれが分かっているようには思えない。なぜなら、フィールドを選ぶということは戦術も変えなければならないのに、そうなっていないからだ。

たしかに東大・京大のような一流と言われる国立大学や、何万人もの学生を抱えるマンモス私立大学と、弱小の地方私立大学は違うから、同じフィールドで食い合うことほど非合理的なことはない。弱小私立が棲むべき場所はそういう所ではなくて、もっとローカルに寄った、そのまちでしかできない課題解決のための研究にとことんのめり込むべきなのだ。そして、マンモス私大ではできないような、学生への徹底的な「インスパイア」が学生数が少ない地方私大ならできる。上で述べた「戦術を変える」とは例えばそういうことだと思う。

でも、大学のスタッフが大学の中に閉じこもっていたのでは地方の課題解決など不可能だし、学生をインスパイアするためには学生への絶え間ない、そして適切な働きかけが必要となる。地方私立大学ならできることなのに、それができてないし、やろうともしていないように思える。そこが問題なのだ。

北海道は、日本の課題先進地と言われる。旭川市は全国的に見てもかなりおおきな都市だが、中心市街地の衰退や低い平均年収、高齢化、札幌への人口流出など、日本の代表的課題を丸抱えしている状況だ。これは厳しい状況であるのは間違いないが、ある意味ではチャンスでもある。この課題にチャレンジし、問題を少しでも改善することが研究の力でできるなら、大学には間違いなく存在価値がある。選ばれる価値がある。

また、学生数が少ないことから、学生たちと接する距離をある程度教員サイドがコントロールできる。これはあまり強調されることはないが、学生をインスパイするうえでかなり大きなことだ。同じ学生を2年も見ていればなんとなくパーソナリティが分かるし、課題の与え方や声のかけ方、適切な叱り方なども把握できるようになってくる。自主的に動けるようになるまで課題を与え続け、自分の中に問題意識が芽生え始めたら手を放して自分で考えさせる。学外の人と積極的に関わらせ、できるだけ幅広い考え方に触れさせる。そして、学生をインスパイアするきっかけとして一番大きいと僕の経験上感じるのは、他大学の学生と絡ませることだ。だから、僕のゼミでは毎年他大学と合同ゼミを行うようにしている。

そうやって学生の自主性や積極性を引き出すことができたなら、そしてそれがある程度ノウハウとして蓄積できて、その大学の教育スタイルとして確率できたなら、それはそれで価値があるだろう。選ばられる要素になる。

結局、弱小地方私立大が棲むべきフィールドは、

・地方特有の課題への研究アプローチ

・学生のインスパイア

にあるということだ。これはこれでよくある話と言えばそうだ。でも、このフィールドに本当の意味で立つのは、言葉で表現するよりもずっと難しい。

3.優先順位が間違っている

こういう取り組みは、よく大学のパンフレットなどにも書かれている。「地方特有の課題に取り組む」とか、「少人数体制の教育で充実した大学生活を」とか。

また、最近は文部科学省も地方大学の取り組みを支援する補助金を用意したりして、そういう取り組みを後押ししようとしているのがうかがえる。

でも、残念ながら優先順位が間違っていると言わざるを得ない。もちろん、こういう取り組みがうまく行っている大学もあるだろう。だが、空回りも多いように思う。戦術を変えるための組織内部の構造変化を起こせていないためだ。

上で述べた二つのフィールド「地方特有の課題への研究アプローチ」と「学生のインスパイア」は、割と簡単に装うことができる。それっぽいタイトルで講演することだってできるし、パンフレットに学生がいきいきしている風の写真を載せることでイメージを作り上げることは可能だ。

そして、そうしたイメージを作り上げることは実際に中身を伴わせるよりも簡単だから、そういうみてくれを整えることにリソースを割きがちになる。

でも、本来すべきことはそんなことではないのは明らかだ。地方の課題を見つけて解決への糸口を探るには、先に書いたように大学の中にとどまっていたのでは無理で、外部の人達と積極的にかかわって問題意識を共有する必要がある。これはとても難しいし、手間がかかる。人柄も重要だし、必ずしも研究能力だけが求められるわけでもない。また、学生をインスパイアするのはパンフレットの写真じゃなくて、実際の付き合いと活動だ。彼らの自己肯定感が高まるようなプログラムを意図的に作り成果をあげさせる必要がある。どこまで手を入れるか、彼らのやることの責任をこちらがどこまでとる必要があるか、その辺の見極めはひたすら緊張感を伴う。

本来は地方私大が棲むべきフィールドに立つために、こうしたことについて組織全体の意識が必要だ。そして、意思を持った具体的な行動が必要だ。優先順位の第一位はまずそこに持っていかなくてはいけないと思う。

でもそれはとても難しい。そこには大学教員一人ひとりの考え方があるからだ。外に出るのが得意でない人もいるし、研究内容が地方課題の解決と必ずしも関係が無いという人もいる場合がある。学生をインスパイアするにも、おそらくセンスがある程度必要だ。とは言えそこを避けていたら「生き残る」もへったくれもない。でも残念ながら、避けられ続けてきたとしか僕には思えない。

意思を伴った行動を

ずいぶんいろいろと書いて、自分がどれくらいできているだろうかと書くことにためらいを感じることもあるが、旭川大学については率直に言って「選ばれていないこと」への自覚が足りなすぎると思う。もしくは、その自覚が強すぎてもはや自虐になってしまっているのか。でも、自分としてはまだこのまちにも大学にもポテンシャルがあると信じている。何かまだできることがあるなら取り組むべきだ。できるだけ早く。

必要なのは、意思を伴った行動だと思う。

*note の記事は、僕が運営するコミュニティスペース『常磐ラボ』の運営資金調達のため書いています。もしこの記事について共感いただけたらサポートをお願いしたいです。

常磐ラボ情報発信ブログ:https://ameblo.jp/tokiwalab/

サポートされたら、とても喜びます。