渋谷で働く新原の告白。
こんにちは!新原大貴(シンバラダイキ)です。
現在は、7期目で約600名のベンチャー企業のCOOをしております。
事業内容は、人材紹介・RPO・広告代理店・受託開発・介護施設運営、など多角的に事業をしている会社です。
早速ですが、32年に渡る自分史を書いてみました。
目的は、自分の棚卸しやパターンを見つけ今後の活動のヒントにしたかったこと、この記事を見て頂く方の、今後の人生がよりよくなるために何らかのヒントになればと思い、書くことを決意しました。
振り返ってみると、色々な感情や「思い出しくないな~」とタイピングが止まってしまうことが多々ありました。
ただそんな自分に向き合おうということで、書いてみると3万字という超大作になりましたが、もしよければ読んでもらえると嬉しいです!
キーワードをいくつか挙げると自分の人生は下記になります。
・ストレングスファインダーでいうと、達成欲、アレンジ、包含、未来志向、ポジティブ
・成果を出すために先人から学び実践を繰り返し改善していく「モデリング」
・「観察すること」をずっとやってきた!人を見る目には自信がある
・考えるよりも行動ファースト!失敗ばかり。
・完全なる直観型
・人生のターニングポイントには「師匠」がいる
紆余曲折あり、これからも、もっとジェットコースターのような変化の激しい人生になると思いますが、それらを楽しく歩んでいこうと思います!是非読んでもらえると嬉しいです。
幼少期から小学校
「ボンボン」でも金持ちと言われるのが嫌だった少年時代
生まれは広島で1992年の1月に生まれました。親戚含めて僕の世代が生まれるのが初めてで、おじいちゃんがめちゃくちゃ喜んでくれたそうです。家の隣にお寺さんがあって、祖父が頼んで私の唄を書いてもらいました(笑)
実家は、地主家系で不動産業を営んでおり、いつも正月に祖父の家に訪ねると「鉄筋コンクリートのマンションを広島で初めて始めたんだよ」という話を聞かされていました。
いわゆる、地方のボンボンの子供です。広島市は、原爆が落ちた影響もあり祖父の年代は事業を自分でやっていく必要があった、と聞かされています。
実際に、親戚も含めて自動車学校や専門商社、繊維会社などを営んでいました。
周りの友人や大人からは「お前ん家、ボンボンだよなー」といわれていました。
お金があることはいい事なのに、当時はそのようなことを言われることが本当に嫌でした。
今振り返ると、そんな「本当の自分ではないもの」に対して色眼鏡で会話をされたり、自分の努力ではないことを言われたり、そういうことが嫌でした。
この当時から、何か既存のものに対する反発心が生まれてきたような気がします。
野球漬けの毎日
自分の中で一番最初の記憶は、小学校2年~3年位の時で、地元のクラブチームで野球をしていた記憶です。
この時のチームは、地元でいうと「優等生が集まるチーム」というよりも「地元のヤンチャな人たちが集まるチーム」でした。
友達に誘われて入ったのですが、両親はあんまり良い顔をしていなかったのを覚えています。もう少し落ち着いた、優等生みたいな子達と遊んで欲しかったようです。
一方で、学校終わりや土日に、毎日団地に行き、山の上にある野球場まで走って、友達や先輩と練習して終わったらダッシュで家まで帰るという生活がとても楽しかったです。
めきめき成長している感と、両親の言うことを聞かずに好きにやっている感とかが交錯して、本当に楽しかった。
そして、一番はとにかく勝ちたいという想いが前面に出て、常に野球の事を考えていました。パッと思い出すのは、小学校でも授業中に外で野球の練習をしていて、先生に怒られた記憶です。
このころから、目標に対してそれを実現したい!という気持ちはとても強かったような気がします。
転校~学校では物静か。野球ではうるさい~
小3の時に引っ越しをして、同じ広島市内の小学校に転校をしました。
初めての大きな環境変化。
理由は、家を新築にしたことと、両親としてはより教育に適した環境を与えたい、という意識が強かったようです。
ただ、学校生活はというと、、、とても大変というか、きつかったことを覚えています。「ボッチで」、という訳ではなかったものの、イジリともイジメとも受け取りかたいコミュニケーションがあり(今振り返ると、ただのスキンシップだったな、という感じですが。。。)、学校ではおとなしく、それでも野球は継続!していました。
野球の時は全く逆。前の小学校で在籍していたチームは辞めて、学区内のチームに転籍になり、野球の時は誰よりも活き活きと、小学校3年の途中から6年生と一緒に試合に出ていました。
5年生の時になると、野球チームではキャプテンになりました。
5年生にもなると学校生活にも慣れ、友人と仲良く、大休憩(広島市は大休憩という2時間目と3時間目の間に30分位の休憩時間があります)には、ドッチボールだったりバスケだったりしていました。
新しく入ったチームは、決して強くないチームでしたがとにかく勝ちたいという欲求が前面に出ていました。
覚えているのは、ワンマンプレーをよくやっていたな、ということ。監督のサインなどお構いなしでホームスチールをしては、怒られていました(笑)
伝記を読み漁る子供
もう少し小学校の話をさせてください。小学校では、野球以外にもう一つ本当にハマったことがあります。「偉人の伝記を読み漁る」です。
転校をした直後は上記に書いてある通り、友人関係が上手くいきませんでした。この時の感情は、何か自分の中で心に穴がぽっかり空いた感じです。
友達とは話すけど、どこか距離がある、そんな感じです。
両親の関係があまり良くなかった事も影響しているかもしれません。
この何とも言えない感情を発散するために、そしてどこかに自分の悩みの答えが無いかを求めて図書館や本屋に行きました。
そして手に取ったのは、下記、写真の通りの「偉人の伝記(火の鳥文庫)」です。
とにかく読み漁りました。
なぜ偉人の伝記を取ったのかわかりませんが、おそらく自分がもっていた悩みを昔の人はどうやって乗り越えたのか?であったり、そもそも自分が持っている悩みは他の人も経験しているのか?などを知りたかったのだと思います。
私は自分が何か考えたり目標を追いかける際に、必ずと言って良いほど「先人はどのように乗り越えたのか?」を考え調べるのですが、幼少期にこの思考プロセスが構築されたのだと思います。
伝記を読んでいると、時間を忘れて徹夜になっていることも、しばしばありました。
泣き虫~感情を抑えられない子供~
そして、とても泣き虫な幼少時代(小学校~中学頭まで)でした。(笑)
母親と一緒に寝れないと泣いちゃったり、何か友達に言われると泣いたりして、それもいじられてました(笑)
そこから、あんまり感情を表に出すと、他人にいじられるから嫌だみたいな子供になってしまって、感情を出さない方が自分にとってかっこいいみたいな価値観が作られた気がします。
こういう行動したら、他人からこう思われるからやめておこうとか、「自己保身」が始まりで、他人を観察する癖がこの辺りからついてきました。
この経験は、営業マンとしてクライアントに対して、どこまで言ったらダメでここまで言っても良いだろうな、という線引きが上手くできるようになった理由だと思います。
この「観察する」を幼少期からやってきたこともあり、良くも悪くも「他人を見る目」は多少なりとも肥えてきました。
兄弟で唯一剣道をやめる
小学校時代に後悔していることも書かせてください。習い事で小学校の剣道教室に通っていました。
始めた理由は忘れたのですが、兎に角覚えていることは、そこの先生が怖すぎること(笑)
運動センスは割とあった方なので、とんとん拍子で防具をつけ試合を行っていったのですが、結局は辞めてしまいました。
「俺には野球があるんだ」という言い訳をつかって。
ただ、今までの人生で勝負事の時になると、たまに当時の事を思い出してしまっていました。
逃げてしまった自分、そして3人兄弟の長男の私だけ逃げてしまった、ということです。
この後悔がぬぐい切れずに32歳まで来てしまいましたが、この「呪い」を乗り越えるために1年前くらいから剣術を始め、絶賛当時を克服中です。
小学校時代の全体を振り返って、もう一つ付け加えるとすれば、母親から言われていたのは「本当に落ち着きがない」ということです。確かに兎に角、動き回っていたことを覚えています。
この幼少期~小学校の自分はすでに
・結果を出すために周りが見えなくなる(達成欲)
・結果の出し方は、モデリング(先人から学ぶ)
・観察をする
・多動性
特に、自分の中でも「want to」(自分の真の欲求)は、今5つほどありますが、特に強い上位3つは幼少期に発現しているんだな、、と、これを書きながら振り返りできました。
中学~高校
中学校は地元の中学校の進学しました。ちなみに、無理やり小学校6年次に母親に塾に入れられ、嫌々勉強をしてその後、中学受験。結果は当然のように全落ちしました(笑)
全然努力していないので、結果が出ないのは当たり前なのに、結果が出ないということに対しては非常に悔しく、涙しました。
女性と全く話せない自分
絶賛思春期。この頃の一番の思い出は「女性と全く話せないこと」。(笑)
なぜ話せなくなったのか、理由は分りませんが
・思春期で特に理由はなく、異性を意識しすぎてしまっていた
・女の子と話したら「女好き」と男の友人からいじられるので、それが嫌だった
・自分に自信がなかった
など、考えられるのはこの辺りだと思います。そして、ここから女性と話せない時期が約4年ほど続きます(高校まで続く)。多分、今もコミュニケーションの癖として残ってます。
この辺りは、高校から大学にかけて克服していきました。そのエピソードは、この後の高校時代に譲ります。
怪我に泣く3年間
中学校の部活動は、もちろん野球部に入りました。一年の秋から、先輩の学年が4~5名ほどしかいなかったこともあり、レギュラーになりました。
しかし、体の成長とともに投げるフォームだったり、成長痛だったりと中学2年くらいから体の至る部分で不調が出ました。
そこからは怪我との闘い。接骨院や整形外科に月に一回通いながら練習をするというルーティーンになりました。
もともとは投手をやっていたのですが、このような状況なので試合に出てもフォームがバラバラでうまいこといかずに、2年生秋の大事な試合でストライクが一つも入らずに降板。試合はそのまま大敗を期してしまいました。
監督からは、こんな最低の試合は初めてだ、という逆鱗のもと、試合後にひたすら走らされました。
そこからは、卒業まで怪我が治ることもなく、とはいえ「投げる」こと以外は出来たので、外野手として試合に出続け、チームとしては広島市の上位くらいの成績で中学の野球人生は終わりました。
個人的に、この3年はスポーツにおいて結構大きな挫折です。
逃げの受験、今の自分の教訓
話は変わって、勉学の方です。「中学受験の嫌な経験」から、時間を見つけてはコツコツと勉強をしていました。
学年でもかなり上位の方で、共通模試では基本的に偏差値70はキープしていました。
やっぱり、一度負けを経験したものでもう一回負けたくない。
そんな気持ちでやっていました。
そんなこんなで、高校受験を迎えるのですが、当時目指していて進路指導の先生にも勧められたのは広島県内で最も偏差値の高い高校。
私も自分がそこに行くことは当たり前のように思っていました。
しかし事件は起こります。受験直前の模試の判定が「B」判定。初めての結果に動揺し、狼狽えました。
進路指導の先生からも、大丈夫だから志望校を下げない方が良いよと言われましたが、最終的には志望校を下げました。怖かったんです。
もちろん、難易度を一つ下げた高校には合格。ただ、ここも後悔している過去の一つです。
勝負所では、目標を下げない逆に上げるべきでありそうしないと後悔をする、と自身に刻まれたのはこの時で、この経験から目標を下げない達成するまで努力する、ということが教訓となりました。
絶対に目標は下げたくないっていう気持ちが人一倍強くなりました。これは、今の仕事にもかなり出ています。
公私ともに充実した高校生活
高校生活は、とても充実していました。よくある公立の進学校という感じで、部活や勉強も頑張るし文化祭などのイベントごとも全力でする!が、カルチャーの学校でした。
特に高校は楽しい思い出が強いのですが、中学時代にできてしまった女性アレルギーをここで解決しました。
解決しました、というよりは環境的にせざるを得なかったのが一番の理由です(笑)
というのも、私は文系進学をして男女比が男子8人に対して女子が26名くらい。。。!
何かしらのコミュニケーションを取るにしても、必ず女子と話さなくてはいけない。そのような背水の陣的な環境ですので、否が応でも会話をしていかなければなりません(笑)
頑張りました。。。!
初めて彼女が出来たのも高校2年生です。
「やらざるを得ない環境を作って自分を奮い立たせる」というのは、自分が能力開発を行う上でかなり意図的にやっていますが、最初の原体験はこの辺りです(笑)
部活動はサッカー部に入って、キーパーをやっていたんですけど、野球をやっていたこともありボールの落下地点を読むのとか得意でした。県内ベスト16くらいだったと記憶しています。
文化祭とかも男子の人数少ないので、出し物の劇では目立つ役柄をして、そういうのに出るのは苦手で、今振り返っていても恥ずかしいんですけど、母親は「あ、この子もちゃんと楽しくやってるんだな」みたいに思ったって言ってました。
あとはめちゃくちゃモテました(笑)
大学時代
大学は県内の公立へ進学しました。
受験勉強はというと、センター試験では5教科で8割5分くらいとりましたが、前期2次試験でだいぶすべってしまい第一志望校は見事に落ち。
後期試験で合格し広島市立大学国際学部へ入学しました。
そして、大学時代の経験が今の自分を色濃く表していると思います。
「飲み」の日々
大学の前半戦は、本当に飲み会三昧でした。大学へ行って、バイトをして、宅のみを開く。そのルーティーンの中で、いかに面白いエピソードを作るか、にコミットしていました。
どうやったらみんなを盛り上げれるか、こんなことをずっと考えていました。
こういうイベントを開いたら、こういうコミュニケーションをとったら、あの人とあの人をくっつけてみたら面白いだろうな~など。
ストレングスファインダーで達成欲の次に出るのが「アレンジ」なのが私ですが、このアレンジ能力は観察をする、というwant toに加えて、この大学時代の経験が生きていると思います。
人生のターニングポイント①ゼミの教授との出会い
私の人生における最初のターニングポイントは、私のゼミの担当教授と出会ったことです。
大学2年の後期からゼミ活動が始まります。
私は自身が被ばく3世ということもあり、「国際政治学」のなかでも安全保障論について探求することに決めました。
どの教授のゼミに入ろうかな、と考えていた時に、たまたまとった講義が印象的でした。
40代の、大学教授というよりはアメリカなどにいるビジネスマン。
ばしっと決まったスーツに、講義はパワポで知識を共有していくのではなく、事前に論文を10~20くらい読まされ、その内容をもとに問いを立て議論をしていくスタイル。
単位をもらうには、他講義では考えられなかった数万字のレポートを提出しなければいけない。
最初に出したレポートは
「良く調べられているね。それで君の意見は、どの部分?」
というフィードバックに、驚きと胸が躍ったことを今でも覚えています。
答えがあるのではなく、自分で導いていく。
さらに大学で一番単位をとるのが難しいという先輩たちの噂に発破をかけられ、迷うことなくその先生のゼミに入ることを決めました。
その教授は、アウトプットすることにフォーカスしていました。議論すること、主体的に取り組むことを正としていました。意見が良い悪いはない。悪いのはただ一つ、参加しないこと。フリーライドしないこと、というスタイルの講義です。
そしてよく課外活動にも行きました。安全保障という観点から沖縄、韓国の大学にも参加しました。
行動してみたら意外と結果は出るものです
その教授にはアカデミックなことというよりも、どのような環境においても成果が出るような考え方と、「リーダーシップ」について教えてもらったような気がします。
私は基本的には、講義の空き時間にはゼミ室におり教授から色々な話を聞く日々を過ごしていました。
ある時、何か結果を出したい、チャレンジしたいと思った時には
「まず行動してみることが一番。行動してみると意外と結果は出るものですよ」
という話がありました。
その言葉を真に受け、そこからドンドン大学の外へ出てチャレンジしてみよう!と思うようになりました。
まず最初は、外務省が国賓文化交流として数か月、日本の学生を様々な発展途上国へ派遣していたプログラムに応募してみることに決めました。その年は、南沙諸島というオーストラリア横の島国への派遣プログラムでした。
早速応募し、試験を受けてみると偶然にも合格!
私が受かった国は「トンガ王国」という国でした。
昨今は、ラグビーの影響でご存知の方も多いと思いますが、10数年前の私からすると、どこやねん!でした。
オーストラリアから乗り継ぎで、約1日かけて現地へ着きました。
実際に現地へ行ってみると、とても親日の国で現地の農林大臣や青年海外協力隊の方、現地に住んでいる日本人の方とお話をする機会がありました。
現地学校や諸々のイベントを経て無事帰国しました。
実際に現地に行って学んだこともですが、「結果を出すためにはまず行動をしてみる」の最初の成功体験として自身に刻まれました。
行動してみたら意外と結果は出るものです②日中学生会議
日中学生会議
大学3年次の夏、教授からこういうのあるけど行ってみたら?という情報をもらいました。
それは「日中学生会議」という日本の学生と中国本土の学生が、3週間くらい共同生活を送りながら分科会に分かれてそれぞれのテーマで議論をする、というものでした。
東大発で外務省が後援として、当時の日本と中国の学生団体の規模としては日本で最も大きく、歴史も30年以上続いており長い団体でした。
参加するメンバーの学歴的にも早慶以上の学生が主流なので、良い刺激になると思う、という言葉もありだったら応募してみようかな、と考えました。
実際に有名なOBとしては、レオス・キャピタルワークス株式会社(ひふみ投信)の藤野英人さん等がいらっしゃいます。
また、当時は尖閣諸島問題もニュースで話題になっていたので、中国人と安全保障の問題とか議論してみるのは楽しそうだなと思い、応募しました。
ここでもエントリーシートを書いて面接があって、それらを運よく突破できたので参加することが出来ました。
当学生団体は、「本会議」という8月に3週間の共同生活および分科会に分かれた期間とその準備に向けた事前準備期間が3ヶ月ほどあります。
私が振り分けられた分科会は、「安全保障分科会」。日本側の学生は5人おりました。
事前合宿で、様々なテーマで議論していきますが、周りの学生と比べるとだいぶ歯が立ちませんでした。
これだと私が参加している意味がないな、ということで中国近代史やその安全保障観をインプットしていきました。
事前準備期間が終わると、実際に中国の学生と会うことになります。隔年で中国本土開催、日本開催のそれぞれに分かれており、私が参加する代は中国本土の開催。
中国でも北京→広州→南京→上海を3週間で周りながら、共同生活と分科会を進めていきました。
後で私も経験することになるのですが、日本側30名、中国側30名の合計60名を統率させながら移動スケジュールをこなしていくことは非常にハードそうだな、と運営側のメンバーを見て思いながらも初めての「中国」をとにかく楽しみました。
実際の分科会はというと、私の所属が安全保障ということもありセンシティブで現地の大学の教室を借りて議論をしていくので、だいぶ気を遣って議論していきました。
議論言語は基本的には中国語と英語で、私の場合は、つたない英語で意思疎通をしていくことはとても面白かったです。
ここでの発見は、メディアの印象と現地はだいぶ違うなということでした。特に南に行けば行くほど自由度が増していく、現地の人も優しいな、という印象です。
議論テーマの内容の結論は、「受け入れがたい過去もありながら、それぞれ相手の感情に寄り添いつつ議論をしていくことが大事」という、もちろん当たり前の事なのかもしれませんが、日中関係こそ、この当たり前が大事だよね、という結論になりました。
この経験は、私にとって、とても大きなものでした。
これまでずっと広島県内で過ごしてきた自分にとって、
・様々な価値観や考え方に振れそこで学びを昇華させること
・良き人間(隣国関係)関係とは何かを考えるきっかけ
・自分より「優秀」な人は山ほどいる
そして、自身のインプットの仕方として、これまでは教科書などで情報を蓄積していくが主でしたが、実際に現地や人に会って話す
色々な方にあって考え方を吸収する、自身を成長させる、という自身の成長のさせ方のもう一つの手段ができました。
この経験の中で、一番心に残り、感動していることは、「仲間」の存在です。
もちろん寝食を共に半年間チームとして伴走をしたことによって、お互いの事を知りあえた、というのはあります。
ただ一番は「理想に燃えながら、その理想を目指して行動をしていく」共通の理想やゴールが一緒である経験だったと思います。
この理想の共有とそれに対して高い基準でお互いが接することによって、本当の意味での信頼関係ができる、という経験が今の自分の組織作りに反映されています。
青臭くて、そこに短期的な利益があるかはわからない、けれどもとても大切なこと。
この関係を仕事でもつくれたら、仕事以外の領域でもつくれたら、これ以上に素晴らしいことはないのではないでしょうか。
行動してみたら意外と結果は出るものです③組織崩壊から実行委員長になる
当学生団体は、本会議が終わると翌年に向けて実行委員会が新しく発足します。
本会議の熱が冷めず、毎年参加メンバーの3分の1くらいが興味を持ち、私もその一人でした。
「もう一度あの感動を味わいたい」そして次は作る側に回りたい。
ただ東京の学生をメインに委員会活動含めて実施されるので、広島の一学生ができるものか、など悩みましたが、最終的にはOBOGに声かけられたこともあり、翌一年は運営側として携わることになりました。
組織崩壊と実行委員長の交代
「あの感動をもう一度」ということで、発足した委員会。発足当初は男性5人、女性5人の計10名で始まりました。
地方学生の自分に出来ることは限られているので、事務的なことや会議のファシリテーターや議事録を書いてまとめる係などで貢献しよう、と思っていました。
最初の委員会合宿で、実行委員長も決まりその代のテーマも決まり順調な滑り出し!
今年は日本開催なので、中国開催の時よりも日本側には大きな負担や準備が必要だが、結束力もあるし大丈夫だろう、と初日の合宿ではたかをくくってました。
徐々に雲行きが怪しくなってきます。
まずは中国側のカウンターパートと連絡が取れない。。。カウンターパートと連絡が取れなければ準備ができない。
これは、中国からの留学生にひたすら当たって連絡を取ることが出来ました。
しかし、一番大変だったのは結束をしていたはずの実行委員の関係性が険悪なものになってしまったことです。
就活や学業、その他イベントごとで密な連絡がとれなくなる、実行委員長への不満が溜まる、議論がうまく進まず、組織としての決定がなされない、などが頻発してきました。
特に、大変だったのは、「実行委員長への不満」とその不満が組織の運営運営のやっているコアメンバーから吹き出たことです。
中心となるメンバーから不満が出たことで、組織は崩壊。物事が数か月前に進まなくなりました。
私はそのような状況を聞かされていたものの、オンラインでのMTGでしかキャッチアップが出来ずとてももどかしさを感じながら日々過ごしてました。
実際に、実行委員長に連絡を取ってみたり、他のメンバーに話を聞いてみたりしてどうにかして間を取り持ちながら組織を前に前に進めようとできる限りのことをしていました。
実行委員長の交代と就任
組織状態が危うく、既にメンバーは3人辞めている状態。
このままの組織状態だと本会議の開催が出来ない!という危機感のもと、急遽合宿を行いました。
なぜこのような状態になったのかを整理したところ、メンバーからは下記のような意見が出ました。
メンバーから出た意見
・実行委員長が信頼できない。口では大きなことを言っているが実際の行動が伴っていない
・実行委員長と連絡が取れないときが多々ある
・実行委員長に対して、もっと意見を聞いてほしい
実行委員長の意見
・留学準備や他の活動で学生会議に時間を割けていないのは事実
・実際に何をやって良いかわからないタイミング多々ある
というリーダーに対する本音の意見と、実行委員長が思っていたことを話す、「本音会」を行いました。
丸2日間、本音をぶつけまくりました。もっと早くやっておけばよかったなと反省と私はその中で年上だったこともあり、議論を整理していく立ち回りでした。
出た結論としては、自分でも少しびっくりでしたが「新原がリーダーをやってほしい」という各メンバーと実行委員長、OBからの意見でした。
合宿前にコアのメンバーと話をしたときに上記は出ていて少し覚悟をもって合宿に参加していましたが、実際にそのような話になると前もって準備をしていたとはいえびっくりしました。
この代表交代の話を事前にゼミの教授に相談したところ
「絶対にやった方がいい。もし何かあれば私も助けます」という言葉がありました。
リーダー経験は、それまでは小中学校の野球の経験でその時は、自分が能力として周りよりも高かった、という自負もあったのでやれていた気がしますが、今回ばかりは地方にいるし、その他色々と周りが圧倒的に上。
とても悩みましたが、その教授の言葉もあり、また前任の実行委員長も私がリーダーをやるなら組織を辞めずにサポートをするという言葉をもらい、代表就任を受け入れることに決めました。
寝れない、食事がのどを通らない日々
合宿が終わり、自身がリーダーとして組織を引っ張っていくことに覚悟を決めました。
覚悟を決めやり切る、文字にすると簡単ですが、その日から襲ってくる不安との戦いでした。
上手くいかなければどうしよう、開催出来なければどうしよう。
そんな不安との戦いで、寝れなく食事がのどを通らない。初めての体験で、自分はストレスなんか感じない性格だろ、と思っていましたが違いました。
そもそも責任のあることを、他人を巻き込んで何かを成し遂げるという経験をしてこなかっただけなんだな、と思いました。
そこからは、そんな不安と戦いながらも、
・先輩にとにかく聞き、TODOリストやWBSを引いてやることを可視化しスケジュールを逆算する
・一緒にやってくれる仲間の役割を改めて整理し任せる
・何よりもなぜ自分がこの学生会議を成功させたいのかを棚卸する
これらを中心に開催までの準備をしていきました。
そして、不安をかき消すように、一つずつやることを書いて消していく、リーダーシップにまつわる本を買っては読む、を繰り返していきました。
本番が近づいてくると運営側以外の参加メンバーを募らなければいけません。広報活動をしてエントリーを募り面談をして、「参加者」を決めていきました。
途中プレッシャーで夜も寝れずに一回倒れてしまいましたが、今となっては良い思い出です(笑)
無事、参加メンバーを募集でき(なんと過去最高のエントリーがありました!)、本会議までの準備が整いました。
本番の「本会議」では、中国側メンバー30名を招聘し東京・愛知・京都・奈良を周っていきました。
もちろん、本会議中も中国側が観光から帰ってこないなどのインシデントは多々ありましたが、3週間寝れない日々でしたが、無事本会議も事故もなく終わりました。
今振り返ると、そんな大それたことのない学生の活動です。もっと出来ることがあったなと振り返りもします。
しかし、この「日中学生会議」で実行委員長をやりきった、という経験は今の自分のリーダーシップ像を整理する上で礎となっています。
今でも自分にとって困難なことで、弱気になることも多々ありますが、常にこの時の経験に立ち戻ります。
「あの経験を乗り越えたんだから、今回の経験も乗り越え必ず自分の糧になる」
自分のエフィカシー(自己効力感)を作った原点です。
また、自身のリーダーシップ像や価値観が形作られた点に関してですが
・自分より優秀な人達はたくさんいるけど、個の力を最大限発揮させてチームとして強くできる人になりたい
・リーダーシップで大事なのは、未来を語ることとそこに対して気持ち悪いくらいの熱量が必要
・この人とこの人を繋ぎ合わせたりすると面白いだろうな、とか「アレンジ」は自分の好きなことだな
・青臭い理念に向かうのってとても楽しい!
・ストレスは、そのストレスの根源となっているものに向かっていかないと解消されない
私のストレングスファインダーは
・達成欲
・アレンジ
・包含
・未来志向
・ポジティブ
です。この経験では、特に「アレンジ」「包含」「未来志向」が色濃く出ました。
実行委員長になってほしいというのは、包含とポジティブという要素があったからだと整理しています。
実行委員長になってからは、未来について語ること、各メンバーの適性などを見て一番個人が輝きながら目的を達成できる、そんなチームが作れたと自負できます。
現在も、COOとして当社の中でマネジメントの立場ですが、当時の経験から引き出していることも少なくありません。
とにもかくにも、とても良い経験でした。
ちなみに、この学生団体で出会った人が今の妻です(笑)
行動してみたら意外と結果は出るものです④フランス語わからないままフランスへ
大学生時代の最後のイベントは「レンヌ第2大学の学部留学」です。
大学自体が国際色強い大学だったのと、ゼミの教授から「留学へ行き見聞を広めるべし」という話があり、私も留学をすることに対して逆に行かない選択肢はないのだろうな、という感じでした。
また日中学生会議を通して、育った環境が違う人と価値観をすり合わせすることにとても興味ややりがいをもっていたので、留学を決意しました。
行く当てをどうしよう、と考えていたところゼミの教授からは「新原は中国だ!」ということを言われましていましたし、自身もそう考えていました。
この時に自分の将来について出来る限り考えてみました。
「自分のやりたい事はなんだろう」
その中で一つの自分の結論としては、「国際公務員になりたい」ということでした。
なぜなら、広島で平和について色々考えていましたし、自身が被ばく3世であること、国際政治を勉強すればするほど「国際機関」というリベラル的な思想に憧れを持ったからです。
それになるためには、色々なルートがありましたが「フランス語が出来る」というのは、とてもアドバンテージになりそうだと考え、周囲の反対を押し切ってフランス語圏への留学を決めました。
交換留学になるので、大学内の試験を通ればほぼ確実になります。エントリーシートと筆記と口頭面接を受ければ完了です。
まだまだ大学全体で「留学へ行く」という決意をする人も少なかったので、無事通過しました。
初めてのフランスは刺激的な生活でした。
言葉がまるで分からないというのもありますが、価値観が日本とは違う。
みんな表情が豊かで、自己主張しかない(笑)
遊びと言えば、公園でスポーツをするか、夕食を食べた後にバーに行って、一杯のビールで会話を2時間も3時間もする、店はそういう歓談の場所しか空いておらずもちろんコンビニもない。
日本であれば、色々な娯楽施設がありますが、娯楽施設はほとんどない。
ご飯を食べて飲んで話して踊ってということを毎晩毎晩やっていました。
大変なこともたくさんありました。
そもそもフランス語がめっちゃ難しかった、というのもありますが
・日本でお付き合いしていた方とコミュニケーションがうまく取れずお別れをする
・学部留学で英語の授業の他にフランス語の授業は全くわからず、併設されている語学学校での補修
・日本人を含むアジア人も少ない街だったのでふとした時にめちゃくちゃ孤独になる
・シンプルに寒い(笑)
・ネイティブの感情が豊かすぎて戸惑う
・夜の飲み会でのネイティブのコミュニケーションが一番難しい
・そもそも「意見」がないと会話についていけない
・公的機関への書類不備などで一時不法滞在者になりかける
・ストライキめっちゃある
など、楽しかったというよりもきつかったの方が強いです。
その中で
・どうせ来たなら、現地の人と飲みながら語学とか現地の人の考え方とか学んだ方が良いよね、
ということで電子辞書とノートを持ちながら、近くのバーや学食に入り浸る(現地の若い人は下ネタを教えてくるのがとても好きでした(笑))
・半年ぐらいして慣れてくる
・中国人の親友が出来る
など、経験できました。
特に印象に残っているエピソードは、現地で野球チームに入ったこと。まさかフランスで野球をするとは思いませんでしたが、幼少期にやっていたこともあり、その誘いを受けた時はまあやってみようかな、という感じでした。
実際にやってみると、確かに現地のレベル感はまだまだ低い(サッカーもやりましたが、こっちはめちゃくちゃレベル高い)。
ジャポネの大物ルーキーが入ってきたぞ!とのことで盛り上がり、試合にも出させてもらえ、めちゃくちゃ活躍しました(笑)
ここでも、スポーツをしている時のネイティブの言葉も難しかったですが、試合をした後のビールは格別でした。
ただ、古傷が痛みこのチームでも外野を守ることになりましたが。。。
そして留学の中盤から終盤になると、フランス人の親友であったりようやく気を許せる関係性も出来てきました。
また、学業の方は国際政治に関する論文を書き上げることが出来、無事単位が下りました。この論文を書く作業は、本当に徹夜続きで思考体力がついたのも、この辺りからです。
フランス留学を総括をすると、
・言語を学ぶには話して話して話す(アウトプット先行)
・どのような土地にいっても時間をかければ気を許せる人が出来る
・思考体力めっちゃ大事
・コミュニケーションは言葉以外にも表情や雰囲気はとても大事
・頑張ってたら誰かが助けてくれる
この辺りを体験できました。
まだまだ小さな箱、価値観の中で縛られていたな、と感じることが出来たフランス留学でした。
就活~社会人4年目
在外公館派遣員試験に落ちる
無事留学から帰ってきて、留学に行く前のキャリアプランを実行に移しました。それは国際公務員になるためのキャリアアップの開始です。大学4年次に留学に行っているので、周りよりも2年遅れての就活。焦りもありましたが、自分に出来ることをやるだけ。
ファーストステップは、「在外公館派遣員」になり、海外(私の場合はフランス語の読み書きスピーキングが出来るようになっていたため、アフリカ圏)に3年赴任をするプランです。
準備期間は約半年ほど。まず情報収集をして試験の対策準備をしました。
試験内容は、フランス語の筆記とフランス語の口頭面接、続いてなぜ志望するのかという小論文と最終面接は日本語での口頭試験でした。
フランス語の筆記(1次試験)と口頭面接(2次試験)は、留学中にフランス政府公認の大学院入学レベルの試験に受かっていたので、難なくクリア。
続いて、最終面接。日本語の面接なので、フランス語よりも出来るはず、ということとこれまでの自分の準備と学生時代のエピソードには自信をもっていたので、緊張もありましたが、「大丈夫受かる」と自分に言い聞かせて臨みました。
試験前に教授にメールをしたところ、「面接時間を教えてください。その時うまく行くように祈っています」という返信が来たことを今でも覚えています。
そんな周りの期待を背負いながらの最終面接。持ち前の行動力とコミュニケーション能力で突破しよう!と意気込みました。
結果、面接内容はボロボロ。。。時間は20~30分ほどだったと記憶していますが、何を話したかもほとんど覚えていません(笑)
ただ唯一、覚えているのは聞かれた内容にズレなく答えられていなく、全く的外れな回答を連発していたことです。本当に何を言っているかわからなかったと思います。
今振り返ると、入れ込みすぎていた、そんな感じです。
この時に自分自身に対して思ったことは、「あ、俺ってコミュニケーション能力低いんだ。」ということ。「俺は変わってるやつなんだ」ということです。
これまで自分がコミュニケーション能力だ!とおもってきたものはコミュニケーション能力でも何でもなく、ただ独りよがりのコミュニケーション。
それを周りがフォローしてくれていたんだとこの時になってわかりました。
「行動力・行動力」と、アクションする方に意識が行き過ぎて、そのアクションから自分で整理して、考えて、それを他人に伝えることやってきてないじゃん、という事に気づかされました。
2週間後、通知が来て結果は「補欠合格」。それが繰り上がりになる連絡は来ず、大学を卒業し1年後の試験をまた受けるか、就活をするか、の二択になりました。
人生2回目の転機。「光通信流能力開発」
1年後の試験を待つか、就活をするか。悩んだ末に出した結論は、就活です。
理由は、ここで落ちたのも何かしらの理由があり、そもそもの自身のコミュニケーション能力を改善しないとダメだ、ということと就活というプロセスを通してコミュニケーション能力を改善しようと思ったことです。
その試験の年齢制限も特にあるわけではないので民間企業に入社して本当にやりたいのであればまた受けば良いと考えました。
半年間、試験の準備に一球入魂していたので、就活の準備を全くしていませんでした。
困ったな~ということで、同級生のすでに就活が終わっている友人に聞いたら、広島だと情報とか入りづらいけど東京とかだと色々なコミュニティーあるから、そういうの見てみたら?おススメをいくつか教えるね!
ということで、なら東京にシェアハウス借りて就活をしてみよう、ということになりました。
何かおススメされたら買ったり、後先考えずにまずやってみよう!となるのは自分の特徴です(笑)
確か11月ごろ、その友人がおすすめする就活のコミュニティーの説明会に参加しました
・就活のはじめに自己分析しても意味ないから、能力(読み書き話す)を上げるべし
・就活を始めて自己分析をするのではなく、複数の内定をもらってから自己分析をするべし
など、一般的に言われていることと比較してだいぶとがってるなーということで、とても興味が湧きました。
そこのトップの人と話して、だいぶぶっ飛んでる人だわ、ということでこの人に就活教わってみようと決めました。
その人の肩書は、「光通信の元統括本部長」でした。正直、当時の自分の知識では何がすごいのかすごくないのかは分からなかったのですが、並々ならぬオーラがありました。
物事を達成する、やり切るときに「誰かに教わった方が早い」という考えはここでも活きました。
「能力開発」という名の営業力指導
そのコミュニティーは一言でいうと、「営業会社」。当時は光通信という会社の事を全く知りませんでしたが、今ならわかります。めちゃくちゃやばいです(笑)
自分史の中でもトップを争うくらいの一番濃い時期でもありますが、一番思い出したくない時期でもあります。
ただ、振り返ると「能力開発をし、成果を出す」という一点においては非常に論理的で体系だった指導方法をされていました。
留学や学生団体をやっていたとはいえ、人生の大半は広島の田舎で育ってきた自分。
とにかく素直に吸収できるものは吸収しようと必死になってやりました。
具体的などのようなことをやっていったかというと
・内定を獲得するという目標の元、KPIを立て各進捗管理が行われる(してなかったら激詰め)
・エントリーシートや面接情報のシェアを徹底的に行う(してなかったら激詰め)
・エントリーシートも一行目に抽象度が高すぎたり、日本語がおかしかったら激詰め
・第一印象やスーツの着こなし、見た目の指導を徹底的にされモットーは「第一印象は一瞬で上がる」(してなかったら激詰め)
・面接練習なども圧倒的な威圧感と緊張感があり(緊張する場で話せなかったら激詰め)
・能力が上がっているか上がっていないかが唯一の基準
・夜になると、ストリート営業ということで、とにかくナンパをさせられる
・夜の店に行って、「チーム戦」という名のクロージングをさせられる
という、方針は一貫していて「読み書き話す」の能力を圧倒的に上げて情報戦とKPI管理で突破するコミュニティーでした。
また、プライベートの指導も含めて、即レス・報連相などを徹底されました。
この後にも書きますが、私には企業内で上司という上司はいません。研修も受けたことはありません。
ただ言えることは、この就活コミュニティーの学長が自分のビジネスにおける最初の上司であり、結果を出すという一点において様々なことを教わりました。
他にも色々なことがあり、書けないことも多いのですが、確かに個人として営業力(面接力)が爆上がりしました。
結果としては、いわゆる大手有名企業からいくつも内定をもらうことが出来ました。
この経験で企業に就職する前から、圧倒的ブラック企業耐性が出来ました(笑)あとは、どうすればコミュニティー運営がスムーズにいくのか、組織において船頭が何人もいるとうまく行かないなど、社会に出る前から小さな社会を経験できたことは本当にプラスだったと思います。
また「結果にコミットする」とは、の解像度がとても上がりました。
これまでの自分の人生のコミットは、まだまだ足りていなかった。
この基準がプロセスはどうであれ、当時の自分からすると高い基準に設定出来たことがとても良い学びでした。
俺と一緒に会社をやろう~内定を蹴る~
就活は無事に終了しました。留学から帰ってきて試験の勉強をしていたと思っていたら、東京に行くと言った息子に対して心配していた母親も一安心。
私としても、在外公館派遣員試験で感じた「コミュニケーション能力の低さ」を幾分か改善出来たことに自信がついていました。
就活が終わった後は、少しゆとりもあったので広島に戻ってゆっくりしようか、このまま東京で何か就職前にタメになるようなことでもしようかな、と考えていました。
そのような矢先に、就活コミュニティーの学長から「俺と一緒に会社をやらないか」というオファーがありました。
寝耳に水のことですし、せっかく一般的には難易度の高いと言われる企業の内定を蹴ってまで会社をやる?ということは悩みました。
そしてそもそも会社をやるってどういうことなんだろう?という疑問もありました。
すごい厳しくてネジの飛んでる人だけど、確かに色々教えてもらった。
学生のうちから起業してみる経験と大きな会社で仕事をするのだと、どっちが今後の人生おもしろいんだろう?ということを天秤にかけました。
その時思い出したのが、インドにいった時のエピソードです。
フランス留学時にバカンスの時に発展途上国を2ヶ月くらいでまわる、ということをしていました。
国際機関で働くなら色々見聞を広めておきたいな、というのが理由です。
その時に印象的だったのが、インドの南の小さな街を訪れた時。今にでも亡くなりそうな方が横にいたにもかかわらず話しをかけることしかできず、周りに呼びかけてもダメで何もできなかったことを思い出しました。
この経験から、机上で勉強していてもダメで自分の能力をつけて影響力をつけていかないとダメだな、と感じていました。
じゃあ、若いうちから自分で会社をやってみるのと大手に入るの、どっちが良いだろうという天秤にかけたときに、若いうちにしかできない起業をしてみる、という選択をしました。
起業。失敗。失敗。~社会人1年目~
各内定を頂いた会社にお断りの連絡をいれ、大学最終学年の7月から会社運営を始めました。
ちなみに大学の単位は全部取り終えていたのであとは卒業論文を書くだけで通学は必要ありませんでした。
会社運営を始めたといっても、その学長のパシりと営業活動を中心にするだけ。
「お前が社長な」と言われ名刺だけ作らされ、設立の手続きや財務側は全くのノータッチです。
今思い返すと、この状況を起業したと言えるのか?というのは、非常に疑問符ですが・・・
事業内容は就活コミュニティー運営、営業代行、当時新規事業として話が出ていた婚活パーティーです。
就活コミュニティー運営は基盤もあり営業代行も光通信式にゴリゴリ鍛えられた営業手法で順調に推移。
売上数字は右肩上がり。約1年間はとても刺激的でドンドン成長していく自分に誇りが持てました。
しかし、それと同時に怖さもありました。それは事業に関してではなく「お金の使い方」に関してです。
日に2桁万円~3桁万円を稼ぎ、その日のうちに申し込みと入金も数日以内にして頂く。
即決営業が基本なので営業が成功すると、キャッシュが手元に出来ます。
そして、その入金頂いたお金をその日のうちに遊びに使う。
そんな日々を繰り返していました。
今振り返ると本当に馬鹿なことなのですが、会社を運営していくというキャッシュフローや経費、運転資金という概念はなく、常にキャッシュは火の車状態。
その状況を危機感としてとらえ、営業をしていく。そんな会社運営でした。
もちろんこれらが長い間、上手く訳もなく1年弱で借金が出来ていく状態となりました。
知り合いや消費者金融などでの借入です。
首が回らないそんな状況で、一緒にやっていた人と連絡が取れなくなり「飛ばれた」と思いました。
クライアントにも事情を説明し、なけなしのお金を払い撤退。
私も資金が尽きていたので、借金だけが残りました。
ホームレス経験、高架下での3ヶ月。
途方にくれたまま、事情を大家さんに説明。家なども明け渡し
行く当てのない散歩を始めました。当時は、多摩の方に住んでいて、そこからふらふらと歩きながら、川崎の高架下での生活が始まりました。
季節は夏前。寒くないことに感謝しながら、多摩地区から歩いてきてさすがに疲れたという疲労感と絶望感で目の前が真っ暗でした。
3日ほど、当てのない、予定のない日々を過ごしながら公園のベンチに腰掛け夜になったら段ボールを敷いて寝るとを繰り返していく。
手元の現金ももうほぼなくなっている、こんな状況でした。家に帰りたい。
携帯電話だけは、家族割に入っていたので当時は自分持ちではない。何度も母親に電話をしようと思いましたが、変なプライドが邪魔して連絡できませんでした。
SNS等も見たくない、携帯の電源をオフにしました。
まず日銭を稼がなくてはいけない。
色々やりました。もちろん空き缶を拾ったり雑誌を集めたり、川に流れつく廃品を分解したりと一日で1000円弱は稼げていました。
ただ、他のホームレスの人もおり縄張り的なこともあったので、そこまでそういうことでお金を稼ぐことはできませんでした。
唯一、私に残ったのは「営業」で、道行くご年配の方とお話をしご飯をおごってもらい生きながらえていました。
一番の思い出は、夜になると近くのコンビニで立ち読みをすることです。どうしても夜になるとネガティブになります。このネガティブな思考を避けるために本に没頭することを心掛けました。そして、睡魔が来たらコンビニを出る。
この時に、生きるとはなにか?という哲学的な問いを自分の中で反芻していました。
いまだ、「これ!」という答えは見つかっていませんが、おごり高ぶらず他人のために自分の全力を尽くすこと、をやり続けることが大事なのではないかな、と失敗を経て強く感じました。
この窮地を脱したのは、友人からの連絡でした。2、3ヶ月も経つと否が応でも携帯を見たくなります。(ちょくちょく見ていましたが)
充電はコンビニや自販機などにつなげて出来ていたので、いつ振りかラインをチェックしました。
その中で大学の友人から「何をしている?大丈夫か?」という連絡が来ており、返信をし電話をした後に、すぐさま家へ来いということで、家に転がり込みました。
この経験は本当につらい経験でしたが、とにかく自分を強くしました。
そして感じたことは、人は独りでは本当に生きれないなと思ったこと、助けてほしいといえば誰かが助けてくれる、自分も誰かに役に立つ人間になろう!と心の底から思った経験でした。
営業会社へ入社。仕事があるだけでうれしい。
友人から連絡があって、いろいろ事情を話しました。
就活以降の話。借金の話。現在の話。これまで我慢していたことを一気に話したおかげで涙が溢れました。
居候をした最初の日の牛丼が忘れられません。
一旦落ち着こう、と言う話になりその友人の家で居候することになりました。
数百万ほどあった借金は、また別の友人ですが、立て替えをしてくれました。
払えるようになってから返してくれれば良いという言葉をもらって感謝と自身の情けなさで気持ちがいっぱいになりました。
友人の家に転がり込んでの最初の一ヶ月間は、居候状態。経営コンサルの会社に入社した友人は朝早く、夜遅くに帰ってきて、私はそれを横目でみながら家事を手伝い、出来る限り邪魔にならないように先に寝て、後で起きるということを繰り返していました。
時間があるときはネットを借りてネットサーフィンをする、です。
そして何をするでもなく、一日が過ぎるのをただひたすら待っていました。
そんな自分の姿に対して友人は何を言うでもなく、週末はお酒を飲み自宅で映画を見て、仕事の勉強をしていました。そこまで突っ込んでこない姿に感謝をしてもし尽くせませんでした。
「自分の弱さを大切にする。その弱さが人を結び付ける」
居候をしてから、数週間が経った時、大学時代のゼミの教授が東京に出張があるから会わないか?という話がありました。
非常に気まずいというか、こんな状態の自分に会ってほしくないなと思いながら会うことに決めました。
そして、一件目は広島出身だろうということでお好み焼き屋。2件目にバーに行きました。
もちろん身の上話をしました。お金の心配をしてくれながらも、そこは自分で何とかすると決めていたので、そのことも話しながら、一つの会話が今でも焼き付いています。
それは、「今自分の弱い部分が嫌だと思っているかもしれないが、それを大切にした方がいい。その弱さがあるからこそ、人は結び付くし協力し合う」という話です。
この言葉に救われた気がしました。自分の弱い部分を、しかもその当時は最も弱い自分を向き合わないといけないと思いながらも向き合いたくない、という葛藤があったからです。
もっと自分の弱さを受け入れよう、そんな気持ちになることが出来ました。
再就活
そんな教授との話で徐々に一歩ずつ前を向くことが出来るようになりました。
そして約一ヶ月くらい経ったところで、さすがに仕事をしないと自分がダメになる、と思い就活を始めました。
当時は第二新卒という言葉がまだあんまりはやっていなかった?時なので、どうやって就活をするんだろう、と知識がありませんでした。
とりあえず友人の家のPCで調べたら「若手の就活カフェ」というものが新宿にあるということで、そこに足を運びました。
その就活カフェにある四季報等を見ながら、そもそもこのカフェってどの会社が運営しているんだろう?と疑問に思いました。
調べてみたところ「ネオキャリア」という会社が運営しており、人材の会社で営業力が強いという口コミがありました。もちろん良い口コミと悪い口コミどちらもあります。
営業力と、激しい職場環境での耐性はあるという自信だけはありました。
そして何より自分の経歴でも受けれそうだったので、とりあえず受けてみることにしました。
すると、エントリーシートを出してから即日で返信、面接をしたいという旨が書かれていました。
そこから事業部長2名と面接、現場のマネージャーと面接。最後に創業メンバーの一人という役員の方との面接があり、内定でした。
エントリーから1週間くらいのスピード感で、他の企業の面接も受けていませんでした。
最後の内定承諾時には、「いつから来れる?」という話に「今からでも大丈夫ですよ」と答え、
じゃあ、明日からよろしく!ということで話になり、まずは仕事を!と考えていたので悩むこともなく入社することに決めました。
当時はネットには「ブラック」「営業会社」とか色々書かれていましたが、流石に私のブラック耐性は強い方だろうと思い自信をもって入社しました。
ネオキャリア入社
当時のネオキャリアという会社は会社規模を1000名→3000名まで急拡大させているフェーズでした。その会社の中でも人材紹介事業の新規事業グループに配属になりました。
研修という研修も確か1日くらいの事務的な手続きなどしかなく、入社翌日からは現場にいき営業活動をするという流れでした。
実際に仕事をやってみると、楽しくて仕方ありませんでした。まずやることがあるからです。しかもブラック企業とは書かれていたけど、理不尽なことは全くないですし、何より成果を出せばドンドン出世できる。
単月の事業部のギネスをドンドン塗り替えていくことがとても楽しかった。
朝8時くらいから夜中まで働き深夜まで飲み、次の日に出社をするという日々でしたが全然ストレスに感じることもなく、日々が過ぎていきました。
ただ離職率は確かに高く、配属されたグループは一時期離職率が70%くらいになっており、入社半年で部下を持つようになりました。
現在の社長との出会い
現在の会社の社長にあったのも、このネオキャリアの新規事業グループに配属された時です。
彼と私は同期入社。人材紹介業でいうとRAとCAという役割をそれぞれやっていました。
お互い、というか斜に構えている私に対して、社長の方から話かけてくれ意気投合。
毎日仕事終わりに飲み行き、入社数か月後には家を借りれる状態になったので、居候をさせてくれた友人に感謝を伝え、その社長の家の近くの東中野という場所に引っ越しをしました。(東中野・4万・5畳一間)
そこからはほとんど毎日仕事と遊びをやっていたと思います。
私はお金もなく着る服も限られていたので、スーツやカバンなどを社長からもらったり時には電気ガスが止まっていたこともありそれを立て替えしてくれました。
そういう感謝の念が過去あるので、今の会社に言続けているのだと思います。
そんなこんなで、事業部の売上の7割くらいを二人で稼ぐまでになっていました。
約1年半ほどそのような状態が続き、私はマネージャーまで昇格しました。そしてそのタイミングで名古屋拠点の立ち上げをしました。
そのタイミングで、今の会社を同期の社長と一緒に立ち上げるか、名古屋拠点を立ち上げるかという選択がありましたが、私は名古屋の拠点を立ち上げることを決断しました。
一番は、過去の苦い思い出があり会社を立ち上げることに躊躇していたことと、その過去の経験から自分たちだけがトップセールスだけではダメで、いわゆる管理側をもう少し学んだ方が良いと考えたからです。
社長はショックそうでしたが、いつかまた一緒に仕事をやるときがあるだろうと思いながら別々の道を選択しました。
名古屋の新規出店
名古屋立ち上げは部下と2名体制で始まりました。急遽決まり、そして引っ越しの申請も出来ておらず部下の引っ越し代を立て替えるという幸先苦しいところからスタートでした。(笑)
新規拠点の出店は順調でした。立ち上げから約1年ほど未達成の月もなく1年で売上で1.5億、営業利益で5000万ほどを稼ぐ組織に最終的になっていました。
ここでは特に苦労話はなく、順調に名古屋を立ち上げたこともあってMVPに選ばれました。
コロナ襲来
1年少しで直部下は15名前後、拠点全体は50名前後になっていました。
このまま、倍々ゲームで計画を立てていき名古屋で業界No1をという目標でやっていました。
しかし、みなさんの生活を一変させたであろうコロナが襲来。
ネオキャリアの戦略は
・マネージャー以下のメンバーを派遣社員としてコロナの影響が出ていない会社に送り出すこと
・マネージャー以上の給与のカット
・その中で生まれるアウトマネジメントを積極的に行う
・営業代行として売れるモノを売り切る
でした。でしたと言うよりマネージャーの私が受け取ったメッセージは上記です。
支店全体で50名くらいいたメンバーはマネージャーの3人を除いて、全員派遣に出されました。
販管費を削減しながら、上記の収益を確保するという全社の大号令がかかり経営危機を乗り越えるという意思決定は正しく無事コロナを乗り切りました。
そんな中で派遣として送り出すメンバーと面談を終え、メッセージでやる気などを管理する毎日。
退職を決意するメンバー。
これで乗り切ったとしても、また一から組織を作って同じようなことをするんだな、と思った時に
自分自身の人生は「このままでいいんだっけ?」という問いが生まれていました。
社長からの打診
コロナが来てから2~3ヵ月が立った時に、常に連絡を取っていた現会社の社長(ネオキャリア同期)から名古屋に来るという話があり、会おうということになりました。
常日頃、お前の組織の売上はどのくらい?今月は勝ったな、今月は負けたな、という話をメッセージでやり取りしていました。
実際に会って話を聞いてみると、会社運営としてはとても大変な状態であることがわかりました。
コロナ融資があるものの、当時は人材紹介事業のみやっており、新規事業で始めていた飲食店への広告事業もコロナにより撤退。売上も8割以上減。社員も30名ちょっとから10数名になった、とのことでした。
このような状況で、このままだと倒産までになる可能性がある、と。立て直しに協力してほしいとのことでした。
普段のメッセージからなんとなく状況は知っていましたが、実際に会って話すと大変そうでした。
色々と今後の人生を考えていた時でもあり、過去、その社長から私が友人への借金の返済でお金がなかった時にスーツや電気代などを払ってもらっていたこともあり、恩返しのタイミングは今だな、と思ったので、その名古屋に来てもらった時に入社することを決めました。
これまで社長を含めて色々な人に助けてもらったことが走馬灯のようにフラッシュバックし、自分の力がより必要な会社はネオキャリアではなくFACだなと感じました。
ここで保守的な方の選択をすると絶対に後悔する、と感じ社長に名古屋に来てもらった翌日に退職の旨を直上司に伝えました。
社会人5年目~現在
転職~新規事業立ち上げまで
上記の話があってから2ヵ月後くらいにネオキャリアを退職しました。
退職してすぐに、当時付き合ってた彼女(フランスに行く前に付き合って分かれた方)と婚約し、全ての環境を変えて背水の陣的な勢いで入社しました。
「すべてをかけて会社を立て直し、伸ばし切ろう!」
実際に入社してわかったことは、確かに会社はボロボロの状態でした。
熱量が高くないメンバーも多く、出社もまばら。逆に会社運営を出来ていたのは社長の営業力だな、と感じました。
ネオキャリアでは自分がトップセールスマンでガンガン売上を上げていくスタイルから、色々な管理体制を敷いて属人性をなくすというテーマで取り組んでいたので、それにフィットする人材としない人材を分けてながら、今後の方針を伝え組織を再構築していきました。
その中で、キーエンスで働いてその後起業していた大学時代の友人も誘って事業の立て直しに取り組みました。
コロナで売上が下がっている状況で、短期的に販管費を上げる選択をしてくれた社長には感謝です。
実際に、色々なことを行い事業の立て直しを図っていきました。
入社時比較で400%~500%くらいは回復しましたが、コロナが第〇派など猛威を振るっている中で、現在のビジネスモデルだとジリ貧。大きな成長は見込めないなと感じていました。
潰れない程度に販管費コントロールなど出来ましたが大きな飛躍は見込めない単一事業の会社。
どうせ倒れるなら前に倒れよう!ということで、幹部メンバーで新規事業を1つずつ立ち上げ、営業活動を行っていきました。
メンバーは全員20代前半!新規営業で思いっきり成果を出してくれました。
そうすると、たまたま飲み屋で出会った前職の先輩に「介護業界はいいよ!」ということで介護領域に採用を掛け合わせたサービスをテストで営業してみたら売れました。
そのことをその先輩に伝え、だったら手伝うよ、と無理やり入社してもらいました。
ここから、会社としてはV次回復。大学時代の友人とその先輩と、その他諸々の方の協力があって1年ちょっとで創業事業を超え、収益が500%ずつ成長していきました。
会社が200名を超えたあたり
その新規事業が偶発的にも伸びていき、会社もコロナ期で20名前後だった組織が2年後には200名くらいの組織になりました。
収益は順調に伸びているものの、メンバーの離職や生産性に大きく課題がありました。
私を含め社長や創業メンバーは光通信やネオキャリア文化を受け継いでいるので、ひたすらゴリゴリに高い目標を立て量でカバー気合いでやり切る!でした。
しかし、それもうまくワークしなくなってきているな、と感じながら自身のマネジメント能力に限界を感じていました。
コーチングとの出会い
そんな中で日中学生会議で寝食を共にした大学時代の友人が、コーチングをやっているということで連絡を取り、実際にクライアントとして受けました。
その中で、新原は絶対コーチに向いているからしっかり学んだ方が良いよ、という言葉をもらったので「マインドセットアカデミー」の門を叩くことにしました。
学校長の李さんの経歴などを拝見すると、人材開発のプロフェッショナルという文字が。
他のコーチングスクールは全く見ずに入校を決意したのですが、基本的にはだいぶ怪しげなものだと感じていました。
しかし、このアカデミーだけは異質な雰囲気があるとの、大学時代の信頼できる友人の薦めということ、自分自身のマネジメントや人材育成に対する考え方をアップデートするためにも今必要なことだな、と直観がいっていました。
迷うことなく入校を決めました。
アカデミー入学
実際にアカデミーに入学してみて、価値観がガラッと変わった気がします。詳細は別のノート記事に譲るとして、個人的に大きな変化は下記です。
・自身の「やりたい」が明確になり軸を言語化できた中でブレにくくなった
・これまでの人生の成功に近いものと失敗が、何故起ったのか科学的整理され再現性が高まった
・「コーチングマインド」に出会い、真なるリーダーシップの解像度が上がり自身の中で自分の人生でリーダーシップを取れるようになったことです。
李さんとの15分、1on1コーチング
特に衝撃だったのは学校長の李さんとの15分コーチングでした。(私の場合は10分弱)
内容は仕事のゴール設定をする、というものだったのですが、今振り返っても自分の思考はぐちゃぐちゃ。
仕事のゴール設定なのに、そもそもの職種の定義を言っちゃう&その職種もバラバラという状態からのスタートでした。
その日は、アカデミー早期メンバーの李さんとの1on1デー。オンラインでの実施ですが、事前に自分が出来る限りの準備をしました。
開始の10分前にはPCの前に座り、話すことをまとめていました。前の1on1が遅れているという連絡が来てホッとしている自分と早くやりたいな、という自分がいました。
zoomがつながり緊張の一瞬。緊張をしている私を察してか、とても穏やか口調で話して頂きました。
「まずね、ダイキは何をやっている人なの?」
個人的には、この問いは衝撃的でした。
なぜなら、確かにこれまで売上利益を伸ばすことだけに注力して、目の前の事をとにかく何でもやる、という状況で
「そもそも俺は何をしている人なんだろう?」という問いを真正面から考えたことがなかったからです。
そしてその問いにこたえられていないからこそ、自身が悩み迷い、一方で「売上利益が伸長しているという一点にのみ安心感を覚えている」状況になっていたんだと。
短期思考にいきがちでそれが組織運営にも出てしまっている、とてもサステナブルとは言えない、その状況こそが自身と組織を次のステージに昇華させるための足枷になってしまっていると気づかされました。
もう一つの衝撃は
「今ダイキが向き合うことは、実家に戻って家業を立て直すことです」
この言葉には本当に頭がかちわれました。
というのも、父親と20年以上会話をしたことがなく、「ボンボン」を築いていた実家の過去は月日とともに苦しい状態、というのを大学辺りから聞かされていたからです。
そして10分弱の時間で仕事のゴール設定をするところから、一番大事な自身の向き合うことが言語化されたからです。
この1on1に臨む前の自分は、かなり錯綜していました。
仕事のゴール設定(未来)を考える中で、
・会社のNo2としてやらなくてはいけない自分と本当にやりたい事が明確になっていない自分
・これまでは成果が短期的に上がっていたため、そこに向き合わずともアドレナリンが出ている自分
・成果を出すために最短で最大のことをやることを心がけていたため、「自分はこうだ!」という定義がなかった自分
・その中で、なんとなく今自分が求められていることを社長とすり合わせをせずに「〇〇であるべき」に縛られた自分
・成果を上げるプロセスの中で、人材開発やマネジメントを自然とやっていたので人事側でキャリアを作っていくべきなのか、という葛藤
・自分で事業をやる!と考えた時に過去の経験から地方経営者のサポートなのか?という過去に捉われた自分
上記、書いていてもとても支離滅裂というか一貫性がないのがわかるのですが、こういう状態でした(笑)
その中で、まず「実家に戻ること」というのをアクション設定出来たことは、この後書いていきますが「呪い」を解き、素直に自身の業務とwant toにコミットする上で大切な通過儀礼だったように思えます。
セッションの最後のコミュニケーションも覚えています。
私「実はお伝えしてなかったんですけど、父親とも生まれてから、面と向かってほとんど会って話したことがないんです」
李さん「ダイキならやれるよ!まずは実家に向き合うこと、これやれるかな?この壁を乗り越えて、次また仕事のゴール設定をしよう!
今振り返ると、過去の「向き合うべきこと」に向き合い切れていないこと、表面的な当時の自分の不満や不安がセッションのゴール設定時に出ていたのだと思います。
20年話したことのない父親との対面
そこでは、ゴール設定をする前に実家に戻って家業を立て直す(向き合うこと)をアクションとして決め、実家に戻り20年以上話さなかった父親との対面を果たし、管理会計など整え数か月伴走しました。
詳しくは、下記のノート見てみてください!
アカデミー中
この最初の李さんとのセッションから「コーチングの本質とは何か」を体感することが出来ました。
講義は約6ヶ月間の時間軸で理論を学びながら実践で習得していきます。
私は学んでいくこと自体がとても楽しく、とても充実した時間を過ごすことが出来ました。
よくコーチングを学んで何が変わったの?と質問されることがありますが
一番変わったのは、
①「want to」(自分の本音中の本音)で生きること
②自分が人生でこれまで「棚上げ」していたものに向き合うこと
これらです。
仕事において、本音でやりたいことで、かつ自分の「エフィカシーの高い領域」が明確になったことで、非連続的な目標(現状の外)のゴールを立てれるようになり、
日々意識しなくてもその現状の外のゴールが無意識的にインプットされているので、気づけばどうやったらそれらを達成できるだろう?を考えるようになりました。
これまでは、過去のデータや経験則から最適解を出すことで目標を立てその目標を達成する課題を整理し、施策を考えていました。
しかしそれは、過去の延長線上でしかないので、イノベイティブなことは生み出せていませんでした。業績などは昨対比で表面上伸びているものの、モヤモヤしたものが頭の中にありました。
今では、例えば、やっぱり自分の中で好きな新規サービスを考えそれを仮説検証していく、この辺りに時間を使い、自分がワクワクすることによって、少しずつ周りもワクワクしている、何かしらのきっかけを与えることが出来ている実感があります。
これまでの私のマネジメントは、KPIを引き管理体制を引き、量を管掌メンバーにしてもらうことで、自分の中の不安をかき消しているだけなんだと気づきました。そして、ワークマネジメントを強いているだけだと。
でも、仲間は人であり機械ではなくそこには感情があり、非言語的なコミュニケーションがあり、各メンバーが自分のwant toに立脚し非連続的な目標に向かっていれば、自然と熱中する。そのような環境を作るために、「リーダー」は本音で生き、その本音を基にした現状の外に生きること、今は実現していない未来かもしれないがそこにトランスしている状態であること。
仲間に夢を持ってもらうためには、まずリーダーが夢を持ち追い続けている姿を見せ続けること、という大切なことに気づきました。
アカデミー卒業後~会社の変革期~
最後に、卒業後の半年間のエピソードを。
過去の自分と向き合ったという事実から、モヤモヤが一気に晴れました。
そこからは、現業の仕事でCHROなのかCOOなのか、など迷った時期もありましたが事業を当事者として伸ばすという攻めの部分が性に合っていると改めて整理しました。
やっぱり、前面に出て結果を出していくことが好きだな、と。
もう少し整理すると
・もともとCHRO!と言っていたのは、当社のビジネスモデル上成果を伸ばすためには「採用・育成・配置」が最重要だった
・この「採用・育成・配置」が、好きであるというよりも、「目標達成」の手段であることが整理出来た
・CHROとして人事側で活動していたが、事業部に対して結局無意識的にPL達成の部分まで介入をしていた
・そもそも人事というコーポレート側よりも、事業側で前線で戦っていくことが好きだと再認識した
・社長としっかりと話し合った。会社の方向性、自身のwant toのすり合わせをして認識をそろえていった。
・父と向き合った際に、呪いが解けた。自分で会社の枠を超えてのチャレンジの内容が自己投影だったので、それを超えた時に素直に会社にコミットをするというスタンスになりました
2024年の4月に当社として最大のチャレンジである、介護施設の買収を行い300名いたメンバーは一気に600名になりました。
30年の歴史がある会社で、介護報酬制度が出来る前からある会社です。
当時は日本のトップ20以内に入る知る人ぞ知る会社です。
私自身は特に「介護業界の変革を作り業界のリーディングカンパニーとして事業を成長させることにコミットする」ことを仕事のゴールとして掲げています。
この4年で15名だった組織は600名へ。今後も新卒採用を含めてドンドン大きくチャレンジをしていく予定です。
特に介護業界の業界構造を変えるようなサービスの構築を目指して仕事に取り組んでいます。というのも、介護業界の最大の壁は、介護事業単体で大きな収益が見込めず異業種参入が増えていっていないこと、だと考えています。
私は、当社の事例を踏まえて異業種参入のきっかけを作り、もっと介護業界が儲かり元気のある市場にしていきます!
また会社マネジメントにおいても、アカデミー、コーチングの要素を取り入れつつ運営を行っています。
特に、セルフエフィカシー(自己効力感)、コレクティブエフィカシー(集団効力感)をどのように作り上げるか、のトライ&エラーを常に行っています。
2024年9月段階で、取り組み始めて数か月経ちましたが、手ごたえを感じています。少しずつミドルマネージャーのエンゲージメントが高まり、熱量が高まり成果が上がる組織が出来つつあります。
ビジネスモデルの構築とエフィカシードリブンな組織を作り上げるため、これからも日々邁進していきます!
これまでの人生を振り返ると、人に恵まれてきた人生。アクションファーストで失敗ばかりの人生です。
まだまだ年齢も30代前半。これからも挑戦を続けていきます。
また最後に、このnoteを見てくれている社員のメンバーもいると思いますが、事業が伸びるときはいつだって若い力(私も若い!)がけん引する!
一緒に業界のリーディングカンパニーを作っていきましょう!
ここまで読んでいただきありがとうございました!
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