長編小説「HELLO」
はじめに
この小説はSBSラジオ「チョコレートナナナイト」の企画において私が2週間に一度のペースで書き続けた小説です。
8万字越えの大作ですが目を通していただけると幸いです。
なお、小説にしたときには縦書きだったのでそのまま漢数字を用いています。見にくいかもしれませんがよろしくお願いします。
1話
決して心地良い音ではなかった。がたんごとんと今にも壊れそうな音を発しているその物体は、不信感とは相反して安全に目的地へ送り届けてくれる。一両編成にも関わらず、両隣に誰もいない日常にはもう慣れたが、もはや一両すらいらないのではないかと最近思い始めてきた。
「ねぇこれやばくない?」
「あ!ユーチューバーのタクでしょ?みたみた!」
紺色のブレザーに臙脂色のリボンの制服を着た、同じ高校に通う女子高生が今時の話をしている。その隣では、周囲に人などいないと思っているのか、ベージュのブレザーにチェックのスカートを着た女子高生が鏡を見ている。車両の反対では、名前も知らない先輩たちが、つり革にぶら下がりながら、周りに気も遣わず笑い声を轟かせている。
父親の転勤で地元から離れた高校に進学した僕だったが、入学して二週間、少しずつステレオタイプの田舎に慣れてきたところだった。
電車からは山や木々しか映らないが、結局はスマホしか見ないので景色なんてどうでもいい。
「西小林駅。次は西小林駅――」
無機質なアナウンスが聞こえてくる。この駅ではいつも同じ制服を着た学生が我先に足を踏み入れてくる。椅子取りゲームでも始まったかのような奇妙な光景だ。
その第一陣からは遅れて、朝の忙しさを感じさせない、見慣れた顔の二人が談笑しながら歩いてきた。
「野球って凄いんだぜ?ピッチャーがボールを投げてからキャッチャーに届くまで〇.五秒くらいしかかからねぇの。もうビュッってうちにズバンッって感じ!その間にバッターは球種とコース、打つか打たないかを判断してるってすごくね?てか俺すごくね?」
坊主頭でガタイのいい、いかにも野球していますよという風貌のお調子者が、優しそうな顔を携え頷く小柄な生徒に話しかけていた。そのまま僕を見つけたらしく、こちらに歩みを進めてくる。
「よおスーパースター。今日も会ったな!」
野球部らしい風体の小木津が僕に向かって話しかけてきた。
「そりゃ休むか、時間を変えるかしない限り会うだろ」
僕はあえて温度差を感じさせるような返し方をした。
「そりゃそうか!それは言う通りだな!」
ガハガハと豪快に笑いながら小木津は目の前でつり革を握った。
「そう言えば、小木津君は友部君のことを中学のときから知っていたの?それとも同級生?」
小木津の横に立っている守谷はこちらを向いて、か細い声で僕に話しかけた。すると僕が口を開くより先に、小木津は僕のことについて食い気味に話した。
「同級生じゃないんだけど、こいつとは腐れ縁でな。対戦したことがあるんだよ。その地区に友部あり!って言われるほど有名なピッチャーでな。一三〇キロ近いストレート。キレッキレのスライダー。甲子園の常連の花園学院からスカウトも来ていたって噂。そんな選手を知らないわけないだろ!」
興奮した様子で小木津は話を続ける。
「俺が初めて友部と対戦した時はビビったね。本当に同じ学年かって思ったもん。ストレートはビュンって音が鳴るくらい速かったし。スライダーなんて消えるんだぜ?これは比喩じゃなくてガチ!あっこういうやつがプロに行くんだって初めて思ったもん」
小木津は続ける。
「ただな守谷。俺はひとつだけ自慢があるんだ。その試合のチームのヒットは一本。ボロ負けだったんだけど。唯一のヒットは誰だと思う?そう俺!バットに当たった!って思ったら、ボッテボテでさ。ショートに転がっていったの。でもこれならセーフになると思って全力で走ったわけよ。腕とれるかと思うくらい腕ふってさ。一塁ベースではヘッドスライディング。結果は内野安打!もう必死必死!これは将来自慢できると思ったね!」
ギアをカチッと入れたように、話のボルテージが上がった小木津を抑え込むように僕は話す。
「スカウトなんてきてねえよ。だいたい県大会じゃ話にならなかったしな。小木津と対戦した時はたまたま調子が良かっただけ」
第三者の守谷からは、僕が謙遜していると見られたか、それとも謙虚だと捉えられたか。いずれにせよ話を聞く前と後では表情が違っていた。
「やっぱり!友部君って凄い人だったんだ。初めて会ったときからオーラがあるなぁって思っていたんだよ。僕の目に狂いはなかった」
目を輝かせながら守谷は半歩分ほど距離を縮めてきた。しかしとある疑問を抱いたのか、首を傾げて僕に尋ねる。
「あれ?でもなんで秀山高校に進学したの?」
どくん、と心臓が鈍くいやな音を立てる。それは僕にとって一番聞かれたくない質問だった。小木津からあんな話を聞かされて、守谷が僕を過大評価してしまっていることは明らかだった。だからこそ疑問に思ったのだろう。
―なぜ野球が有名ではない、この高校に進学しているのか―
なんて答えようか。悩んでいる間に守谷は自分で解決したのか「あっ」と何かをひらめいたように表情を輝かせた。
「そうか!漫画で見たよ。弱小校を自分の力で甲子園に導くみたいな感じ?茂野吾郎じゃん!」
「そうなんだよ。あーかっこいい!仕方ないけどカッコいい役目は友部に譲ってやるよ。でもな!そんなお前と野球できるってすっげぇワクワクしてるんだ!昨日の敵は今日の友ってな。かつてのライバルが弱小校で甲子園に挑む。かぁー青春だわ!」
僕が発言する隙間を意図的になくしているのか。それくらい息のあった、それでかつ聞いているこちら側が赤面するような言葉を二人は投げかけてくる。
「やめろ恥ずかしいから。参った参った。」
両手を顔の横まであげ、降参のようなジェスチャーをする。その反応に更に機嫌を良くしたのか、小木津は電車内に響くような声で「よっしゃ」とガッツポーズをした。
「今日から俺たち新入生も練習に参加できるからさ!もう入部届は出しただろ?これから頑張ろうな!」 彼の周りのオーラが見えるとしたら黄色だろう。それくらい喜色に溢れた、そこはかとなく明るいトーンで話す小木津の目は、淀みなくただ一点、僕の目を見据えていた。
それに呼応するかのように、下ろしていた目線をゆっくりと上げて僕もじっと見つめ返す。その目は純粋で眩しくて、希望に満ちあふれた色に輝いていた。
(なんでこんなに澄んだ目をしているのだろうか)
すると見つめ返した眼差しにたじろいだのか、小木津の眼球が左右に揺れるのが見て取れた。
それから時間にすると五秒弱。今までの騒がしさが嘘のように黙り込んだ小木津との間を静寂が支配する。一瞬だがその間は数分にも感じた。
男同士が見つめ合う。僕と小木津。やがて、二人の間の静寂を破ったのは僕からだった。僕は鉛でもついているかのような重い上唇を上げた。
「ごめん。もう野球はやらないって決めているんだ。」
その一言は、小木津の表情を凍らせるには十分過ぎた。
2話
スポーツなんてどこまでいっても個人競技でしかない。野球は一五〇キロ投げるピッチャーがいれば打たれないし、サッカーはドリブルで十人抜きすればいいだけだ。チームみんなに役割はあるといっても、ひとりひとりの役割の大きさは違う。
県大会の二回戦。スコアボードの五回裏につけられた「×」印は味方のベンチとスタンドを静寂へと変えた。〇対十二。まさに完敗だった。
あの時に、キャッチャーの要求通りに投げていれば、首を振らなければ、もう少しインコースに投げていれば、そんな後悔など微塵もない。まるでアリが象と相撲を取るような、カメがチーターとかけっこするような、某配管工のゲームで無造作に踏みつぶされるシイタケ状のキャラクターのような、力の差だった。僕はまさにチュートリアル感覚で打ちのめされたのだ。
―一人の天才によって―
四番センター藤代。その名前がアナウンスされると球場内は連鎖反応を起こしたかのように徐々にざわつき始めた。藤代伊吹。それが天才の名前だ。
もちろん知っていた。いや、この県で野球をしていれば知らない中学生などいなかった。お世辞にも都会とは言えないこの県に年代別の日本代表選手がいるんだ。知らないはずがあるものか。
そいつは中学生とは思えないほど太々しい顔つきに屈強な身体を携えて、ゆっくりとバッターボックスに立った。一八〇cmを優に超える身長に、その身長が特徴的で無くなるほどの横幅。それはホームランバッターに違わぬ体躯だった。
「こんなに大きいのか……」
ボソリと呟いていた。まるで樹齢二百年を超える大樹が右バッターボックスから生えているようだった。
僕はマウンド上から天才の二重の目をじっと見つめる。初めて相対する天才。負ける気などさらさらなかったが、打席に立った相手に、自分の心がキュッと萎んでいくのがわかった。
一球目。勝負は一瞬でついた。インコースのストレート。自信のあるボールだった。リリースした手が、指先が、キャッチャーの構えたところに投げられたと返事をしてくれたようだった。
しかし次の瞬間。鋭い音とともに、僕の目線は素早く右に動いた。重力など知ったものかと言わんばかりの打球は三塁手の頭上二mほどを超えて、そのままスタンドに飛び込んでいった。
まさに一瞬。いや一閃だった。一瞬の静寂のあと、球場全体がその打球をホームランと認識するやいなや、どよめきと歓声が僕の周りを包んだ。
その地鳴りのような声援に背中を押されたのか、あっという間に天才はダイヤモンドを一周した。僕はその姿を目で追うことができなかった。気がつけば両手は膝の上にあり、目の前にあるプレートをじっと眺めていた。
(こんなにもレベルが違うのか)
コツコツと日々の練習で積み上げられた積み木のような僕のプライドは、無邪気な幼児が蹴り飛ばしたかのようにガラガラと音を立てて崩れ去った。そこからはよく覚えていない。いや思い出したくないのが本音だ。コントロールを乱し、作業のようにヒットを打たれ、天才にトドメを刺されただけだ。
気がつけば試合終了のサイレンが鳴っていた。
四打数四安打一本塁打六打点。天才と相対して完敗という言葉ですら相応しくない負けっぷりだった。
挨拶を終えた選手が、定規で書いたかのようにピンとそろった列を崩した後、先頭にいた僕のチームのキャプテンが、一目散に駆け寄ってきた。僕の目の前に立つと、赤くなった目に涙を浮かべ、その言葉を吐き捨てた。
「お前のせいだからな」
※
スタジアム近くの公園の風は、汗で滲んだアンダーシャツとともに身体を冷やす。不器用に形作られた楕円形は眼光鋭く睨む監督を囲んでいた。他を顧みることなく涙を流す仲間の姿、魂が抜けたかのように立つのが精一杯な姿のチームメイト。それを後ろから静観する保護者。どれをとってもその光景は敗者を物語るには十分だった。
その楕円形の中で、鋭く光る視線を感じた。チームのキャプテンだ。そいつは涙を零さぬように覆った手の隙間から、まるで親の仇のように、僕に睨みを利かせていた。
「お前のせいだぞ」
確実にそう訴えているであろうキャプテンの目を見て、僕の中の心の糸はプツンと音を立てて切れた。
(今まで勝ってきたのは僕のおかげだろ)
心の中にどす黒い霧が渦を巻き始めたのがわかった。
勝てばみんなのおかげ、負ければピッチャーのせいってか。お前たちはこの試合一度たりともマウンドへ声を掛けに来てくれなかったじゃないか。助けてくれなかったじゃないか。それをなんで一人の責任に転嫁できる。おかしいだろ。
チームメイトのすすり泣く音がこだまして不協和音となり、僕の心の霧をさらに漆黒に染める。
だいたいなんでお前たちが泣いている。練習もちゃんとやってこなかったお前たちがなんで俺より悲しみを覚えることができる。僕はこれまで練習も手を抜かずに、勝ちたいから、負けたくないから力を入れてきた。お前たちは練習でへらへらと笑いながら喋っていただけだろ。
悲しむ権利は平等じゃない。そこまでにどれだけ自分の時間を割いて取り組んできたか。遊んでいたやつが、寝る間も惜しんで練習してきたやつと同じ時間、同じ場所で、同じ涙を流していると思うと腹が立って仕方がない。
そう考えると、心の温度がストンと音を立てて下がっていくのがわかった。
(馬鹿馬鹿しい)
努力してもあいつには手も足もでなかった。苦しい状況をチームは助けてくれなかった。それどころか人のせいにしやがった。何がチームスポーツだ。何がチームワークだ。それじゃ一人でやっているのと同じじゃないか。
そう考えると止まらなかった、溢れ出した言葉は僕の中にあったスポーツという熱を完全に冷ましていった。
……だからもう野球なんてやらないと決めたんだ。
※
「え、え、どうしてだよ…」
小木津の強張った口元が、体格に似合わないか細い声を振り絞った。
確かにそうだ。これだけ野球部に入ることを切望されていたやつが入部しないといったんだ、当然の反応だろう。
僕はその言葉を受けて、じっと小木津を見据えていた目線を徐々に下ろし、事前に用意してきた言葉を並べた。
「高校では勉強をしようと思ってる。最初から野球部には入らないと決めてたんだ。だいたい大した才能でもないんだから勉強した方がマシじゃね?」
必死に笑顔を浮かべたつもりだったが果たして二人はどう感じたか。下げた目線から、引きつった表情から、その真意を悟られたかもしれなかったが、もう決めたことだ。野球はやらないんだ。
しかし納得がいかなかったのか、小木津が右の掌を僕の目の前に弱々しく突き出し、静止するジェスチャーを見せながら話す。
「ちょ、ちょっとまった。で、でもさ。そんな才能あるのにもった…」
「小林駅―。小林駅です」
必死に説得しようとする小木津の声を遮る音が、電車内に響き渡った。
「ほら、降りるよ」
僕はそう二人に話すと、すっと立ち上がり、二人の横を抜けて電車を降りた。二人が追いかけるように歩いてくるのが分かったが、そのことなど気にも留めず歩みを進めた。しっかりと力強く。その力強い足取りは、意思の強さに比例しているかのように僕の高校へ向かう。
「もう決めたんだ……」
僕は一七〇センチ先にある地面に届かない程の大きさでそっと言葉を置いた。
3話
窓越しの空を見上げると、今にも雨が降り出しそうな灰色が広がっていた。これだけ降りそうなオーラを醸し出しているのならいっそ降ってしまえばいいのなと心の中で呟く。
外の風景から教室に視線を戻すと、黒板の前には挙動不審な守谷が立っていた。先生に当てられたのだろう。しかし守谷はその不安げな顔とは反対に、答えには自信があったのかスラスラと数学の問題を解いていた。守谷が書いた答えに先生が丸をつけると、教室内では線香花火のような拍手が沸き起こった。
秀山高校はその地区では有名な進学校だ。一学年二百人に対し三十人くらいは国公立大学に毎年進学する。田舎の地区においては、国公立大学に入るだけで親戚が手放しで称賛してくれる。それを思えば、田舎の国公立大学卒という肩書きは非常に大きいものなのだろう。
しかし、それだけだ。地元では進学校でも、県内においては普通の高校だ。県内トップクラスの進学校からすれば、秀山高校はその他の有象無象の高校に分類されてしまう。またスポーツは、陸上部やバスケットボール部と全国クラスの部活動はあるが、肝心の野球部は何十年も前に一度ベスト四に進出しただけだ。特徴ない学校と一言で片付けるならそうなのだが、万年受験戦争をしている進学校のようなピリピリした雰囲気ではないので、そういう意味ではそこそこの進学校で良かったなとも思っている。
秀山高校に入って二週間。やっと学校のルーティーンにも慣れて、クラスの雰囲気にも馴染んできたところだった。最初は自分の身体に合ってないと感じていた机と椅子も、今では入れ替えられていたらその感覚で違うと見抜けるのではないかとまで思っている。
「いやぁ〜びっくりしたよ。いきなり当てられるんだもん」
間の抜けた声が聞こえてきて右を向くと、守谷が隣に立っていた。いつの間にか休み時間になっていたようだ。いやぁー緊張したーと言わんばかりの安堵の表情を浮かべる守谷を見上げながら、僕は口を開ける。
「でもさすがだったな。首席入学の肩書きは伊達じゃないな。」
冷やかし気味に、片方の口角を上げながら、僕は視線を合わせた。
「えへへ。友部くんに褒められると嬉しいなぁ。」
守谷は背景に花が見えるほどの笑顔を見せて、そう返した。
さすがは平和主義者。争いを好まないというよりは、争うことを知らないという表現が正しい。全てを肯定的に受け取る守谷は、他人から騙されそうな危ない要素を孕んでいるが、一緒にいて心地よい人種であることも確かだ。
「でも友部くん。授業はちゃんと聞かないとダメだよ!外ばっかり向いて。先生、気が付いていなかったから良かったけど」
崩した表情をキリッと整えると、守谷は珍しく強い口調でそう話した。
「あの先生、分かっている事を何度も話すだろ?こっちは早く次に進んでもらいたい訳よ。ってか守谷もこっちばっかり見てるんじゃねぇよ」
授業中の行動まで干渉してくるんじゃねぇよと思い少しムッとしながら守谷に返すと、言い足りないのか守谷は続ける。
「今は簡単かもしれないけど、これからもっと難しくなってくるんだよ?何にでも基礎は大事っていうじゃん。ちゃんと聞いとかないと」
まるで母親から怒られているような諭す口調で話す守谷に、僕は渋々返事をする。僕が折れないとこの長い長いお説教は終わらないと理解したからだ。
「はいはいわかったよ。ちゃんと聞きますよ。守谷って意外と頑固なところあるんだよな。こうなったら敵わないわ」
文字通りお手上げのポーズをすると、守谷の表情がいつもの緊張感のなさを取り戻した。
「それでよし!えへへ。友部くんに勝った!」
勝ち負けじゃないと思うけどなという言葉は口には出さず、やれやれと思いながら、守谷を手で追い払う。
「そろそろ席につけよ。授業始まるぞ」
泥棒猫を扱うようにぶっきらぼうにそう言い放つと、はーいと宙に浮いた言葉を返して守谷は席に戻っていった。その守谷を目で追いかけながら、自然と視線を机に戻す。そのまま流れ作業でうつ伏せになった。
「はぁ」
深呼吸にも似た大きなため息をつくと、酷く自分の気持ちが沈んでいくのが分かった。
高校に入学してからというもの、何に対しても心が熱くなる瞬間が一つもない。中学の時に野球に捧げたあの情熱はどこに行ってしまったのかと思うほど自分の心は冷めきっている。同級生が勉強に、恋愛に、遊びに、そして部活に、現を抜かしている最中、僕は現すらも抜かしていないのである。彼らはエネルギーの総量を器用に分配しながら、やれ彼氏彼女だ、やれファッションだ、やれゲームだと、興味を引くものに心血を注いでいる。それに比べ僕はどうだろう。煮えきらない心や身体、本来注がれるべきエネルギーはどこに消えていくのだろうか。世間では、そういった希望がなく、自堕落に、目的もなく過ごす事を灰色と定義しているが、一体誰がそんな事を言い出したのだろう。灰色の高校生活にピッタリと当てはまると言ったら自意識過剰か。まぁその定義の範疇にはエントリーしていると我ながら思っている。
勉強も同じだ。全く心が揺さぶられないのだ。入学前は勉強に集中すると、高らかに親へ宣言したものの、蓋を開いてみれば、ただのやる気のない平凡学生に成り下がっている。勉強だけならまだしも、何に対してもやる気が出ない抜け殻のような生活を送っている。
「ダメだダメだと思ってもやる気は出てこないんだよぁ……」
机に向かって吐息のような声を漏らすと、より自分が惨めに思えた。
カチッと自分の心に火をつけてくれる着火剤のような出来事が起きてくれないかと思うが、どうせ今日も何も記憶に残らない一日になるんだろうなと辟易しながらどんよりと心が重くなる。この二週間ですっかり聞き慣れたチャイムが鼓膜を震わせ、また外を眺めるだけの授業が始まる憂鬱に目を背けながら、僕は顔を上げた。
4話
初めて友部の球を見たとき、ああなるほど。こういう奴がプロに行くんだなって中学生ながらに感じた。しかし清々しいほどの力量を見せつけられた相手が、まさか同じ高校に入学しているとは思わなかった。「嘘だろ」と信じられない気持ちで一杯になった後に、少しずつ高揚感が自分の身体を満たしていくのが分かった。これからだ。中学の頃は二回戦に駒を進めるのが精一杯だった。弱小中学の御山の大将だった俺が、ようやく、ようやくだ。勝てるチャンスが回ってきたんだ。友部がいるなら秀山高校でも勝てる。人差し指を天に掲げ、マウンド上でチームメイトと勝利に喜んでいるシーンが脳裏を駆け巡った。
―ごめん。もう野球はやらないって決めているんだ―
だからこそ電車で友部から言われた言葉はショックだった。その思い描いた未来がガラスのように一瞬で砕け散ったのだから。いやそうじゃない。憧れたヒーローと野球ができることにワクワクしていただけだったんだろうな、俺は。チームが勝てるとか勝てないとかどうでもいい。アイドルと握手ができた。ツイッターで俳優から返信がきた。そんな憧れの存在と距離が縮まったような感覚を期待していたんだだろうな。
だけど、そんな返事で「はいそうですか」と言えるほど軽い気持ちで誘ったわけではない。唇を噛みしめて一つの言葉が脳内に浮かぶ。
(諦めてやんねえからな……)
俺が諦めるのを諦めろってかっこいい台詞あったよなぁと思いながら、その漫画がどの漫画なのか思い出せないままベッドの上に寝転ぶ。時計は夜の十一時を指していた。机の上に乱雑に積み上げられた教科書。一ミリの傾きもなく貼られたアイドルのポスター。漫画しか入っていない本棚。六畳の小さな部屋には自分だけの世界が広がっていた。ベッドの上に寝転がり白なのかベージュなのか分からない天井を見つめる。高校に入学して一ヶ月が経とうとしていた。もう何度友部を野球部に誘っただろうか。休み時間。昼休み。放課後。友部からしたらもはやストーカーの領域だろう。シチュエーションを変え、手段を変え、何度も何度もトライした。しかしアイツが首を縦に振ることはなかった。これで最後だ、これで最後にしよう。と思いながらも気がついたら野球部に勧誘している自分がいる。
『最後のお願い。当麻と野球がやりたいからさ。明日野球部の練習だけでも見にこない?』
『見に来るだけでいいから。それで練習の雰囲気が好きじゃなかったらもう俺は諦めるよ』
五分前に送信したメッセージと睨めっこしながら、ベッドの上にスマホを置く。見に来るだけでいい。見に来てくれさえすれば、野球がしたくてウズウズするに決まっている。来てくれればこっちのもんだ。
すると自分の耳元で携帯のバイブ音がなった。友部当麻と名前が映し出されていた。恋にも似たドキドキ感を携えてラインを開く。
『最後って何度目だよ。見にいくだけな。一度だけだぞ。何時から?』
絵文字も何もない簡素なメッセージに、思わず目を疑った。今まで何度誘っても「ノー」の返事しかなかった彼から送られてきたのは、待ちわびた「イエス」の言葉。何度読み返しても「見に行く」という言葉に変化はない。思わぬ返事にベッドから身体を起こしてしまった俺は、胸の高鳴りを抑えて、「十七時から」と丁寧にメッセージを送った。「よし!」と思わず大きな声とガッツポーズが出てしまい、親に聞こえてないかなと心配になりながら部屋の電気を消した。
※
別に大した意味はなかった。心境の変化があったわけではない。もはや公害と認定して欲しいほど酷い小木津からの勧誘に嫌気が刺していただけだ。何度も何度も、数えきれないほど「野球部に入らないか」と誘われ、それがいつの間にか「野球部の練習見に来ないか」に変わっていたから折れてやっただけだ。見学して小木津がもう誘ってこなくなるなら一日くらい安いものだ。
小木津はきっと「やっと入る気になってくれた」と能天気な頭で、入部までのシナリオを思い浮かべているに違いない。そう思いながら廊下に目をやると、窓際の席からでもはっきり見えるほど目をキラキラさせた小木津が立っていた。目が合ったのに気付いた小木津は僕に向けて、SOS信号でも発しているかのように大きく手を振った。想像以上だな…と笑いそうになるのを堪えて、僕の顔は仮面でも被ったかのように冷静で冷徹な表情を浮かべ視線を送った。
名前もまだ憶えられていないクラスメイトの号令で挨拶をすると、小木津が手招きをしているので、渋々黒いリュックを机の上から持ち上げ、廊下へ向かう。
「どんだけ嬉しいんだよ」
気怠そうに教室から出てきた僕は黒いリュックを背負い直してそう話す。
「嬉しいにきまってんじゃねぇか!長きに渡った勝負に終止符を打てたんだぞ?やっと恋が成就したんだぞ?その記念日なの!今日は!」
「きもちわるっ」
聞こえないくらいの声で僕が話すと、全く気にもしていない小木津が被せるように叫ぶ。
「よっしゃーグラウンド行くぞぉーレッツゴー」
半ば引っ張られるように足取り早くグラウンドへ向かわされる僕であったが、その足取りとは反対に心はまだついていっていない。入る気なんて毛頭もないのだから仕方がない話だ。しかしその気持ちなんて小木津が想像する訳もない。教室からグラウンドに向かうまで僅か五分ほどであったが、野球部員が七十人いるやら、去年の夏の大会は二回戦敗退やら、来週一年生にもチャンスがある試合があるやら、聞いてもない情報を小木津がペラペラ話す。僕はわざとウンザリした顔をみせたが、テンション高い小木津は意に介さない。そんな無敵状態の小木津から「なぁうちの野球部すげぇだろ!」と言葉が飛んでくる。もう何を言っても無駄だろうなと呆れる僕は、「そうだな…」と愛想笑いを浮かべるしかなかった。
※
校舎に夕日が差し込みグラウンドにいる球児たちを照らす。そんなに大きいグラウンドではなく、センターからレフトにかけてサッカーグラウンドも広がっていて、ああ、グラウンドは共有なんだと僕は理解した。真新しい練習着の背中のところに名前が濃く描かれている選手たちがグラウンドを整備しているのを見て、隣にいる小木津に「お前はいいのか?」と話した。
「俺はキャプテンに今日はお前を案内しろって言われてるからさ!一年生のグラウンド整備も練習も今日はやらないんだ」と自慢げに話す。いいのかそれはと思いながらも、新入生相手にしては考えられないほどの好待遇に、キャプテンにもこいつにも感謝しなきゃなと思う。
「やあ、君が友部くんか!話は聞いているよ」
使い古した練習着とは反対に、さわやかなスポーツマン以外に形容のしようがない選手がこちらに歩いてきた。隣の小木津がその人を見るや否や、「しゃっす」ともはや挨拶の原型を留めていない言葉を発したので、その人が先輩だと分かった。
「この人がキャプテンの古河先輩!」
目を輝かせながら小木津がそう話すので、古河先輩を心から敬愛しているんだなと友部は思う。
「よく来てくれたね!心から歓迎するよ!雰囲気だけでも感じてくれたら。うちは楽しいよ」
心から野球を楽しんでいると言わんばかりの笑顔を古河は見せると、ではと言って、走って練習に戻っていった。
「うちのキャプテン。かっこよくて。野球も上手いんだ。それでいて優しいの」と小木津。
「そうだろうな。あの余裕ある感じ。良い人っていうのは一目で分かったよ。あと……モテるだろ」少し嫉妬のような感情を交えながら小木津を見上げる。
「そりゃもちろん。なんかファンクラブみたいなのが出来ているみたいよ。既に1年にも何人かいるって言ってた」
小木津はすげぇよなぁと言いながら練習を見つめる。友部もグラウンドを見渡すと、七十人近くの選手が、見事に動きを揃えてグラウンドを走っていた。先頭のキャプテン古河の掛け声のあと地鳴りのような野太い声が響き渡り、思わず「おぉ」と声を漏らした。
「すげぇだろ?」
小木津が友部の心情を汲み取って話す。
「中学生の時に練習見にいったことがあって、俺もこのランニングに圧倒されたんだ。これもあの古河キャプテンのおかげ。あの人がいるからあれだけチームは纏まれるんだ」
その話を聞くと、友部は確かになと妙に納得してしまった。チームのために全力を尽くすキャプテン。それに付いていくチームメイト。一つの目標に向かうチームとしての姿勢は、今まで所属したチームには無かったものだった。時折、声が出ていないという先輩からの檄が飛びながらも、どこか楽しそうな選手たちの姿を見ると、ある感情が友部の心に芽生えた。
(中学までのチームとは大違いだな……)
蝉の鳴き声にかき消されるほどの練習中の声。自分さえよければ良いと、言われなければ準備もしないチームメイト。遊びの予定ばかり立てて自主練の姿など見たことない同級生。そして……負けたのをピッチャーのせいにするキャプテン……。
このチームにあるものは、今までの経験を全て否定するほど全く異なるものだった。
羨望とも嫉妬とも取れる感情は友部の心を揺さぶった。「どくん」と気づかないほど微かに響いたその音が、まるで波紋のように、徐々に、確かに友部の中を支配していく。その鼓動は半年ぶりに友部の胸を高鳴らせた。
5話
おそらく一+一=二ではないだろう。一×七十=七十でもないだろう。もちろん数学の話ではない。スポーツの話においてはだ。一人一人がどれだけチームに自分を捧げられるか、自分を犠牲にできるかで、チームとしての価値は数倍にも膨れ上がる。
確かにその瞬間はそう感じた。グラウンドに作為的に散りばめられた七十人。彼らはとても七十人には思えないほど、暴力的な大声を発していた。しかも、カエルの大合唱のような四分五裂の状態ではない。その一つ一つの声が、言葉が、一本の太い線に沿って出されているかのような印象を受けた。
「うちのチームは声だけは出そうって、チームとしてやるべきことはやろうって決めているんだ」練習風景を見つめる小木津が目を細めながら口を開く。
「そりゃ弱いよ。いけて二回戦か三回戦が精一杯のチームだよ。でも野球ってそれだけじゃない。スポーツってそれだけじゃないだろ?だから一人一人がまず声から出そうって決めているんだ」弱いチームというのに引け目を感じているのか、小木津は言葉を付け加えた。
しかしそんな小木津の言葉は、喉に刺さった魚の小骨のように友部に不快感を与えた。怪訝な顔を浮かべた友部が強い口調で話す。
「それだけじゃないってどういうこと?勝つ以外に、優劣をつける以外にスポーツで意味があるのか?」
スポーツで得られるものなんて、勝った優越感と、やり遂げた達成感だけだろ。秀山高校の練習を見て、チームワークとはこういうことかと僅かながら実感した友部であったが、それだけがスポーツをやる意味とは到底思えなかった。
額に青筋を浮かべた友部をじっと見た後、小木津はなるほどなというような納得した表情を浮かべた。
「友部。お前はチームメイトに恵まれなかったんだな。野球を一人でやってきたんだな。というか負けてこなかったんだな」
「負けてこなかった?」
友部は小木津の言葉を反復する。
「そう。多分人生において、負ける経験ってそんなにしないと思うんだよ。そりゃ試験に落ちたとか、会議で失敗したとかあるかもしれねぇけど、週単位で負けるわけじゃない。あって一ヶ月に一回くらいのものだろう。でも俺はなんと驚き、週に二回は負けていた。いや酷いときは週に四回負けてきた」
「負けるのって嫌だよな。勝ちたいよな。でも負けても次は勝つぞっていっつもへこたれずに野球続けてきた。そういったニンタイリョクって言うんだっけ?それが身についたと思うんだよ。チームみんなで勝とうって。次こそはって。じゃあそのためにはどうしたら良いって考えながらさ。時には仲間同士で言い合ったり、喧嘩もしたり。でもその時間って今思い返すとすっげぇ楽しかったんだよな」
「でも負けるより勝った経験の方が良いに決まってないか?だって勝つためにやってるんだからさ」
納得してない様子の友部は唇をきつく結んで反論した。
「それは……その通りだな!」
小木津はガハガハと大きな笑い声を上げた。しかしそこから表情を整え、ゆっくりと友部の目に視線を配った。
「でもさ友部。お前、電車の中で話したことあったけど、俺との試合の内容を本当に覚えているのか?どんな展開でどう勝ったか思い出せるか?勝った試合って印象に残らないんだよな。特に友部。お前みたいにいっつも勝ってきた人間はな。意外と負けた試合の方が鮮明に思い出せるんじゃないのか?例えば県大会の二回戦」
「そんな事ねぇよ!お前の試合だっ……て」
簡単に思い出せる、と続けようとしてハッとした。確かにそうだなと友部は思った。正直なところ勝った試合というのはほとんど覚えていない。小木津の中学の試合も小木津がいたことすら覚えていない。覚えているのは、県大会の二回戦。いや初めて負けた相手「藤代伊吹」だけだ。
「確かに……その通りだな」振り絞るかのようなか細い声を発した友部の姿をみて、小木津は「だろ!」と笑顔を見せた。
「勉強ができるやつみんなが上手に勉強を教えられるわけじゃない。野球が上手い人間は下手なやつが何故できないのか分からねぇし。勝ってきた人間は負けてきたやつの気持ちが分からないだろ?」
大きく息を吸い込んで小木津は続ける。
「だからさ友部。このチームは友部が出会わなかった新しいことが発見できると思うんだよ。チームは弱い。多分友部がいても負けることはたくさんあると思うんだ。でも勝ちたいためにみんな頑張ってる。どうなりたいか、どうありたいか、みんな一つの方向を向いて努力している。そんなチームでプレーできるのって強いチームでプレーするより遥かに貴重なことなんじゃないかって思うんだよなぁ」
「ほら俺の兄ちゃんも言ってたんだけど、強豪校って仲が悪いって言うじゃん?」
ニヤリと口角を上げながら小木津は友部を見つめる。
小木津の言うことは的を射ていた。それよりも「今までどれだけ狭い世界の中で野球をしていたのだろう」と恥ずかしい気持ちを覚えた。勝つ事が野球の全てだと思っていたのだから救いようがない。いつからか自分の半径一メートル以内でしか野球を捉えられなくなっていた。チームメイトなど意に介さず、利己的に、独善的に、身勝手に、エゴイスティックに野球をやっていたのだ。
(自己中心的だと思っていたあいつらも、向こうからみたら俺もそう見えていたのかもな……)
練習中に遊びの予定を立てるチームメイト。その姿に呆れて無意識のうちにチームメイトを見限っていた友部。ベクトルは違うが相手を考えていないことは同じだと気付いた。
紅潮した顔を隠すように自然と地面に目を向けていたが、気を取り直して選手ひとりひとりに目を配る。投げる選手。打つ選手。ボールを捕る選手。このチームの練習に、どれだけたくさんの選手が関わっているのか。どれだけの人のお陰で野球ができているのか。野球は一人でもなく九人でもない。チームみんなでやっているんだと当然のことだが気付いた。
「そういえばこうやって外から野球を観るのも初めてだなぁ……」
三塁側のフェンスを越え、学校の外まで飛んでいってしまったボールを全速力で取りに行く一年生の姿を見て、友部はそう呟いた。
見れば見るほどいいチームだな。純粋な言葉が友部の胸の中を包み込む。小木津がそんな友部の光を取り戻した目に気付いて、「ふふっ」と気付かないくらいに微笑んだ。
※
グラウンドのレフト方向の奥深くで夕日が沈み込む。まだ空に残る薄い青色と包み込むような温かい茜色がグラデーションになっていて、練習を終えた選手たちを強烈に祝福しているように見えた。一塁側のベンチの前で三つの列を成し、キャプテンの号令で深々と礼をし、練習終了を告げた。
練習開始から終わりまで殆どその場を離れなかった友部は、「ふぅ」と深く息を吐いた。それほどまでに集中していたのか、身体の強張りが解け、徐々に筋肉が弛緩するのが分かった。すると練習を終えたキャプテンの古河が、泥だらけのユニフォームを身に纏い、こちらの方に走ってきた。
「いや最後までありがとうな。それで……うちの練習どうだった?友部」
目を少年のように輝かせた古河が語りかける。
「めちゃくちゃ…良かったです!最初から最後まで圧倒されました。こんなに声が出ていて、キビキビした練習初めて見ました!」
興奮しながら返答する友部の声にびっくりしたのか目をまんまると見開いた古河であったが、すぐににこやかな顔へと変えた。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。いいチームだろ?俺はこのチームが大好きなんだ」
「僕も好きですよ!古河さんのこのチーム」小木津がへへっと笑う。
「俺のチームじゃないけどな。そして小木津は今日サボった分明日からの練習厳しくするからな」
「サボってないっすよ。古河さんの指示じゃないですか!ちょっと友部。お前のせいだぞ!」そんなぁと言いながら、必死の抵抗を見せる。
「俺は見学したいと言っただけで案内してとは言ってない」
友部の言葉を聞いた古河はグラウンドに響き渡るほど大きな笑い声を上げた。続いて友部も笑う。笑いが収まってから一瞬の間が空いた後、キャプテンの古河が口を開いた。
「どうだ……友部。気持ちは固まったか?」
その言葉に返事をせず、真っ直ぐな瞳を古河に向ける。
「正直……断るつもりで見学に来たんです。野球はやらないって決めていたんで。でもこのチームを見て、自分がいかに野球を知らなかったかと言うことを知りました。野球ってチームプレイなんだ。野球ってこんなにたくさんの人が関わっているんだって。当たり前ですけど、今日初めて知りました。だからこのチームって凄く良いチームなんだろうなって思いました。こんなチームでピッチャーできたら楽しいだろうなって」
スラスラと自分の心情を吐露できた気がした。それほどまでに心が整理されている事が自分でも驚きであった。
「キャプテンとしてはその言葉が一番嬉しいよ。ってことは……」
キャプテンの古河が言い終わる前に、小木津が「じゃ、じゃあ!」と言葉を遮った。
一度下を向いて息を吐き、友部は古河と小木津二人に顔を向け、きっと二人が望むような返事ではないだろうと思いながら、その言葉を絞り出した。
「だからこそ、分からなくなりました。自分が野球をやりたいのかどうか」
6話
人気のないグラウンドはとにかく静かだった。戦場のように怒号が飛び交っていたことを考えれば、一抹の寂しさすらも感じる。足を踏み入れたときはあんなに狭く感じたグラウンドも、部員がいなくなればとても広大に思えた。
小木津と古河、二人の表情が茜色に照らし出される。その後ろに細長く伸びる影法師。二人の表情にははっきりと困惑の文字が浮かんでいた。
―だからこそ、分からなくなりました。自分が野球をやりたいのかどうかー
彼らの返事を待たずに友部が続ける。
「野球って嫌いだったんですよ。だってチームの中で役割の大きさ違うじゃないですか。ピッチャーの責任が重すぎるのに、いざ勝ったらチームメイトは我が物顔で勝ちを誇る。野球なんて二度とやるか。観るのも嫌だって思っていたのに、今日練習を見て心が動いている自分がいる。正直分からなくなりました」
正確には分からなくなったという事が分かった、そう言い表すのが正しいかもしれない。それくらい友部は自分の心の動きに鈍感だったのだ。小木津が一層困惑した表情を浮かべる隣で、古河だけは真剣な表情で聞いていてくれた。
「心が動いたって事はやりたくなったって事ではないの?」
古河が友部の言葉を噛みしめ一呼吸おいて返答する。
「確かにそうなのかもしれません。でもそうじゃないかもしれません」
はっきりと友部はそう答えた。いやそう答えるしかなかった。久しぶりに練習している姿を見て、野球がやりたくなったのか、野球を外から見てチームに興味を持っただけなのか、自分の心の温度が何を教えてくれているのか理解できていなかったのだ。
「だからこの感情の高ぶりが野球をやりたいって事に向いているかどうか検討もつかないんです」
どっちつかずの回答にも関わらず、友部は古河の目を見てはっきりと答えた。
頭の中で友部の返事を反復させているのか、友部の目を見据えてじっと黙り込む古河。どういうことと言わんばかりの顔いっぱいに「?」マークを浮かべ空を見上げている小木津。二人が理解していないのも仕方がない。友部自身も分かっていないのだ。
「だからもうちょっと待って下さい。時間を取らせることになってしまいますが答えは出しますので!」
二人に深々と頭を下げる友部。申し訳ないという気持ちはあったが心はワクワクしていた。何にも興味が持てないと思っていたが、まだ自分の心に熱量はある。それに気付けただけでも大きな収穫だった。
「それはポジティブな答えって事で良いんだよね?」古河が軽く微笑んで語りかける。
「すごくポジティブです。でも一度やらないと決めた野球なので、今度は本気で向き合わないとって思っています」友部は力強く返した。
友部と古河は、お互いの目にピンと糸が張っているかのように視線を離さなかった。どちらも話さないまま、あたりを無言の時間が包み込む。ひどく長く感じたそれはやがて、古河の優しい言葉によって終わりを告げた。
「分かった分かった!待つよ。良い返事期待しているよ」
緊張を解いた古河は、友部に満面の笑顔を向けた。
「ええ!ここは入る流れじゃねぇのかよ!おい友部。さっき練習見てキラキラした目を向けていただろ!入るって確信したのに。俺の想いを返せ!入れよ。今すぐ入るんだ!」
ストレスという空気を含んだ風船が破裂したかのように好き勝手に小木津が怒鳴り始めた。
「はいはい。小木津が話すとややこしくなるからやめろ。友部。俺は良い返事もらえる思って気長に待っているからな。じゃあまた」
小木津の首に右腕を回し、スリーパーホールドを仕掛け押さえ込んだ古河が白い歯を見せて笑う。
「俺は認めないぞ!友部!入るんだ!」
口も抑えられていて、小木津の声はモゴモゴと聞こえづらい音として響いてきたが、それを雑音として捉えた友部は帰路につく。
「よし。これからだ」
鮮やかな夕焼けが友部の帰り道を照らす。歩く方向に伸びる自分の影が、まるでこっちだよと矢印で示しているみたいだった。その矢印に案内されながら歩みを進める。足取り軽く。いつもより大きな歩幅で。前へ、前へ。空に伸びる薄雲のように心が軽くなっている事に気付いた友部は、それを見上げて笑った。
※
見慣れた家に着く頃には、あれだけ神々しく帰路を照らしてくれていた夕日も顔を忍ばせていた。しかし赤さを残したまま山の向こうへ消えたあいつは、未だ存在感を放っていた。
「黄昏時」相手の顔が分からなくなるくらい暗くなる時間をそう言うらしい。今日の授業で「誰そ彼」が語源と聞いて拍子抜けしてしまった。どこか「黄昏」という言葉に、おどろおどろしい雰囲気をイメージしていたからだ。
「ただいま」
黄色の玄関のドアノブを押し込みながら呟くと、遠くの方から「あら?」と上擦った声が聞こえてきた。靴を脱ぎ下駄箱に入れ、その声のする方向へ足を進める。
「どうしたのよ?ただいまだなんて」
エプロンの紐を結び直しながら母が驚いた顔を僕に向ける。
「息子が帰ってきてどうしたって、それが母親の言葉かよ」
僕は思わずムッとなり反応する。
「いやいや当麻が自分からただいまって言って帰ってくるのなんて、中学生、いや小学生以来だったからびっくりしちゃって!いいのいいの気にしないで」
息子に嫌な顔をされたにも関わらずなぜか嬉しそうな顔をしている母親を無視し、リビングへ足を進める。リビングでは息子よりも早く家に帰ってきたパジャマ姿の父が、ソファを独占し横になりながらテレビを観ていた。そんな父を横目にテーブルに着くと「おーおかえり」と呑気な声が聞こえてきたので「ただいま」と返す。
父は地元の野球チーム「ファルコンズ」の熱狂的なファンだ。早く帰れる火曜と水曜は、テレビの前で応援するのが生きがいのようだ。それが生きがいってもっと他にあるだろと思いながらスマホに目を落とす。すると後ろからラジオの音が聞こえる事に気付いた。
この人は昔からテレビとラジオをつけて野球を観るのが好きだった。どういう訳か知らないが、ラジオから聞こえる実況と、テレビの映像にズレがある感じが好きなのだと言っていた。僕には到底理解ができない。
「―ったく馬鹿じゃねぇんだから。それではタイトルコールいきましょう」
「まだ帰りたくない大人た―」
カチッと僕はラジカセのボタンを押して、オフにする。
「お父さんラジオじゃ野球やってないじゃん。何でつけてんの」
僕はぶっきらぼうにそう言い放つ。
「そうなんだよ。4月から火曜日は野球やってないんだよ。時代だよなぁ」
それならラジオ消せよと思うが、もはやラジオをつけるのが癖なのだこの男は。まぁそもそも他人がやっているスポーツを応援すること自体意味が分からないのだから、根底から理解できないのかもしれない。そんな言動と相まって、火曜と水曜は父親にテレビを独占されるから嫌な気分になるのだが、不思議とそんな苛立ちは今日に限っては無かった。どうせ友達とテレビで盛り上がる時代も終わったしなと思いながら、スマホでユーチューブを開く。
「それで…どうだったの?」
キッチンの前に立つ母が身を乗り出して聞いてきた。
「どうって何が?」
僕はスマホに視線を落としたまま答える。
「何って一つしかないでしょ。野球部の見学に行くから遅くなるって言ったの当麻じゃないの。お母さんびっくりしたんだから。いったいどんな心境の変化だろうって」
その問いに対する本心を口に出したく無い僕は、スマホから視線を外し、母の方を一瞥する。
「でもね。やっぱりお母さん分かっちゃうんだなぁ。楽しかったでしょ?」
いつものように嬉々として話す母親の姿を見て、僕はより苛立ちを覚えた。勝手に決めつけるなという思いと、ピシャリと心情を当てられた気恥ずかしさが重なったからだ。
いつもそうだこの人は。僕のテンションお構いなしに自分の明るさを振りかざしてくる。根っこの部分から僕が明るければいいのだが、残念ながらそうではない。そもそも家で学校のこと詮索されたい高校生なんてそういないだろう。
「まぁ普通だったよ」
母の方を向かずにボソリと呟く。
母はその言葉が不服だったのか、一瞬の沈黙はあったものの、その後すぐに「ふふっ」という笑い声が聞こえてきた。
「そう普通だったのね。普通が一番よねぇ。ああ!今日は疲れたでしょ?先お風呂入ってきたら。ご飯もうちょっとかかりそうだから」
気付かれないようキッチンをちらりと見ると、母はひまわり畑にいるような笑顔を見せていた。ハンバーグだろうか、主張の強い挽肉の香りがリビングを満たしていた。その香りの正体が「ロールキャベツ」であることを知らない僕は、僅かに高揚した気持ちを抑え、風呂へと足を運んだ。
7話
『当麻くんいきなりごめん。明日野球見に行かない?』
『ファルコンズの試合。チケットお父さんに貰ったんだ』
守谷からのLINEの音に目を覚ました当麻は、ベッドから身体を起こし、机の上にある携帯電話を取る。時刻は十八時。いつの間にか昼寝をしていたようだ。
気乗りのしない文章の羅列に返信する気を削がれ、携帯をベッドの上に放り投げた。
(プロ野球なんて興味ねぇよ)
野球は観るものではない、するものだ。この前、野球部の練習を観に行ったが、あの時覚えた興奮はチームが魅力的だったからに過ぎない。決して野球を観て面白いと思ったわけではない。そもそも自分の父親が殆ど毎日のように観ているファルコンズの試合を一度も面白いと思ったことがないのに、今更好きになれるはずがない。経験則からこの試合観戦に対して、心が「ノー」と告げているのだ。
その気持ちとは裏腹に、ベッドの上にあった携帯から振動が聞こえてきた。
『あ、それと…この試合二年生の夕海先輩も応援行くらしいよ!秀山のマドンナの』
守谷にとっては追撃とも言えるメッセージだったのだろう。時差をつけて送ってきたのが最たる理由だ。確かにその情報は、人によっては「行く気がしない」から「行ってもいいかな」に変わる有益さを示している。しかし当麻にとっては、重い腰が上がるほどのものではなかった。
『小木津に言えば這ってでも行くだろ』
石岡夕海。秀山高校の生徒であれば知らない者はいないだろう。容姿端麗で品行方正。完璧だなんて陳腐な言葉でまとめ上げたくはないが、完璧という以外の表現は当麻にはまだ探し切れていなかった。廊下ですれ違ったときまるで古典の中から飛び出してきたかのような、そんなお淑やかさを当麻は抱いたことは記憶に新しい。しかし具体的にどんな容姿かと尋ねられれば、その輪郭はぼやけてしまう。人の記憶って曖昧だなとため息をつく。
守谷からのLINEに既読を付けないよう、携帯の画面を暗転させる。すると一階から「ご飯よ」と聞こえてきたので、そっと携帯電話を机の上に置いた。
一階に降りると、香ばしい香りがリビングに充満していた。少しだけ高揚しキッチンを見つめると、母がニッコリと当麻に微笑んで「ハンバーグよ」と伝えた。
「当麻がこの前ロールキャベツで不貞腐れていたから。お望みどおりハンバーグにしたの!」
母が菜箸を回しながら「へへん」と自慢げに語った。
確かに以前ハンバーグだと思っていたらロールキャベツだった事はあったが、露骨に顔にも口にも出していないよなと当麻は回想する。
「そんなことありましたかね」
会話にするのも面倒くさいので、母に顔を合わせずに椅子に座った。先週のことなのに、と母から不満そうな声が聞こえてきたが気にも留めずにテレビをつけた。
「そういえば…野球観に行くんだって?守谷くんから誘われたんでしょ?」
変わらない明るいテンションで話しかけてくる母。当麻は思わず母の方を振り向いた。
「なんで知ってるの?」
当然の反応だった。自分でさえ先ほど知った情報を当事者ではない母がいち早く認知しているのか、母親のネットワークは予想以上だなと悟った。
「さっき守谷くんのお母さんから連絡来たのよ〜。お父さんからチケットを貰ったから当麻を誘ったって。明日でしょ?それなら夕食は要らないね!楽しんできなさいよ〜」
「いや。面倒くさいし。行かないよ」
ぶっきらぼうに母に返す。これだけ包囲網が強靭だと、一段と行きたくない気持ちが膨れ上がるものだ。
「何言ってるの。行きなさい。せっかく友達が誘ってくれているのに。断る理由もないのに。これは命令です。大体あんたみたいな愛想の無い子を誘ってくれる友達なんて数少ないんだから、行ってくるのよ」
珍しく強い口調でまくしたてる自分の母親に少したじろいだ当麻は「はいはい」と答えながらまたテレビを見つめる。愛想の無い息子に育てたのは誰だよと思ったが、火に油なので沈黙を貫いた。
「行かないんならハンバーグ抜きだから」
ペチペチと後方からハンバーグの形を整える音と、地獄の拷問のようなワードが聞こえてきたので、当麻は渋々ファルコンズの応援に行くことを決意した。
(ハンバーグのための犠牲なら仕方ないか……)
知っているか知らないか絶妙なラインの問題が出る量産型のクイズ番組を見ながら、当麻は明日に控えている退屈なイベントに向けて仕方なく気持ちを入れ替えた。
自分の部屋に戻ると、憂鬱の波が押し寄せてきた。一つイベントができるとこんなにも重くのしかかるのかと自分でもその腰の重さに辟易する。まぁそもそも誘われるなら一週間くらい前から言って欲しいという心情が根底にあるので、そもそもフットワークは重めではある。こういった急なイベントごとに対応できるほどのメンタルとフィジカルを兼ね備えていないのだ。
開けた窓から小雨の音が聞こえてくる。気分を不快にさせる生暖かく湿度を含んだ肌に張り付くような風は、五月なのに夏の訪れを感じさせた。
机の上に置きっぱなしだったスマホを持ち、守谷にメッセージを送る。
『明日親から行けって言われたから行くわ』
『だいたいお前なんで親にまで言ってるんだよ』
元々絵文字など使わないが、殺意を込めて、できるだけ無機質な文章を書いたつもりだ。
『やった!断られると思ってたよ〜』
『僕からは言ってないよ〜。お父さんがお母さんに言って、お母さんから聞かれたから友部くんを誘ったって言っただけだよ』
自分の本心など意に介さない守谷は、気の抜けた返事を送ってくる。
『石岡先輩来るなら小木津を誘えばいいじゃん』
『あと石岡先輩がくるらしいってなんだよ』
僕はこの後に及んでまだ行かなくていいという活路を探す。
『そりゃ小木津くんを誘ったけども、野球の試合で行けないって、めちゃくちゃ落ち込んでいたんだから。めちゃくちゃってめちゃくちゃだよ? LINE送ってすぐ電話掛かってきたんだから。なんで明日なんだって』
『あと、石岡さんの情報は小木津くんからだよ!その時に聞いたんだ。熱狂的なファンらしくて、おそらくその日は応援に行ってるだろうって言ってたから』
(ということは、石岡先輩は違うところで応援しているかもしれないってことか。そりゃそうだ守谷と石岡先輩になんの繋がりがあるんだ。少し考えれば分かるだろ)
石岡と一緒に応援できるという期待感があったのか、自分の中に落胆の色が水彩画のようにジワッと滲んでいくのが分かった。まるで老舗の鰻屋のタレのように、行きたくない気持ちが何層にも注ぎ足されていく。
すると机の上に無造作に置いていた携帯電話が緑色に発光する。
『あーそうか当麻くん!石岡さんと一緒に観戦できると思ってたんでしょ!残念でした〜』
ただでさえ重い腰が上がらないイベントに、一抹の希望さえも失われた当麻にとって、LINEの中では雄弁な守谷の一言はまさに「追撃」と言えた。
8話
立花球場は最寄り駅から五百メートルの所にある。最寄りと言える駅は一つしかないので、ファルコンズの試合がある時は、大名行列のような一定間隔を保った列が球場まで続く。五百メートルとは言ったものの、行列を保ちながらの五百メートルは神経をすり減らされる気分になる。ゴールも見えずにただただ流れに逆らわずに歩くことで覚える苛立ちは、中学生の時に監督から罰として延々と走らされた記憶を当麻に連想させた。
県内有数の一級河川の大淀川沿いを歩きながら、当麻は眉間にしわを寄せる。もともと表情筋に頼らない生き方はしてきたものの、不機嫌な時はアピールしたいものだ。
「おい。電車で三十分、乗り換えて二十分。もう家から出て一時間以上経っているぞ。いい加減にしろ」
ファルコンズのユニホームとキャップを被った守谷が、キャップのツバから瞳を覗かせ口を開く。
「そんなこと言ったって仕方ないじゃん。ファンなら我慢して当たり前。もう慣れたよ僕は」
ライトグレーに臙脂でFの刺繍が入っている帽子を押さえながら守谷は答えた。黒いツバの部分に白く描かれた、見知らぬファルコンズの選手のサインが、守谷のファンという発言を後押しする。
「僕はファンじゃないんだよ」
ポケットが付いている無地の黒いTシャツにスタンダードなジーパンとサンダルという、チームカラーを無視した服装の当麻は、視線を守谷とは反対に移し、大淀川の水面にキラキラと光る夕日を眺めながら呟く。
「でもほらっ見て見てっ!着いたよ!」
守谷が勢いよく突き出した指の先に現れた立花球場は、当麻の目を丸くさせた。行列によって埋れていた鉄骨剥き出しの巨大な要塞が目の前にいきなり飛び出してきたのだ。当麻は長い旅路の果てにようやくたどり着いた勇者を迎え撃つラスボスのような威圧感を立花球場から感じた。
「こう見ると…凄い迫力だな」
雑踏にかき消されてしまったが、当麻にとってあまり表面化しない本音の部分だった。
立花球場は中学生レベルの大会ではなかなかお目にかかることができない、県民にとっては「聖地」と呼ばれる球場である。甲子園出場を決める県大会の決勝。県の代表、地区の代表を決める大学生や社会人野球の試合に満を辞して使用される。そのため立花球場を本拠地に置くファルコンズのファンでない限りは、足を踏み入れるどころか拝む機会すらないのである。
当麻は観たくもないファルコンズの試合を、父親に強要され観たことはあったが、中継で観るのと生で見るのとではまた迫力が段違いだなと感じた。
「当麻くん置いてくよ〜!!えっとまずはソーセージを買って、ああケンタッキーも食べたいな、うわっピザもあるんだ!何にしよう」
明らかに有頂天になっている守谷の声に引っ張られる。行列ができているファルコンズグッズのブースや、わんぱく少年が喜びそうなホットスナックが売られた屋台など、周りを見渡せば飛び込んでくる賑やかな光景に、球場なのにまるでお祭りのようだなと友部の心を昂らせた。
※
「えっと…ここが18だからもう少し下かな?」
ウインナー盛りと唐揚げを左手に持った守谷がチケットに書かれた座席番号を見ながら先導する。両手が塞がりながらよそ見をしている守谷に前を見ろと当麻は指摘する。立花球場の十八番ゲートから入ったが、どうやら外野席のようだ。しかもライト側。ホーム球場で試合をする時は、野球はライト側のスタンドが応援席となる。つまり当麻たちが座る席は、鳴り物応援が響き渡る賑やかな席ということだ。
「あ!ここだよ!当麻くん。残念、一番前ではなかったけども。」
守谷が指した席は外野スタンド中段より少し下の席であった。守谷はチケットをお父さんから貰ったと言っていたが、外野スタンドを買っていた所をみると、守谷のお父さんもかなりのファルコンズファンなんだろうなぁと当麻は予想する。
席に座ってグラウンドを眺めると、対戦相手であるウォリアーズの選手がバッティング練習をしていた。木製バットで硬式球を打つ乾いた音が球場全体に響き渡る。スポーツニュースを見ていれば一回は耳にした事がある選手がレフトスタンドにホームランを放つと、ビジター側のファンが大きな拍手を送った。
野球やサッカー、ほとんどのスポーツがそうだろう。敵と味方の応援席が二分されている。もちろん両チームのファンが混在するところもあるが、大抵のスポーツは応援席を分けて応援合戦をする光景が多く見られる。当麻もそれが当たり前だと思っていた。勝つか負けるかの勝負をしている中で、お互いのチームが仲良く応援できるはずがない。席がホームとビジターで分かれるのは当然のことだと思っていた。
それが当たり前のことではないと気づいたのは一年前。日本で行われたラグビーW杯。当麻もテレビで行われていた中継を見ていたが、応援席に敵も味方もないのだ。両チームが入り混じる観客席は国を応援しているというより、ラグビーそのものを応援しているような気持ちになった。観客席もノーサイドつまり敵・味方の区別なくというのがラグビー応援のマナーらしい。当麻はこんなスポーツもあるんだと驚いたことを思い出す。
両手に大事そうに持った球場飯を膝の上に載せ、リュックの中からコーラを取り出し、守谷は脇のペットボトルホルダーに入れた。ご機嫌な声で準備万端と呟く守谷は、試合開始三十分前から、買ってきた唐揚げを食べ始めた。
まだ始まっていないだろとツッコミを入れたい当麻であったが、美味しそうに頬張る守谷の横顔を見て、邪魔する気持ちをかき消しながら一息つく。
時刻は十七時三十分を回っていた。立花球場の上空はいつの間にかすっかり薄暗くなり、東から西に夕日が押し寄せられているように見える。球場全体を照らすライトのおかげで空の明るさの変化に気が付かなかった。
当麻にとって野球観戦は、記憶が正しければ初めての経験だった。どれだけ記憶を遡っても、父親と一緒にこの光景を観たとは到底思えなかった。これだけ印象に残る景色ならどれだけ昔のことでも覚えているはずだと感じたからである。
「しかしまぁ、小学生の頃あんなに憧れていた立花球場に、こんな形で足を踏み入れるとはなぁ」
将来の夢の欄に迷わずメジャーリーガーと書いていた小学生の当麻は、当然立花球場で野球をすることは、夢の途中に必ず経験するものだと思っていた。それが叶わずに、観戦に来ているんだから夢なんて夢でしかないんだなとしみじみ思う。
リュックの中に入れていた梅味の清涼飲料水取り出し、口に含む。まだ五月だが、少し動けば汗ばみそうな緩い空気とたまに吹く爽やかな風は、飲み物を一層美味しく感じさせた。
「っかぁー!球場で飲むコーラって美味いんだよねぇ」
空の唐揚げの容器を左手に持つ守谷は、おっさんのような口ぶりで呟いた。
「お前その発言恥ずかしいからやめろ。完全にお酒を飲んでる人のセリフだぞ」
周りに人がいるからか、それとも同じことを考えてしまっていたからか、どちらにせよ気恥ずかしさを感じてしまった当麻だった。
しかしながら、言い得て妙だな、と当麻は思った。雰囲気や状況などこれまで考えもこなかったが、もしかしたら立花球場や野球観戦というシチュエーションがいつもより美味しく感じさせるのかもなと思った。
選手の表情や球がよく見えもしない席で、わざわざ自分がやりもしない他人の競技に何をそんなに盛り上がれるのかと思っていた。しかしライト側からの立花球場は西日とナイター照明に照らされたグラウンドの緑は広大で、液晶越しではなく直接見ることのできる選手の姿はやけに感動的である。その光景を見て、野球観戦に直接足を運ぶ者の気持ちをほんの少しは理解できるなと思った当麻だった。
9話
会話が弾んだ時に「言葉のキャッチボールが続く」と表現される。その表現を聞いた時、当麻は何で野球のシーンでもないのにキャッチボールという言葉が使われるんだろうと疑問に思ったことを記憶している。別にキャッチボールなんて野球をする上での準備運動みたいなものだ。キャッチボールがうまくいくことが、会話が弾むという表現に使われるほど大そうなものであるとは思えなかった。キャッチボールは日本人にとって昔から親しまれてきたので比喩表現にも使われているのだろうとは思うが、それにしても仰々しいなと当麻は思ったものだ。
日本人にとってキャッチボールとは野球ボールを投げ合うものだと認識しているが、アメリカではアメリカンフットボールの楕円形でスイカくらいのボールを投げ合うものを言うらしい。不安定な形と野球ボールとは非にならない大きさを思うと、少し言葉のキャッチボールが危険なものに思えてきた。
キャッチボールと聞いてそんな馬鹿らしい感想しか出てこなかった当麻だったが、立花球場の一塁ベンチ前でキャッチボールをしている二人の選手をみて印象がガラリと変わった。距離にして二十メートルほど離れていた二人の選手であったが、テレビで見たことがある有名な選手から投げられたボールは、糸を引くように綺麗な球筋を描いてグラブの中に吸い込まれていった。しかも構えたところ、投げるボール全てが顔のあたりに収まっていた。まるで相手がボールを捕っているわけではなく、ボールを相手のグラブに入れているようだった。
それをみると当麻は、なるほどキャッチボールとは簡単に見えてそうではないなと思った。ボールを捕る。グラブに収まったボールをすぐさま握り替えて、相手の構えたところに投げる。単なる肩慣らしではなく、野球の技術が集約しているものがキャッチボールなのだと理解した。
(自分たちがしていたキャッチボールなんて本当にお遊び程度のレベルだったんだな……)
当麻はプロとのレベルの差を実感して悔しさを滲ませたのか、無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。
「なになに?どうしたの当麻くん、谷口と堤のキャッチボールさっきから凝視しちゃって」
守谷がいることを忘れるくらい集中していたようだ。当麻は一気に観戦に来ていたと言うことを思い出す。
「あの、手前の背番号6の選手、上手いな」
当麻がそう話すと、守谷のテンションが上がる音が聞こえたので、しまったという言葉が脳裏をよぎる。
「あ!背番号6!堤ね。堤はすごいよ!日本代表のショートでまだ三年目の若手なんだ。去年はホームラン二十本も打ってるし、なんといっても守備!三遊間の当たりを簡単に捌いちゃうんだ!肩も強くてファルコンズで一番の選手なんだ!」
プロ野球を見ない当麻は、一シーズンにホームラン20本がどれくらいの凄さか分からなかったが、日本代表と聞いて納得がいった。おそらく今見ているキャッチボールは日本でも最高レベルのキャッチボールだと思うと、悔しさの上から心が弾む感情が塗られていった。
「それで?強いの?ファルコンズ」
堤の話を続けさせるといつ話が終わるか分からなかったので、話題を替えて試合を観るための情報を守谷に聞く。
「うーん。去年最下位。一昨年は二位になったんだけどね。優勝はもう五年も前になるね」
堤の話を数十秒前までしていた人間とは思えないほど、ギャップのあるトーンで話す守谷を見て、笑いそうになった当麻であったが、無表情を貫く。
「え、日本代表いるのに、最下位なのか。それって…応援してて楽しいの?」
おそらく観戦したことがない人みんなに言われるであろう言葉をあえて言ってみる。すると守谷の穏やかな表情が豹変し、目つきがキッときつくなった。
「それを当麻くんが言うの?野球やってたんなら分かるでしょ!こっちも負けると思って応援してないよ!」
語気を強めた守谷は続ける。
「優勝したときは、勝ち続けられて嬉しい。むしろ負けられない緊張感がある。最下位のときは負けも多いけど、たまに勝つっていう爽快感、そして注目している選手が活躍する嬉しさがあるんだよ!無駄なシーズンなんてないの!」
「そ、それはゴメンな。そんな怒るとは思ってなかったわ」
話のボルテージを下げたかったのにむしろ上げてしまった当麻は素直に謝る。あんまりチームが弱いとか直接的な表現は控えようと言葉のキャッチボールを意識する。
「ゴメンと思っているんならちゃんと応援してね。最近負けが続いているから今日は勝ちたいんだから」
守谷が言うには、ファルコンズは三連敗中の四位のようだ。開幕して一ヶ月が経ったが、先発投手が思ったような活躍ができず、打ち込まれてはリリーフピッチャーが尻拭いをする試合が多いそうだ。打者陣は好調を維持しているが、先発投手の出来の悪さでプラマイゼロ。開幕して最初は打ち勝っていたが、相手のピッチャーが打てなければ勝てないというところは開幕からの課題のようだ。
それだけ聞くと、ファンじゃなければ乱打戦になりそうなので楽しめそうだなと当麻は思ったが、ファンなら気が気でないだろう。なぜならいくら点があっても追いつかれるという不安に駆られながら応援しなければならないからである。
(ドMじゃなきゃファンやってられないだろうなぁ……)
守谷に言えばまた怒られるので、心の奥底に鍵をつけてしまっておく。守谷だけじゃなく石岡も当てはまるのかと思うと、言葉の扱いには余計慎重にならなければいけない。
「あ、そう言えば石岡先輩は?」
学校のマドンナ石岡のことを思い出した当麻は、守谷が知っているか分からないが一応聞いてみる。
「ああ石岡先輩?あそこにいるじゃん!ほらほらあそこ!」
守谷が指差したのは、よりライトのポールに近い場所だった。当麻たちの席からすると斜め前にあたる。その指の先をみると、確かに石岡の姿が見える。横顔だけだったが、顔立ちの綺麗さは横からでもはっきりと分かる。距離としてはそんなに離れてはいなかったが、会いに行けるほどの距離ではなかった。前後左右の椅子の間隔が狭いので、立ってどこかに行くというのは席の場所によっては一苦労なのだ。
「しかし石岡先輩。ガチガチのファンだな…」
当麻は正直驚きを隠せなかった。
黄緑色の蛍光色ユニフォーム、首にはライトグレーのタオル、両手にはメガホン、直立のままグラウンドに視線を送り続ける石岡の姿は、本物と言わざるを得なかった。その真剣な表情に、遠くからでも思わず息を飲んでしまったが、いつもとは違う石岡のキラキラとした眼差しに、なんだか得した気分を感じずにはいられなかった。
「あの黄緑色のユニホームは何?」
よくよく見ると袖の部分はグレーの色で模様づけられている。チームのものとは違うユニホームに当麻は疑問を示す。
「あ!あれはね。限定ユニホームってやつ。去年の夏場の本拠地三連戦だけで配られるユニホームでプレミア価値高いんだ。特に去年のは雨で一試合流れちゃったから二試合限定のユニホームなんだよね」
僕も欲しいなぁとへらへらと話しながら守谷は話す。
「今はどの球団もやってるんだけど、限定ユニホームがつく試合はどうしても競争になるんだよなぁ」
そう話して、守谷はライトグレーのユニホームを親指と人差し指で摘んで見せた。
守谷のその話を聞くと、より一層石岡が際立って見える。この前見た番組の中で、球団名をつけて〇〇女子という野球を観に行く女性が特集されていた。その番組を見た当麻の感想は、「ファッション感覚で野球を観ているだけだろ」だったが、石岡は違う。ただの本物のファンである。
石岡の向ける視線の先に、各々のポジションに散らばり始めたファルコンズの選手たちがいた。よく分からないアイドルグループのメンバーの一人がボールを投げ終えると、スタンドに向かって一礼し、手を振りながらそそくさとスタジアムを後にする。
当麻にとっては人生初めての野球観戦ではあったが、それだけではない高揚感がわずかに胸の内にはあった。学校では無口でお淑やかな学校のマドンナを、何がそこまで熱くさせるのか。観戦なんて人が情熱を注いでいるスポーツに便乗しているだけのものだと思っていたが、そうでない何かがあるのかもしれない。そんな期待感と疑念で対立する胸の内とは裏腹に、周囲の観客と連動して重い腰がゆっくりと上がる。当麻の耳にプレイボールの声が飛び込み、同時につんざくような観客の歓声が場内を埋め尽くした。
10話
まるで戦場にいるようだった。
ドンという1つ1つの音がコンクリートの地面に響き渡って足先から骨を伝って伝播する。空気を伝って直接的に鼓膜に伝わるというよりは、身体の芯から音に侵食されていく、そんな感覚だった。街中で聴いたら嫌がらせにしか思えない、鼓膜を大きく震わせる力強く鈍い音の発生源は当麻たちがいる右後ろ、バックスクリーンの方向にあった。肩からポーチのようにかけている太鼓を持っている中年男性。小刻みにトランペットを吹く若い女性。それに加えてピーという笛を吹く音も聞こえてきている。どこから連れてきたのか、雇っているのかどうかさえも分からないが、一糸乱れぬ統率のとれた音楽隊に当麻は感心せざるを得なかった。
そういえばそうだ。テレビでいつもBGMのように流れている、声援とともに聞こえる楽器の音は、球場のスピーカーが流しているわけでも、放送の中だけ流れているものでもない。当麻が見つめるバックスクリーン近くの外野スタンドから、自発的に流しているものなのだ。そんな当たり前のことを球場に行かなければ気付かなかったことに、当麻は自分の関心の無さを恥じた。
「ほらほら当麻くん。よそ見してないで攻撃始まるよ」
真横から一緒に応援している守谷の声が聞こえる。
試合はビジターチームのジャガーズの攻撃が終わった所だった。一番バッターを簡単にフォアボールで歩かせるといった、不安定極まりない立ち上がりであったが、送りバント、センターフライ、フォアボール、ショートゴロと後続をなんとか凌いだ一回表の守備だった。守谷が試合前に言っていた通りの投手陣への不安を、当麻は僅か一イニングで感じ取ってしまう。
ジャガーズのピッチャーは、当麻でも知っている日本代表に選出されたこともある選手だった。技巧派左腕という言い方が正しいのか分からないが、コントロールの良いピッチャーだ。小学生の頃から知っている投手だから、おそらくベテランであることは間違いない。当麻は知っているピッチャーが立花球場で投げていることに心が躍っていたが、その感動は一瞬でかき消された。
「一番、ショート、堤」
一音一音確かめるかのような丁寧なアナウンスが流れると、応援団から大きな音が流れる。ドンドンドンと三回太鼓を響かせると、ライトスタンドのファンはそれに呼応して大合唱が始まった。
「堤大地」
隣の守谷までも、喉が張り裂けそうなくらいの声を出し、一人の一番バッターに声援を送る。周りのファン全員が息を合わせて声を出すと、また太鼓の音が鳴り響いた。その後にまたタイミングよく「つつみだいち」と声を揃える。その光景に度肝を抜かれながらも、流石に三セット目となると適応し、小さく声を出す当麻。しかし次の瞬間。
「カァン」
木の乾いた音が聞こえると、一番バッター堤の打球はようやく目で追えるほどの速さで、遥か遠くのビジターファンが待つ方向へ消えていった。当麻の周りのファンは応援など忘れて、その打球がレフトスタンドへ消えるのを確認する一瞬の静寂の後、怒号のような声援が周りから聞こえてきた。
先頭打者ホームラン。しかも初球だ。野球をやっていたら一度は憧れるであろうそのシチュエーションに、当麻はやりすぎだと嫉妬しながらも、周りの熱に感化され気づけば小さく声を出していた。「おお」だとか「すげぇ」だとか、とても文字にしたら恥ずかしい言葉を発していた。
堤大地。先ほど守谷が言っていた通り、日本代表に選ばれたファルコンズの中心選手であることはよく分かる。実力もさることながらそのスター性は、周りの声援を聞けば分かる。
周囲のファンとハイタッチしながら、ホームランに対して歓喜の声を上げるその姿は、「よくやってくれた」「お前ならやってくれると思っていた」とそんな気持ちが現れているようにも思える。
それは当麻も同じだった。今日初めて顔と名前が一致した選手。そんな初心者の当麻でさえも、声を出して歓声を送っているのだ。守谷から求められたハイタッチに、柄にもなく応えてしまうほどの魔力を秘めている。
興奮冷めやらぬ中、守谷は周囲を見渡した後、当麻に話す。
「凄いでしょ!あれが堤だよ!これでホームラン六本目。今年も絶好調なんだ。」
周囲の歓声に飲み込まれないようになのか、興奮しているからなのか、キャラに合わない大きな声で守谷は話す。
「ちょっとビックリした。先頭打者ホームランなんてなかなか見れないしな。でももっと驚いたのはこの声援だよ。打席入る前の応援もそうだし、迫力ありすぎだろ」
守谷に興奮していることを悟られないと、少しトーンは落として話すが、おそらくそれでも普段の当麻からすれば遥かにテンションは上がっているだろう。それほどまでに当麻にインパクトを与えた堤の打席だった。
「あれは堤の応援歌の前奏ね!でもあれ有名になりすぎて、今やファルコンズファン以外もみんな知ってる応援歌だよ。応援歌流れる前に打っちゃったけどね」
堤のホームランの余韻に浸る守谷。
「それにしても当麻くん見た?石岡先輩の方が喜びすぎでしょ。あんなに飛び跳ねて周りとハイタッチして、堤のホームランよりそっち見ちゃったもん」
その光景を思い出し、笑いが込み上げてきたのか、守谷は笑いながら話す。
「そうだったんだ。全然見ていなかった。でも…すっげぇ楽しそうだな」
ホームランの熱気は収まったものの、それでもまだ笑顔を浮かべながら強めにメガホンを叩く石岡の様子が目に映る。なるほど確かにスタンドに足を踏み入れないとこの興奮は感じられないなと当麻は思った。
周りの歓声に促されるようにグラウンドに目を配ると、連打でさらなるチャンスを迎えている所だった。無死二、三塁。名前も知らない四番の外国人バッターが打席に入る。一振りでボールを捉えると、そのボールは瞬く間にバックスクリーンに到着し、スコアボードに更に三点が加えられた。
名前も知らない外国人バッターがゆっくりと一塁ベースを踏んで走る。何か映画を観ているかのように思えた当麻は、今度は無意識に大きな声が出ていた。
「す、すげぇー!」
当麻の声は周りの歓声に紛れて消える。しかし芸術点も加わりそうな一回の攻撃に、当麻はもう興奮を抑えることはできなかった。テレビで今まで観たものと違う、今までやってきたものと違う、プロ野球という競技がそこにはあった。いや正確にはプロ野球観戦という競技なのかも知れない。
「他人の努力の結果で酒を飲むな」という芸術漫画の言葉に共感を覚え、その言葉を額面通りに受け取っていた当麻にとって、試合観戦はマイナスイメージの温床のようなものであったが、それは既に払拭されていた。鮮やかな攻撃で四点を奪った初回の攻撃。それを彩る応援団やファンの声援。そのどれもが当麻にとって感動的に映った。これからどんな試合が展開されていくのか、守備につくファルコンズの選手たちを見ながら、もう既にファルコンズの次の攻撃が待ち切れない当麻であった。
11話
「ルーズベルト・ゲーム」という野球用語がある。大の野球好きで知られたアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が八対七で決着する試合が一番面白いと言ったことから、点を取られては取り返す白熱したゲームをそう呼ぶようになった。このタイトルでドラマ化もされていたので記憶に新しい人も多いだろう。当麻もその一人だった。企業と野球を絡めたドラマとして人気を博したが、名前だけが妙に印象的に残っていた。
投手戦か乱打戦。たびたび野球ファンの中でどちらが面白いか議題に上がる。投手なのか打者なのか。焦点の当たり方によって変わってくるだろう。この二択で言えば「ルーズベルトゲーム」は乱打戦ということになる。ルーズベルト大統領が乱打戦を愛したかどうかは知らないが、点を取る試合を好んだということは想像に難しくない。
しかしそんなことはどうでもよかった。ピッチャーであった当麻は一点でも少なく抑える。打者は一点でも多く点を取る。それだけの話だ。大体、大差で勝った方がファン心理としても楽なんじゃないのか。どちらのファンでもなかったルーズベルト大統領だからこそ、その試合をどちらのチームにも肩入れせずに俯瞰で観られたのだろう。
七対七。いつの間にか並んだ数字の羅列にルーズベルトゲームの文字が脳裏をよぎった。少し苛立ちすら感じるそんな試合展開だった。三回までに毎回得点で七点を奪い大量リードしたファルコンズであったが、六回、七回にピッチャーが崩れ七失点。七回の表が終了して七対七。追いつかれるまでの一瞬の出来事に呆気を取られながらも「やっぱりルーズベルトゲームなんてクソだ」と思った当麻であった。
七対〇から七対七に追いつかれたファン心理を考えれば、八対七が面白いスコアだなんて口が裂けても言えない。普通に考えればクソ試合だ。緊迫した試合でも何でもない。ただの泥試合だ。
お腹の中で焚き火でもしているようだった。ふつふつと当麻に怒りがこみ上げてくる。
「おい守谷。どうなってるんだよ。簡単に追いつかれたじゃねぇか。だいたい何だよ、フォアボールきっかけでホームラン三本って」当麻は怒りのトーンを抑えてなるべく冷徹に話す。
「あはは。良くあることだよ。こんなことでイラついたらダメだって。また点を取ればいい話なんだから。立花球場はホームランが出やすい球場で有名だし。ファルコンズは打力のチームだから。さぁさぁこれから!」
当麻にとっては台風が襲来したかのような甚大な被害に思えたが、守谷にとっては夕立が来た程度のことだったのだろう。それくらい当たり前のことのように話していた。
「いやそれはメンタル鍛えられすぎだろ。ファルコンズファンは兵士か何かなの?」
驚きながらも当麻は言葉を返す。
「あはは!そう、ソルジャーなの!去年なんて二十対十一って試合もあったし。あっこれは負け試合ね。点を取る反面、点を取られちゃうの。ここ五、六年はそういうチームカラーだから仕方ないよね。それを受け入れている精鋭たちがファンだってこと」
妙に生き生きと話す守谷の姿を見て、思わず尊敬の念を抱かずにはいられなかったが、それなら石岡もソルジャーなのかと、武装した石岡を想像すると笑いがこみ上げてきた。
「まぁだから試合はこれからってこと。ルーズベルト!ルーズベルト!」
守屋が連呼する顔も覚えていない大統領の名前にまたそれかと思う当麻。どうせなら二十対十一のような大味な試合になって欲しいと期待するが、それでもやっぱり応援に来たからには勝ち試合がみたいものだ。心を落ち着かせ、試合に集中する。
「七回裏。ファルコンズの攻撃。ラッキーセブン!」
溌剌とした男性のアナウンスが聴こえると、応援団を中心に合唱が始まる。前奏が球場内に響き渡ると、息を揃えてファルコンズファンが歌い始めた。
ライトスタンドに陣取るファンは、専用のタオルを頭の上に張るように掲げて、汗を流しながら声を出す。その中には額が赤くなるほど声を出す石岡の姿もあった。
そのライトスタンドにいる当麻であったが、この空間が球場内でも極めて異質な場所であることがすぐに理解できた。球場全体を見渡しても、立ち上がって、大声を出して、タオルを掲げているファンはここライトスタンドにいるファンだけだ。それだけ熱量を持ったファンに囲まれていたことをようやく当麻は理解する。
ラッキーセブン。野球にとってそれは点数が入りやすいイニングとされる。「七」が幸運の数字であることからなのか、それとも野球の巡り合わせ上データ的に点が入りやすいのか当麻は知らなかったが、期待すべきイニングであることには変わりはない。
ラッキーセブンにいつも流れているであろう球団歌の大合唱に包まれて、当麻は見よう見まねで口ずさむ。いつもなら耳障りに感じるほどの轟音の中にいたが、不思議と不快感はなく、むしろ心地よくも感じられた。
「この回だぞ!」
「今日は勝つぞ!」
「堤!打ってくれ〜!」
球団歌を歌い終わると、ライトスタンドの至る所から声援が飛び交う。
「この回点取ってよ〜!がんばれ〜!」
便乗した守屋が、控えめな声を出した後、当麻の方を向いてえへへと笑った。
確かに球団歌を合唱した後だと、不思議と得点への期待感が上乗せされているような気がした。それだけライトスタンドのボルテージは目に見えて上がっていた。
「さぁこの回だぞ」
当麻も周りのテンションに感化されて小さく声を出した。
「一番。ショート。堤」
そのアナウンスが木霊すると、もう当麻にとってはお馴染みになった応援歌が流れる。
「つつみだいち」
ライトスタンドから息の合った声援を送ると、球場内にはこの日一番の拍手と声援が送られた。
二死ランナー満塁。同点の七回に生まれたチャンスに、一番ファルコンズで期待できるバッターが打席に立つ。相手の外国人ピッチャーの乱調によってできた、思わぬチャンスに沸き立つライトスタンド。
球場の全ての視線が、堤の立つ右バッターボックスに注がれる。当麻も覚えたての応援歌を歌い、期待を込める。気が付けば持ってきた無地のタオルをギュッと握りしめていた。
ストライクとボールの応酬にスコアボードのランプが色付けられていく。二ボール一ストライク。投手であった当麻には次の一球がどういうボールなのか理解できた。バッターが狙いにくるカウント。つまりバッターの結果を左右する一球になる。
当麻はくしゃくしゃのタオルを握りしめ、「いけー」「うてー」と抽象的な言葉を投げかける。声を出さずにはいられなかった。爆発したかのような応援歌と声援に埋もれながらも、どうにか打ってくれと必死に声を出していた。
勝負の一球。堤の一振りで勝負は決まった。
「カンッ」
応援歌と声援の中にあっても際立つ、バットが弾ける乾いた音が聴こえると、痛烈な打球は三塁方向に飛んだ。地を這うような打球が転がる。
「抜けろ!!」
当麻から出た無意識の声に合わせて、ショートが三遊間の打球にグローブを伸ばす。そのボールがレフトへ転がっていくのを見て、球場がお祭りのように盛り上がった。
「抜けたぁ!!堤、良くやった。回れ二塁ランナーも帰れ。よし、よし!二点タイムリー」
初めて聴いた大きさの声援を背に受けながら、当麻は隣の守谷と思わずハイタッチをしていた。
値千金の二点タイムリーヒット。
本日二度目の堤の活躍に当麻は鳥肌が止まらなかった。いやそれだと恐らく語弊がある。応援歌、歓声、球場を取り巻く全ての雰囲気が作り上げたシチュエーションなのだ。テレビで見ていたってこんなに盛り上がってないなと、頭の中の冷静な部分で当麻は思う。
九対七。同点に追いつかれた後に勝ち越すという、ファンのフラストレーションを払拭してくれた堤の一打に、次のバッターがアウトになった後も球場にその余韻が残っていた。
12話
堤が打った瞬間の乾いた音、その後に響き渡る歓声が、当麻の頭の中で轟く。その残響は、洗濯しても落ちないシミのように当麻の頭から離れてくれなかった。試合のサイレンがなってもその場を離れられずにいる当麻は、自分の周りにフィルターがかかったように意識がぼんやりとしていた。
周りを見渡せば、試合の終わるサイレンの音と同時に帰る人、少しだけヒーローインタビューを見て帰る人、全く帰る気配もなく選手の一挙手一投足を見つめている人。帰る時間は様々だが、みんな明確な目的があった。当麻だけだ。目的もないのにこの場から動けない自分がいる。
「……くん。当麻くん!」
意識を引っ張られるかのような声に反応し、左隣を向く。そこには笑顔を浮かべた守谷がいた。
「もう当麻くん。三回目でやっと反応した。観戦疲れたの?」
守谷の声にボヤけた意識がすっと戻ってきた当麻は、気を取り直していつもの不機嫌な態度を装う。
「疲れてねぇよ。ちょっとライトの光に目がチカチカしていただけ」
守谷は首にかけているタオルで額の汗を拭う。タオルの奥から覗かせている白い歯がやけに爽やかさを演出する。
「それが疲れたってことじゃないの?でも……楽しかったでしょ?」
当麻は守谷から視線を外し、グラウンドを見つめる。左耳から入ってくる守谷のストレートな問いかけに苛立ちを覚えたが、認めざるを得なかった。
―野球観戦は楽しかったとー
「ああ、確かに楽しかった。堤のホームランにヒット。もちろん試合展開もそうなんだけど、やっぱり応援だな。歓声にびっくりした。衝撃を受けたって方が正しいな」
噛み締めるように、ゆっくりと言葉を振り絞って当麻は話す。
「でしょでしょ!よかったぁ、当麻くんが楽しんでくれて。誘ったのに楽しくなかったら申し訳ないでしょ?この席でラッキーだったね」
守谷はより笑顔に花を咲かせると、両手を真上に上げて、背伸びをし始めた。それが終わると一息つき、当麻の方を向いて語りかける。
「じゃあ疲れたし、遅くなるし、帰ろっか」
当麻は守谷のその一言に同意し、名残惜しさを球場に置いて席を立つ。一抹の寂しさを纏う空気が足取りを重くさせたが、階段を上がり出口へ向かうゲートを潜る。
「いつまで残るんだろうか」
当麻が呟いたその一言は、守谷には聞こえない。名残惜しさとは裏腹に、堤の打球音、それを演出する応援歌と歓声は、いつまでも当麻の心に残ったまま球場を後にした。
※
立花球場の明かりに帰路は示されていた。街灯が道を照らしてはいるが、今までいた大きな光の塊がある場所を考えれば薄暗く、フィナーレを迎えていく悲哀すらも感じる。
言葉数は少なかった。試合に疲れたというのもあるし、帰る面倒臭さも理由の一つだ。これからまた労力をかけて帰るとなると、その疲労が何層にも重なって押し寄せてくる。さすがの守谷も疲れたのか、疲労の色は見せていなくても、話しかけようとする気配すら感じられない。
すると球場の敷地から外に出ようとしたところで、とても試合後とは思えない明るいトーンで話してくる声が聞こえた。
「勝ったね!三連敗脱出!」
守谷が後方からポンと右肩を叩かれるのを横目に見て、友部がうしろを振り向くと、そこには石岡がいた。先ほどまでは横顔しか見られなかった学校のマドンナがそこにはいた。黄緑色の限定ユニホームを着て、タオルを首にかけ、こちらに笑顔を振りまいている。
「あっ君が友部くんか!初めまして、石岡夕海です。守谷くんから聞いてるよ。なんでもスーパースターだとか!」
その言葉を聞いた当麻は、左にいる守谷に睨みを利かす。守谷がごめんと言うように目線を下げたので、気を取り直して正面にいる石岡に話しかける。
「初めまして。友部当麻と言います。守谷が言ってるようなスーパースターではないです。それにしても先輩、学校の時と雰囲気違うんですね」
会いたくなかったかと言えば嘘になる。学校とあれだけギャップのある先輩を見たんだ。興味が湧かないはずがなかったが、気持ち悪がられたくもないので、なるべく当麻は淡々と話す。
「ええ〜もったいない。未来の成川になれたかもしれないのに!」
夕海が発した聞きなれない言葉に当麻は眉をしかめる。
「成川はファルコンズのエースだよ。大学から去年入ってきて新人王になったの!ファルコンズで唯一信頼できる先発ピッチャー」
横から守谷が説明のために口を挟む。
「そうそう!成川凄いんだから。今年もここまで安定感抜群!ってそうじゃなかったね。学校と雰囲気が違うって話か。そりゃそうだよ。学校つまらないんだもん。昔っから地元のファルコンズ一筋!週末にならないとテンション上がらないんだよね〜」
清涼飲料水のコマーシャルに使われそうなくらいはつらつとした表情で白い歯をこぼす夕海。その雰囲気や仕草に気圧されながら当麻は疑問を投げかける。
「昔から野球観戦に打ち込めるって、そんなに魅力があるんですか?それってどんな魅力なんですか?」
純粋な当麻の言葉を聞いて、石岡は二重の大きな目をさらに見開き、その後ふふっと笑った。
「どんなって…友部くん今日体感したでしょ?それ以上でも以下でもない。すべての野球の魅力は球場に詰まってる」
当麻の目をじっと見据えて話す石岡は続ける。
「野球観戦って凄いんだ。色んな人がいるの。家族連れからカップル。会社帰りのサラリーマン。大学生。友達同士の高校生。色んな人たちが同じチームを応援しているの。周りの人のことなんか知らないのに、同じ目的で試合を観にきている。それって凄いことじゃない?だからここのライトスタンドが私は好きなの!」
石岡の熱弁を聴いて、お腹の中にこびり付いていた汚れが少しだけ取れたような気がした。プロ野球を観戦することの魅力を少なからず感じ取った当麻はまだそれを言語化できずにいた。抽象的に「すごかった」としか感想がまだ出てきていなかったが、その魅力が少しずつ紐解かれていく爽快感があった。
(そうか、確かにそうだったな。周りを見たら会社帰りのスーツ。一目でファンとわかるユニホーム。友達と遊んできたと思われるラフな私服。まさに多種多様な人たちが集まっていたな…)
当麻は回想する。一回観ただけでは分からない。一度応援しただけでは解釈できない。そんなことは理解している。しかしその面白さの一端を知れたことは、当麻にとって大きな前進だった。
「そうですね。今日少しだけ、ほんの少しだけですけど知ることができました。また行ってみたいですね。野球観戦」
当麻は笑顔を見せて石岡に話す。
「それなら良かった!だったら今度一緒に行こうよ!多分もっと好きになるよ!」
一歩近づきながら満面の笑みで石岡は話した。
「わかりました。ぜひお願いします」
当麻が頷くと守谷が横から情けない声を出した。
「ちょっと先輩。僕も入れてくださいよ〜」
「あはは!勿論だよ。一緒に行こう」
石岡は手を顔の前でひらひらさせながらそう話した。当麻は二人の方が良かったとは思いながら、また歩き始める。石岡と守谷と一緒に。
※
帰りは行きよりも時間が掛かったが、ほとんど寝ていたので一瞬で着いたかのように感じた。二人と別れた後、眠い目を擦りながら家まで帰る。
「長い一日だった」
疲労感は大きく、なんで休みの日に疲れなきゃいけないんだと感じる気持ちは変わらない。しかしまた行きたいと思う気持ちが勝った当麻は、家に着くまでの間ファルコンズの次の試合をスマホで調べる。
「楽しかったな…」
自分の知らない世界を知ることは怖いことだと思っていた。一寸先が見えない場所に足を踏み入れる勇気、そして新しい世界を体感し、理解する労力がいるからだ。しかしその知らない世界の先の明かりがどれだけ当麻に衝撃を与えたか計り知れない。なぜならまた試合に行きたいと思っている自分がいるからだ。心が、頭が「行け」と指令しているからだ。そんな新しい自分にびっくりしながらも、母親にだけは楽しかったことが悟られないように気持ちを入れ直し、いつも通り無愛想に、鈍く、家の扉を開けた。
13話
春風は徐々に温もりを帯び始めていた。爽やかな空気を纏っていた先週とは異なり、生暖かい空気が端々に感じられるようになっていた。あの気候が、あの気温が良かった。そんなことを思うのは決まって後になってからだ。心地の良さとはちょうどその時に認識できるものではない。
月曜日の今日が、先週とは打って変わって足取り軽く登校できているのも、もしかしたら後々「あの時は良かった」と感じられるのかもしれない。
ただ今はそう思わないというだけだ。
当麻は歩みを進めながら、その足取りの軽さの理由を探す旅に出る。
朝食が昨日の残りのカレーだったからか。
スニーカーを新調したからか。
いつもは触ろうとすると逃げる、気品ある白猫が今日は触らせてくれたからか。
おそらくそのどれも違う。
理由は一つしかない。土曜日のファルコンズの試合。それしかない。
楽しかったという感覚は久しぶりだった。未だに脳の底にへばり付いて取れないあの時の歓声に、当麻の心はずっと昂ったままだった。何もなかった空虚な自分の中に、一筋の光明が見えたようなそんな感覚だった。
もう一度。またあの場所へ。自分の興奮が何に対してなのか所在がわからない感情を、もう一度探してみたいという感覚に襲われているのだ。
校門の脇を通って校庭に入る。六階建ての校舎が姿を現し屋上へ目を移す。
「校舎ってこんなに大きかったんだな」
おそらく入学式の時に感じなければいけなかった感情を覚えながら目を見開く。自分がどれだけ下を向いて、乾いた肌色の地面ばかり見て歩いてきたのか良く分かった
「よっ!友部。おはよっ」
野太い声が近くで聞こえた。当麻の名前を呼ぶ同級生は多くはないので瞬時に理解できる。
「朝練はどうしたんだよ。小木津」
当麻は振り返らずに、横に並ぶ小木津に対して返事をする。
「朝練休み!昨日練習試合だったからさ」
周りなど気にせずに大きな声を響かす小木津は両手を首の後ろに回して話す。
「それより、友部。俺に言うことあるんじゃないのか?ほら一昨日。土曜日」
当麻は、そういえば守谷が先に小木津に話したって言ってたなと思い出す。
「いや、まぁ土曜日は試合を観に行ったよ。ファルコンズの」
当麻は面倒だという気持ちを押し殺して話す。
「それは知ってるんだよ!そうじゃなくて俺が聞きたいのは、ファルコンズの試合に行って、石岡先輩と話したかって話だよ!俺は石岡先輩も行くって聞いた試合に行けなくて心底後悔してるの。野球休んででも行けばよかったかなって思ってたの!」
身振り手振りジェスチャーも交えて小木津は話す。その暑苦しさに少しばかりソーシャルディスタンスを保とうと当麻は横へ移動する。
「話したけど、試合の後だよ。だいたい一緒に試合観たわけじゃないし、席も離れていた。だからお前が思っているより話せたわけじゃない。ってか休もうとするんじゃねぇよ」
友部はなるべく小木津の沸点に達しないように話す。石岡先輩とはほとんど話していない。試合の終わりに少しだけ会って、少しだけ試合の感想を話して、途中まで一緒に帰って…。
次の試合一緒に観に行く約束をしただけだ。
「ええ?そうなの?一緒の席じゃなかったの?おい守谷あいつ石岡先輩がくるからって誘ってきやがったのに嘘じゃねぇか!あいつ許さねぇ。俺の葛藤を返せ!」
怒りの矛先が完全に変わったのに当麻は胸を撫で下ろす。聞かれてないから答えない。聞かれたら面倒だから話さない。ただそれだけの話だ。一緒に観てないし、少ししか話してない。
「くっそなんか腹立ってきたわ。ちょっと一足先に教室行って守谷に言ってくる。次の試合は一緒に観に行けるようセッティングしろって」
そう言うと小木津は当麻を追い越し、駆け足で下駄箱に走り込んでいった。
騙されたって怒りよりも、次は一緒に観られるようにしろというところに執念を感じるなぁと当麻は思いながら後ろ姿を見つめる。小木津はまるで台風のようだった。季節外れの台風がもたらした被害の小ささに安堵する。しかし当麻は、もう既に姿は見えない小木津を思い浮かべ、小さく「あっ」と呟いた。
(守谷のやつ、今度当麻くんと一緒に石岡先輩と観戦に行くって言わないよな……)
台風の被害は過ぎ去ってから判断される。ヘクトパスカルで台風の規模は示されるが、通過している時に被害の程度は評価できない。心地の良さと同様に。もしかしたら今過ぎ去った季節外れの台風が、後々甚大な被害をもたらしてくるのかもしれない。新品のスニーカーを下駄箱に入れた当麻は、考えれば考えるだけで面倒な事柄を頭の隅に置き、教室がある2階へ向かう。その足取りは依然として軽かった。
14話
一段一段、脚を持ち上げる。等間隔に同じ高さに並べられた階段を踏み締めるように上る。左側にある手すりを押さえながら、自分が確実に上っていることを確かめる。脚を前へ前へ運んでいると、手すりは終点を迎えた。
チャイムが鳴る十分前だというのに廊下に生徒の姿は少なかった。疎に見える人の姿が、誰もいない時よりも静かさを演出する。窓辺に差し込む朝の光が、木目調と純白にきっちりと分けられている壁を照らして妙に綺麗に感じた。
当麻はいつもは重く感じる教室の扉を勢いよく開ける。
教室は廊下とは打って変わって騒がしかった。土日に何をしたのか、部活動はどうだったのか、教室の中から弾けるような笑い声が聞こえてくる。立っている生徒もいれば座っている生徒もいるいつもの日常がそこには広がっていた。
その中で一際騒がしい音が聞こえる。当麻の耳にノイズが走る。それはまるで綺麗だった美術品にほんの少しだけ傷がついていたかのような、そんな不快感を与えた。
そのノイズの行方を辿ると、見覚えのある二人が口喧嘩という、泥試合を繰り広げていた。
「あっ当麻くん!助けてよ。小木津くんがうるさいんだよ」
息を大きく吐き出す守谷は、呆れた顔で当麻に顔を向ける。
「ああ?俺ずっと言ってたじゃねぇかよ。石岡先輩と試合観に行きたいって。それであの誘われ方したら普通勘違いするだろ!」
「そんなの、小木津くんが勝手に期待しただけじゃん」
小木津がそっぽを向く守谷の後頭部に向けて唾を吐き散らす。
「あのー。お前ら朝から何やってるの。そんな喧嘩することじゃないだろ」
珍しく仲裁するようななだめ方をする当麻。賑やかな教室といっても騒ぎ方が異質なこの二人を静かにさせたいという気力はあった。
「ああ?高みの見物か?いいよなぁ友部は。石岡先輩と話せたんだから」
再度当麻に怒りの矛先を向ける小木津。
「小木津くんが悪いんだから。当麻くんもなんとか言ってよ。僕が誘った野球観戦、楽しんでたでしょ」
守谷は顔を外に向けて小木津と顔を合わせようとしない。
(巻き込み事故もいいとこだな……)
生まれてこの方、人をなだめる経験をしたことがない当麻は、小木津を一瞥したあと、守谷を横目で確認し目線を落とした。
時間にして二秒の沈黙。周りは騒がしかったが、音が出そうなほど冷たい空気が三人を包む。
静寂に耐えきれなくなったのか、先に口を開いたのは小木津だった。
「……わかったわかった。ごめん、俺が意地悪だった。ちょっとカッとなっちまった。次もまた誘ってくれよな。」
お手上げのポーズをして声を張り上げる小木津。
その言葉を聞いた守谷が、外に向けていた顔を小木津の方に戻す。
「もう!もうちょっと早く折れてよね。また誘うから、その時は石岡先輩と見られるようにするよ」
その二人を見た当麻は、ホッとした気持ちが押し寄せると同時に、困惑の気持ちも浮かび上がった。いつもならくだらないで一掃する出来事が、それがどうして、上手く丸め込もうとしてしまった。柄にもない自分の説明のつかない行動に理解が及ばなかった。
「すまんすまん。冗談で怒ったつもりだったんだけど収集つかなくなったんだよなぁ。でも石岡先輩と応援行きたいのはガチだから!」
当麻の気持ちとは裏腹に二人の会話は進む。
「それで、次はいつ?石岡先輩と応援行けるのは?」
小木津はガハハと笑いながら守谷に話しかける。
当麻は一瞬心臓が止まったかと思った。さっき校庭で話したことが嘘だとバレてしまうからか、石岡先輩と観戦にいけるチャンスが薄れてしまうからか、その理由はわからないが、いずれにせよ当麻の心臓の鼓動を速めた一言だった。
一瞬の沈黙が走る。
守谷はいつもよりも目を大きく見開いて、二回ほど瞬きをした。そしてチラリと当麻の方を見て小木津に答える。
「まだ分からないって言ってたよ。塾が大変なんだって!」
へへっと軽く笑いながら守谷は話す。
「まぁ…来月くらいは行けるんじゃない?また連絡するね」
「そっ…かぁ!まぁ仕方ねぇなぁ。どうせ俺も今月野球で忙しかったし。またよろしくな!
そう小木津が話すと。朝のホームルームが始まるチャイムが鳴り響いた。
「おっ!じゃあまたな!俺だけクラス違うの嫌なんだよなぁ」
そう呟く小木津は、駆け足で教室に出ていく。守谷もチャイムに流されるように自分の席に戻る。
ーまだ分からないって言ってたよー
当麻の中ではさっきの守谷の嘘が大ファインプレーに思えた。ホームラン性のボールをキャッチしたような、ピッチャーであればガッツポーズが出るくらいのプレーに思えた。安堵感を覚えた当麻は、席につこうとする守谷を目で追いかける。じっとその後ろ姿を見つめる。その視線に気づいた守谷が、当麻の内心に気付いたのか、小さくお腹の前で当麻に向けて掌をひらひら振った。
※
「よっ!一昨日ぶりだねっ!」
後ろから快活な声が聞こえてくると同時に背中を押された当麻は、少しよろめく。学校も終わり、足取り早く帰ろうとしていた校庭で立ち止まる。足を止めた際に巻き起こった砂埃が風に流された。
「なんですか。石岡先輩。後ろからしか声を掛けることができないんですか?」
当麻は、少し湧き上がる気持ちを抑えて、夕海を見る。
「また口が減らないね。まぁそんな裏表ない感じは好きだけどね!」
夕海は笑いながら、バッグを肩にかけ直す。
「そういう夕海先輩は学校と球場じゃ正反対ですけどね。裏表しかないです」
当麻は夕海の目線から外して校舎を見つめる。
「私だって好きで裏表作ってるわけじゃないよ。学校つまんないんだもん。この前も言ったじゃん。あっ!それでいつ次応援来てくれるの?来週?再来週?」
目の前で両手を合わせて、目を輝かせる夕海に、当麻は外していた目線を更に遠くする。
「それは……い……いつでも大丈夫ですよ。どうせ……暇ですし。この前……楽しかったですし」
思ったように言葉が出ない当麻は、自分の挙動不審さに辟易としながらも言葉を振り絞る。
「やった!じゃあ来週ね!来週の土曜日ジャイアンツ戦!ジャイアンツ強いから勝てるか分からないけど。私の観戦仲間もくるから紹介するよ!」
両手を大きく上げて喜びを表現する夕海に、心を乱される当麻。周りをキョロキョロしながら、この感じでなぜ学校ではクールキャラを気取れるんだろうとクエスチョンマークが浮かぶ。
「分かりました。来週ですね。分かったので、その高く掲げた両手はしまってください。それで、観戦仲間も来るんですね?」
そう当麻が言うと、恥ずかしそうにゆっくりと夕海は両手を下ろして当麻に返事をする。
「来るというかいるというか。行けばいるから紹介するってだけだよ!じゃあ楽しみにしているね。また!」
そう夕海は話すと、当麻の横を小走りですり抜けて振り返り、来週だよと言いながら右腕を振った。足取り早く帰る姿は、すぐに校門の外に消えていった。
(まったく嵐のような人だな……)
横目で見ていた校門に向かって歩き出す当麻。校門の先に見える夕日に顔をしかめながらも、夕海がつけた足跡を辿るように脚を送り出す。何か目標を持って、目的があって過ごす事なんて久しく体感していなかった。夕海先輩といけるからなのか、野球観戦ができるからなのか、自分の真意なんて自分でも分からない。しかしこの自分の中に広がる光明が何か、それが「ワクワクしている」ことだと気付くのに、流石の当麻も時間がかからなかった。
15話
三万人。その数字を聞いて当麻が最初に思いついたことは、「自分の町の人口より多いな」だった。それが何を意味するのか分からないが、自分が住んでいる市の住民が一堂に会しても、その数字には辿り着けないということを理解すると、その数字が恐ろしく巨大なものに思えた。
三万人とは、プロ野球の一試合あたりの平均観客動員数のことを指している。ネットで調べた受け売りの情報ではあるが、あのスタジアムにそれだけの人が集まったかと思うと、自分がプロ野球観戦に覚えた感動の根拠がそこに反映されているような気がした。
二回目だが不思議と安心感はあった。またここに帰ってきたという安堵感を覚えたほどだった。最初に見た時は、堅固な要塞のような圧倒的なプレッシャーを放っていた球場も、テーマパークに来たかのようなワクワク感を助長させる。
「あっきたきた!こっちだよ〜」
入り口のゲートを探していると、先に球場にきていた夕海の姿が見えた。いつものユニホーム姿に、右手を大きく振っている。
「すいません遅れてしまって。あれ?守谷はまだですか?」
当麻は同じ場所にいない守谷について夕海に尋ねる。
『ちょっと立花球場付近で用事があるから先にいってるよ〜』
守谷からのLINEを読み返していると、夕海が驚きながら答えた。
「ええっ。聞いてないの?何か守谷くん、おじいちゃんの体調が悪くなったから今日行けないらしいよ?ごめんなさいって一時間前に連絡来てたよ!」
「そうなんですか??それは……知りませんでした……」
自分に連絡が来ていない疑問はあるものの、命に関わるほど重大なものでもないのかと楽観視する当麻。
「大丈夫……なんですよねきっと。だから連絡するほどでもないって事だと思います」
ははっと苦手な笑顔で返す当麻。
「そうだよね!まぁ暗いテンションで行っても仕方ないから、守谷くんの分まで応援しよう!」
スイッチを入れ替えたように、再度テンションをあげる夕海に先導され、目的地のゲートを潜る。
すると当麻のポケットにある携帯から振動が伝わる。携帯を取り出して振動の理由を確認する。すると守谷からのLINEだった。
『二人っきりだね。デート楽しんで!」
※
立花球場は、試合開始の一時間前というのにも関わらず、相変わらず盛況を博していた。選手のバッティングを写真に収める人、周りの人とビール片手に談笑する人、様々だった。
およそ一ヶ月ぶりだったが、久しぶりな感じはしなかった。球場に入った瞬間にガラッと変わる空気感。グラウンドを一望できる開放感。その心地よさ全てを以前よりも実感できる気がした。
当麻はこの一ヶ月、当麻の父がテレビで観ていたプロ野球にも興味を持つようになっていた。もちろん父にどの選手が打つとか、誰が投げているなんてことを聞くわけではない。ただチラりとテレビの方を向く回数が以前よりかなり多くなったくらいだ。
リーグ四位というどう評価すれば分からない位置につけていたとしても興味が尽きることはなかった。誰が打ったか、誰が良い選手なのか、相変わらず曖昧ではあるが、スポーツニュースも流さずに観るようになった。
そんな自分の些細な成長を実感しながら訪れた立花球場。また戻ってきたという気持ちと、また戻ってきてしまったという感情が交錯する。
「今日は特等席です!ほら殆ど一番前!」
夕海は誇らしげにチケットを見せびらかしながら、席に誘導する。
「うわっ本当ですね。グラウンドに近い。でも夕海先輩、殆ど一番前って一番前じゃないですよ」
「はい。そういう細かいことは気にしない!ほら当麻くん。中学の時は野球をしていたからモテていたかもしれないけど、高校で野球やらないなら、もう少しまぁるく喋らなくちゃ」
意外と辛辣な意見を言うんだなぁと心の中で笑いながら当麻は答える。
「はいはい。今も昔もモテていませんよ。それより夕海先輩、今日の相手は強いんですか?」
「え!ジャイアンツ知らないの?もう強いってもんじゃないよ。リーグ三連覇中で、今シーズンも二位につけている超強豪チーム!」
「いや、ジャイアンツは知っていたんですけど、そんな強かったんですね?それは今日心配だ……」
応援しに来たからには勝ってほしいと願う当麻。
「大丈夫!今日はエース成川が先発だから!今日は勝てるよ」
夕海の目の煌めきが勝利への信頼感を増幅させるが、盛大なフラグにもなってるなと当麻は思う。もちろん口には出さなかった。
「あっ夕海ちゃん!おひさしぶり」
聞き覚えのない音につられて当麻が振り向くと、スーツ姿の中年の男性が立っていた。三十代くらいの見た目で眼鏡に顎には髭が生えている。
「あっ大洗先生!お久しぶりです〜お元気でしたか?」
どういう繋がりなのか当麻は疑問に思いながら軽く会釈をする。するとその「先生」と呼ばれる人物は、当麻の方に目を配り、納得したかのように頷いた。
「あっ!君が当麻くんね。話は聞いているよ。僕はこの近くの立花大学で准教授をしている大洗と言います。よろしくね」
丁寧に名刺を差し出して挨拶する大洗に対して当麻は怯む。大の大人にこんなに丁寧に挨拶される経験なんて当麻にはまだなかった。
「あっこちらこそ……よろしくお願い致します。友部当麻と言います。石岡先輩の後輩で、野球を見に来たのはこれで二回目です」
その言葉を聞いて、大洗は表情を一段と明るくさせた。どこまで前情報が伝わっているかは分からないが、ある程度、夕海から伝わっている部分があるんだろうなと当麻は察する。
「なるほど。それは素晴らしい。何事にも興味を持つことは良いことだし、何より野球観戦ってのが良いよ。僕も大好きなんだ。そこで君にお願いがあるんだけど、いきなりだけど聞いてくれるかな?」
野球ゲームにおけるダイジョーブ博士のような怪しさしかなかったが、夕海の紹介であるならばある程度信用はできるんだろうなと解釈した当麻は、その言葉に返事をする。
「ええっと…内容によります」
「ちょっと大洗先生テンション上がりすぎ。いきなりすぎるし、大体内容何も言ってないじゃない!」
夕美が横槍を入れるが、当麻にとっては都合の良い横槍だった。
「ああ……ごめんごめんつい興奮して……なかなか当麻くんみたいな人が身近にいなかったから、嬉しくってつい……ね。それで何をして欲しいかと言うと……」
大洗はそこまで言うと、一拍置き、前に組んでいた両手の親指をくるくると回し始めた。夕美が、早く言って下さいよという言葉の促しがあり、やっと口を開いた。
「君で…研究したいんだ」
16話
「え…っと、すいません。もう一度言ってもらえますか?」
当麻は、もう一度頭の中でその言葉を反復させる。研究させてくれという言葉がどんな意図を孕んでいるのか見当がつかなかった。ただ高校生の当麻にとって、「研究」という言葉は、何か危ないことに手を貸すような緊張感ばかり募らせる。
「もう!それでも説明不足だから大洗先生。研究って何をするのかを言わないと答えられないじゃない」
夕海が横から大洗の言動を制す。
「ああ、悪い癖だったね。興奮すると我を忘れちゃって」
いやぁごめんね。と謝るのが癖になっている大洗は頭を右手で掻きながら、恥ずかしそうに下を向く。
「それでね。研究っていうのは、メスをいれたり、薬飲んでもらったりすることではないんだ。ただ君の経過を見てみたいと思ってね」
朗らかな顔から一転、西洋絵画のような引き締まった表情で話す大洗は、ほんの少したじろぐ当麻に話を続ける。
「僕が研究している分野は、簡単に言えばスポーツ観戦についてなんだ。スポーツを観る人たちが、どうやって心を掴まれるのか、どんなところが魅力でファンになっていくのか、それが知りたいんだ。だって当麻くん考えなかった?人のスポーツになんでこんなに熱くなれるんだろう。なんで自分の事のように、自分の息子を応援するように、声を出すんだろうって」
淡々と話しながらも、その一音一音に籠る熱を感じずにはいられなかった。当麻は問いかけられた質問に素直に、丁寧に返す。
「正直……思いました。スポーツなんてやらないと面白さは分からないと思っていたので、観ることの何が面白いんだって、熱狂的に盲信的に応援するファンに対して、最初は……冷たい目を向けていたかもしれません」
「いやいや、別に責めているわけではないんだ。そういう反応が普通なんだよ。最近はやたらと野球ファンが増えているからそこが薄れているだけで。だいたいこの立花球場も、今だからこそガラガラな時なんて殆どないけど、ほんの十年前なら会社帰りに当日券買って観に行くのが当たり前だったんだよ。両隣にだれも座らないライトスタンドで流し込むビールが最高だったんだよなぁ」
懐かしみながら、あの頃は良かったと再度口元を緩ませ頷く大洗。
「ねぇ早く本題に入ってくださいよ。試合始まりますよ?」
半ば呆れた表情で話す夕海が冷たく言い放つ。
「おっと…おじさんの昔話は後に取っておくことにしよう。それでね当麻くん、今当麻くんは少しずつ観戦に興味を持ち始めていると思うんだ。少なくとも君が野球をしていた時と比べると……ね。だから君がこれからプロ野球観戦にどう興味を持っていくのか、反対に興味が薄れるかもしれないけど、その経過を知りたいんだ。だから試合終わった後とか、ちょっとインタビューしてもいいかな?」
当麻は、大洗から言われた言葉を頭の中でぐるっと一周させる。これまで自分がどんなことに対して鼓動が高鳴っているのか、なんでこんなに惹かれているのかその理由が知りたかった。理由のない感情に対して理由が知りたい当麻にとって、答え合わせをしてくれる人が願ってもないチャンスのようにも思えた。だからこそ短く「わかりました」と大洗に伝えた。
※
試合は予想通りのゼロ行進だった。スコアボードに並べられた「0」という数字に、隣に座る夕海が「あーもう何やってるの!」とファルコンズグッズのメガホンを叩く。
「いやぁ…いいピッチャーですね。あのジャイアンツの高井ってピッチャー。凄いんですか?」
「当麻くん、ファルコンズ以外の試合もちゃんと観て、高井って日本代表のエースだよ?凄いなんてもんじゃないんだから!」
「あ……そうなんですね。そりゃ凄いわけだ。でも成川も負けてませんよ!ちゃんとジャイアンツ打線を抑えてますよ。特に外に逃げるあのチェンジアップですかね?低めにコントロールされてますし、今日はなかなか打たれないと思いますよ!」
話を変えるために口数が多くなる当麻、ゆっくりと右目を先頭に横を向くと、
「ほんと?信じるよ?」と笑顔の夕海がいた。
「でもだからこそ、早く先制点が欲しいの!さっきのチャンス石橋打ちなさいよ!」
怒っているのか喜んでいるのかどっちなんだろうと思いながら頷く当麻。六回までどちらも無得点。ジャイアンツは成川にピシャリと抑えられていたが、ファルコンズはチャンスを作りながらも高井に要所抑えられている。そんな印象だった。
「でも当麻くん。やっぱり野球をやっていただけあって、ピッチャーのこと分かるんだね。あっ!もしかして配球とかもわかる?」
「配球は……まぁもちろん全ては分かりませんけど、だいたいコースと球種は分かるかなぁくらいの感じですね」
中学の時にピッチャーをしていた当麻は、ある程度ピッチャーのことは理解ができていた。もちろんプロの選手だ。すべてが理解できるなんて到底思わないが、なぜそこにそのボールを投げたのか、その意図は汲み取れる。
「じゃあ次のボール何投げるか当ててみて」
悪戯に笑う夕海の顔を見て、内なる闘志を燃やす当麻は、「インコース真っ直ぐですね」とキッパリ答えた。
投手の成川が右足を大きく振り上げ、左腕を投げ下ろすと、キャッチャーの構えた右打者のインコースに吸い込まれた。
「ほんとだ!!凄い!当麻くんバッチリじゃない!」
メガホンで拍手をするように叩く夕海に対して、それほどでもと鼻を高くする当麻。
「それなら次は?次!」
「次は…外の…チェンジアップですね」
急かす夕美に絞り出す当麻。試合展開的にこんなお遊びしている場合じゃないのではと内心思いながらも、このやりとりが心地良いとも思っていた。
再び成川がワインドアップから投げる準備をする。次の一瞬「カンッ」と鋭い当たりが外野を襲うと右中間真っ二つ、素早くスタンドまでゴロで到達した。悠々バッターが二塁まで到達するとレフトスタンドからはナイスバッティングの大合唱が湧き上がった。
「……ちょっと当麻くん打たれたじゃない」
夕海が、お腹の底から出しているかのような低い声で、当麻の方を向く。
「いや!打つか打たないまでは分かりませんよ。それだったらもはや予言ですからね!だいたい、合ってたじゃないですか外角チェンジアップ。打ったほうが上手だったってだけです」
歓声覚めやらぬレフトスタンド。それもそうだ初回のヒットから一度も打てていなかった快音に、それが文字通り起爆剤となって声援を後押ししているのだ。太鼓やラッパの音が木魂し、爆発したかのような声援の一塊がレフトスタンドから巻き起こる。
「ちょっとここ集中ですよ。ヒット打てていなかったチームってこういうヒットで勢いづくことあるんですよ。成川ここは気を引き締めないといけないです」
そう当麻が言うと、夕海も首を大きく縦に振る。歓声は聞こえるのに静けさが徐々に広がる。
それと同時に当麻の気持ちも試合に溶け込んでいく。あんなに遠くにあったマウンドが、手の届くところまできたようだった。自分の気持ちがマウンドの側にあるように思えた。自分のピンチではないのにハラハラする、実際に自分がマウンドに立っているかのような、焦燥感と緊張感が心の中で大きく波を立てる。
二死二塁。バッターは相手の四番バッター。自分がピッチャーなら何を投げるか考える。中学のときに打たれたボールは自信のあったストレートだった。中学生ナンバーワンスラッガーの藤代に木っ端微塵に打ち砕かれたシーンが脳裏をよぎる。
成川は首を二回振るとゆったりしたモーションから初球を投じた。審判がストライクのコールをすると球場からは様々な感情が溢れ出す。初球はカーブ。変化球から入った。
「やっぱり変化球か」
心情が口元から漏れ出していることにも気がつかない当麻を横目に、夕海はクスッと笑う。
二球目は大きく外れた。しかしこれも変化球。三球目は三塁線の横に切れたファールだった。スコアボードのボールカウントが黄色に点滅されるたびに、ライトスタンドとレフトスタンドから対照的な声が響き渡る。
「さぁ追い込んだ!いけ成川!」
夕海が語気を強める。おそらく次の一球が勝負の球になるだろうと当麻は確信する。三球続けて変化球を投げ込んできた成川。ライトスタンドからの期待を一身に受ける。おそらく自分ならと、観戦を続けて何度考えてきたか。そしてそれと同じくらい中学の時にホームランを打たれたあの一球。あの時に投げたストレートは正しかったのか考えるようにもなっていた。
成川がセットポジションからセカンドランナーをじっと見つめて、バッターに集中する。右足を上げた瞬間、全てのファンがバッターに目線を移す。当麻は視線を成川に送り続けたまま、小さく「ストレート」と呟いた。
成川の左腕が大きく対角線に振り出される。指先から放たれたボールは、キャッチャーが構えたインコース低めで、乾いた皮の破裂音を響かせた。ピクリとも動けなかった四番バッターが審判のコールを聞いて、納得いかない表情でバッターボックスを後にする。
それと同時に響き渡る歓声。座っていたライトスタンドは、攻撃の時のように立ち上がって喜んだ。
「すごいすごい!成川すごい!よくぞ抑えた!!」
メガホンを大きく叩きながら喜ぶ夕海。無意識にガッツポーズで喜び、「よっしゃあ」と声を出す当麻。それに気付いて少し恥ずかしそうに自分の振り上げた両手の行き先を探していると、夕海が両手を自分の顔の前に置いたので、ゆっくりとハイタッチをする。夕海が「喜びそんなものじゃないでしょ」と強めにハイタッチを返す。
明暗分かれる外野スタンドにまだどよめきが渦巻いていた。最後に投じたストレート。その度胸に驚いたのか、その投球の凄さに驚いたのか、おそらく両方だが、当麻は妙に誇らしかった。
(そうだよな。ピッチャーだったらあの場面は自分が一番自信持ってるボールを投げるよな)
当麻がピッチャーだった時と重ねながら、それを実力で体現する成川の凄さに感服せざるを得なかった。中学の時に投じた一球も、ホームランを打たれたが自信のあるストレートだった。その一球は全く後悔していない。ただ単に自分に実力が無かっただけだ。
(もう一度対戦しても投げるのはストレートだけどな)
まだ自分の中に残るピッチャーとしてのプライドに笑いがこみ上げてくる。しかし、自分がプレーする以上に自分がなりたかった姿を表現してくれる成川に、自分の夢を託すようなそんな期待をせざるを得なかった。
17話
試合は中盤の感情の起伏とは裏腹に、やけにあっさりと終わった。久しぶりに食べた大好物に対して「あれ?こんな味だったっけ?」という感想を抱くような。肩透かしを食らったようだった。
〇対一。応援しているチームが並べた無機質な「0」のボードに意味を見出そうと考えるが、何も出てこない。スコアボードに示されている「9」というヒットの数が余計に苛立ちを増幅させる。
つまらない試合。
おそらく「この試合を要約せよ」と、どうしても答えなきゃいけない問題が期末試験にでも出題されたら、当麻はそう答えるだろう。それほどまでに、空虚で、怠惰で、矮小な試合だった。
先発の成川は素晴らしかった。八回に打たれた決勝ホームラン。あの一本だけだった。あの一点で「戦犯」なんて言われたらたまったものじゃない。元投手だから成川の気持ちを汲むことができる。しかし問題は野手だ。相手ピッチャーの高井から再三チャンスを作るのに活かすことができず、結局最後まで煮え切らない展開を作ってしまった。
(……ったく。野手は点取れよ……クソが)
当麻は心の中で吐き捨てる。空き缶が地面に転がっていたら思いっきり蹴り飛ばしてしまいそうな激情に駆られる。
試合の感想はその辺りだが、心の中はその一言で完結できるほど穏やかではなかった。期待していた分の反動なのか、前回の勝利の余韻を知っていたからなのか、それは当麻に噛み砕ける感情ではなかったが、胸の下あたりに錘を入れられて、足腰が重くなったかのような感覚を覚えていた。隣に座っていた夕美も「あーもう!」と言いながら天を仰ぐ。
「どうだった?」
徐々に静かさを帯び始めたライトスタンドの遥か遠くから聞こえてきたようだった。その声を辿って振り返ると大洗の姿が見えた。
「いやぁ残念な試合だよね。僕もガッカリしてしまってね……」
頭を掻きながら俯き加減でポツポツと話す。
「どうもこうもないですよ。最後の堤の三振の瞬間からずっと腹が立って仕方がないですよ。なんか溜めてたものが一気に噴火したみたいな感覚です」
当麻は溢れるフラストレーションを抑えられずにいた。その感情が表面化していることには気がついてはいない。
「まぁまぁ百四十四試合もあればこういう試合もあるよ。昔なんて十連敗なんて当たり前だったんだから。百四十四分の一と思えば少し気が楽になるよ。って去年も十六連敗してたな……」
「僕にとっては二分の一なんですけどね負けは」
負けを淡々と語る大洗に対し、とてもたかが一敗に片付けられない当麻はわざとトゲのある言い方をする。
「まぁ負けの試合に話を聞くのも酷なことしてると分かっているんだがね。一応約束だから聞かせてもらうよ。試合は楽しい試合だった?」
その言葉に更にムッとする当麻。見りゃわかるでしょ。さっき言ったでしょと言う気持ちが膨れ上がる。
「楽しかったっていうのは語弊があったね。でもね当麻くん。楽しいなんて言葉は、別に勝ったから使える言葉じゃないんだよ。負けても良い試合ってあるし、勝っても不服なこともある。全ての面白さが勝ち負けという物差しで測れてしまったら、弱いチームにはスポーツをやる資格がなくなってしまう。それは観戦するファンも同じだよ」
大洗は、当麻の心情を察するように問いかける。
「参加することに意義がある」
大洗がボソッと呟いた言葉に当麻は「え?」と答える。
「オリンピック精神だよ。むかーしに近代オリンピックの父と呼ばれたクーベルタン伯爵が唱えた言葉。勝つことだけじゃなくてオリンピックという舞台に立てた。それだけで素晴らしいことじゃないか!という意味が込められているんだ。まぁ実際には少しニュアンスは違うんだけどね」
「僕はこの言葉が好きでね。だって我々は、選手が勝つためにどれだけ努力をしてきたか、その一端も垣間見ることができない。推し量ることすらできない。だから結果ばかりを注視しがちだけど、その舞台に立っていることにもっと敬意を表するべきだと思うんだ」
徐々に熱を帯び始める大洗から少しずつ当麻へ熱が伝播する。ハッとする部分があった。確かにこれまでの野球人生でいつも結果ばかり見られてきた。チームが勝てば自分のおかげだと思ってきた。本当は勝つために努力をしてきた自分を、それを実現した自分を褒めたかっただけなのかもしれない。だから中学最後の試合、負けたことが自分のせいにされたのに、やけに腹が立ったのかもしれない。
ここまでの努力を全て否定されたような気がして。
「それは確かにそうですね。負けだからといって全てつまらなかったじゃいけませんね。中盤まではハラハラする展開が多かったんですけど、後半点を取られてから何かそのハラハラがイライラに変わってしまって。僕が元ピッチャーだからかもしれません。バッターに怒りがこみ上げてきまして。成川を助けろよ!って」
当麻は思い出すように、一語一語を噛み締める。
「なるほど!それは面白いね!それで……前回試合を見た時と比べてどう?試合終了後は。もちろん勝ち試合と負け試合だから評価は難しいけど」
当麻は苦い顔をしながらも、言葉を絞り出す。
「正直。前回がすっきりした試合だったので試合終了後はワクワク感がこみ上げたんですけど、今回はなにかどんよりとした気持ちが芽生えてますね。他人がやっている競技でなにか自分が負けたみたいな」
他人の試合なのに何で盛り上がれるんだろうと当初思っていた当麻であったが、もうその言葉を言われる立場になってしまっていることに話しながら気付く。
「そう!それなんだよ当麻くん!よく気付いたね」
急な大洗のテンションの上がり方に驚く当麻であったが、そんなことを気にせず大洗は続ける。
「実はね、野球に限らず全てのスポーツを観戦する、いわゆるファンと呼ばれる人たちは、チームへの愛着が深ければ深いほど、自分とチームを重ねる傾向にあるんだ。つまりどういうことかと言うと、チームが勝てば嬉しいし、負ければ悲しい。それは当然の事として、チームが勝った時にストレスが軽減されたり、不安がなくなったりしたというデータも取れているんだ。だからその感覚は間違いじゃないし、着実にファンとしての階段を登っている証拠だよ」
嬉々と話す大洗を見て、その全ての言葉に納得はしたくなかったが、自分の今の状態を言葉で紐解いてくれるのはありがたかった。自分でも今の状態が何なのか理解できていなかったからだ。
(そうか。もうファルコンズが好きになっているんだな)
確かに思い返せばそうだ。中継も観るようになったし、スポーツニュースにも目を向けるようになった。傍から見れば、一目でファンと分かる行動なのかもしれないが、それを指摘する人もいなかった。試合にして二試合。かなり少ない試合数ではあるが、その貴重な二試合が当麻の心を大きく動かした。
(どれくらい試合に行けばファンと名乗っていいか分からないから公には黙っておこう)
デートに何回誘えば告白していいか迷うのと同じように、初めての経験に対しては臆病になりがちではあるが、自分の中の変化がファンという言葉で片付けられる事を理解して何か心がスッキリした。
「なるほど……ありがとうございます。僕も勉強になりました」
その鬱憤が晴れたかのような表情を見た大洗は笑顔を見せる。
「ははっいい表情してるね。それじゃまた話聞かせてよ」
そう言いながら大洗は満面の笑みを携えながら階段を登っていく。背を向けながら階段を登る姿が徐々に小さくなっていく。階段を登る途中で、足を止めて振り返る。まだ笑顔を保ったまま大洗は言葉を投げかける。
「当麻くん。また球場でね」
18話
雨は朝から降り続けていた。厚く広大な未確認飛行物体のような雲が、光を遮る。昼なのに夜のようにどんよりとした天気は、日常を暗く染め上げる。ここ何日かこんな天気が続いている。明日は晴れるという予報を探しながら天気予報を見るが、曇りと雨のマークばかりでオレンジ色は見当たらない。
一向に日差しが差し込みそうにない雲を窓際から見つめ、当麻は机にうつ伏せて、ため息をつく。
(低気圧のせいだ)
雨ばかり降り続ける梅雨の天気だって。ズシっと伸し掛かるような気の重さだって。ファルコンズの試合が度々中止になっていることだって。観戦ばかりが頭にあって、授業に身が入らないことだって。夕海先輩とあれから一緒に観戦に行けてないことだって。
「ぜんぶ低気圧のせいだ」
そう当麻は吐き捨てるように呟く。
夕海と一緒に観戦したジャイアンツ戦。そしてその二週間後に行ったパイレーツ戦。この二試合以降一ヶ月間、当麻はファルコンズの試合を観られていなかった。いや正確には試合を生で観られていなかった。
もちろん雨というのもそうだし。夕海先輩が受験生で忙しいというのもある。そして待ち受ける期末テストへの不安も一応理由に入る。つまりは予定が合わないの一言に尽きる。
当麻は何の意味があるのか分からない、地学の授業を受けながらフラストレーションを募らせる。
「太陽の光によっていろいろな見え方があります。特に顕著な例が虹だと思うんですが、それ以外にも光の屈折によって光は見え方を変えるんです。例えば、太陽の周りに虹の暈が現れたり、太陽の真上に半円の虹が現れたりするんです。これも見え方次第なので見られたら運が良かったと思ってください」
よりによって今日、太陽と虹の話をするのかと当麻は思ったが、テストに出そうだなと思ってメモをする。気怠そうにトーンを殆ど変えずに話す、三十代前半の先生の話なんてほとんど頭には入っていないが、復習のためにノートだけはしっかりととった。
「早く、雨……止まないかな」
天気のことなど生まれてこの方気にしたことがなかった。しかし今年の梅雨だけはやけに長いなと感じざるを得ない当麻であった。
※
当麻自身の心情の変化があったとしても、学校での佇まいは相変わらずだった。休み時間は自堕落に過ごすし、トイレだって面倒だと思う。友達にも積極的に話しかける性格ではないし、一定の奴らが話しかけてくるだけだ。
「当麻くーん。定期テストどうしようやばいよ高校難しいよ。赤点取りたくないよ。学校退学なんてやだよ」
情けない声を出しながら近寄ってくる守谷に対して、怪訝そうな顔を浮かべる。一定の奴らの一人がやってきたと思いながら右手で静止する。
「そんなこと言う奴がいい点取るんだろ。だいたいお前成績よかっただろ。しかも赤点とって退学ってあんまりうちの高校で聞いたことないから大丈夫だろ」
ため息まじりに話す当麻を見ながら守谷は再度話を続ける。
「いや良かったって言っても中学で十番目くらいだからそこまで良くないよ!高校になってホントさっぱり分からないんだ。まぁここまであんまり授業聞いてなかったからなんだけど」
へへっと笑いながら話す守谷。
「まぁその調子なら大丈夫だろ」
悩んでるのか呑気なのかはっきりしろと思う当麻。こいつはこの調子で毎回休み時間に話しかけにくるのがルーティーンになっているが、いい加減にしろと思う。しかしこういう奴がいるから少しは学校での居心地の悪さが軽減されているのは認めなければいけない。
「結局野球部には来ないのかよ!」
当麻はその声につられて右を向くと。そう言えばこいつもかと思い、笑いがこみ上げる。
「なんだよ小木津。もう行かないって言っただろ。キャプテンの古河さんにも伝えたじゃん」
「いやそうだけどさ友部。俺は諦められないんだって言ってるじゃん。何回言ったと思ってるんだよ。何回誘ったって思ってるんだよ。それを一蹴っておい!」
「はいはいこの下り何回目?当麻くんはファルコンズに熱心なの。いい加減邪魔をしない」
守谷が小木津を静止する。確かにもう何度目かと思うくらい聞き飽きたフレーズではあるが、それだけ熱心に誘ってくれる小木津もいい奴だなと思い始めるようになっていた。
もう野球はしない。でも応援をすることなら自分にもできる。それが当麻の答えだった。おそらくこの答えに後悔することはない。
「じゃあ友部。夏の大会、観に来いよ!今年の三年生はめちゃくちゃ強いんだから。絶対応援に来てくれ」
「それはなに?甲子園に行けるってこと?」
小木津の問いかけに当麻は意地悪に返す。
「いや、それは、行くつもりではいるけど……いや、甲子園に行くよ!行くから予選の応援来いよ」
小木津は伏し目がちに答えながら、最後は当麻の目を見つめて答えた。当麻はふふっと笑いながら、その視線に返事をする。
「わかったわかった。じゃあ新幹線のチケット買えるようにしとくわ」
その返事を聞いた小木津は一拍おいて反応する。
「おい。それ甲子園までのチケットだろ!」
※
「お久しぶりですね」
当麻は梅雨の影響で少し水気を含んだ廊下に立ち止まりそう話す。
「お、久しぶり!今日もしっかり勉強したかな?」
学校で会う時のトーンは球場にいる時よりも低いが、夕海はそれでも明るく返事をする。
「勉強って僕が真面目にやると思うんですか?全く集中できてませんよ」
それを聞いて、あははと笑う夕海。まぁ一年生だから大丈夫と肩をポンポンと叩く。
「それで先輩は勉強忙しいんですか?」
「うーんそうだねぇ。少年、三年生になると進路という考えなければいけない関門が待ち構えているのだよ。つまり勉強を怠るわけにはいかないんだよ」
和やかに三年生の現実を話す夕海を見て、三年生にはなりたくねぇなぁと思った当麻であったが、最初に思いつく返事は一つしかなかった。
「じゃあもう野球観にいけないんですか?」
当麻は夕海の目を真っ直ぐ見つめる。
夕海はその真っ直ぐな目をじっと見つめ返し、緊張の糸が切れたかのように笑い出す。
「あははは!当麻くんもう野球観戦にしか頭にないじゃん。勉強頭に入ってる?」
口元を押さえながら、顔を紅潮させて笑う夕海を見られて少し嬉しい気持ちになる当麻。
「だから言ったじゃないですか。授業なんて頭に入ってないって!」
口を尖らせる当麻。
「じゃあ何?今日覚えたこと。ほら、言ってみて!」
夕海がニコニコと笑顔を携えながら意地悪に囁く。
「えっ……と。あ……あれです。あの虹が太陽の周りをグルって囲むやつです。光の屈折がなんたらかんたらで珍しいやつ……です」
珍しく辿々しく、下を向きながら話す当麻。その姿を見て、夕海は笑いを堪えられずにいた。
「あはは!もう当麻くん全然ダメじゃん。そんなんじゃファルコンズ応援行けないよ?ちゃんと勉強はしないと」
そう夕美は話すと、ポケットにあったスマホを取り出し、塾があるからと帰って行った。帰り際に夕海は当麻の方を振り返り大きな声で話す。
「ハロだよ!」
「……えっ?」
当麻は思わず聞き返す。
「さっきの太陽の周りの虹みたいなやつ!ハロって言うの、覚えてて」
夕海はそう伝えると、走って廊下を後にした。その姿を見ながら当麻は、聞き覚えのない二文字を頭の中で反復させる。
(ハロ……ね)
おそらく授業で習ったのかもしれない。ノートになら書いているのかもしれない。しかし頭の片隅にも残っていなかった言葉を、当麻はしっかりとこのシチュエーション込みで覚えておこうと固く誓った。
もう少し話したかったな。また試合を観に行きたいなという気持ちが当麻の心の中で渦を巻く。しかしそんなことは先輩の迷惑になるだけだ。落ち着いたら、また気が向いたら一緒に行ってくれることを心から願うしかない。そんな気持ちの一端を感じるたび自分にも嫌気が差してくる。
ぜんぶ低気圧のせいだ。
19話
ポツンと暗闇の中に取り残されたようだった。網戸の隙間から見える外の世界は、月以外に光を発する者はいなかった。雲の上まで伸びていそうなビルが立ち並ぶ都会であれば、光源は至る所にあるだろうが、田舎の夜は足下が見えなくなるほど暗い。空一面に月を残して墨汁を塗りたくったような闇が広がっている。それであるにも関わらず、生き物は騒がしい。部屋のライトの周りを飛び回っている不法侵入としか思えない小さな虫や、何に向けてそんな大合唱を繰り広げているのか分からないカエル。暗さと静けさは類義語かと思っていたがそんなことは無かったようだ。
いつの間にか覚えたペン回しを無意識にしながら、椅子の背もたれに背中を預ける。生暖かい風のせいで組んでいる脚と脚の接地面からじわりと汗が出る。
勉強する気になどなれなかった。
もちろん虫がうるさいことや、蒸し暑いこと、エアコンがついていないこの部屋、気が散る要素が溢れているわけだが、そんな矮小なことではない。
(どうしたら夕海先輩と試合観戦に行けるのか)
当麻の頭の中はその言葉だけが蔓延っていた。どれだけ親しい友人でも、血を分けた兄弟でも、何でも話し合える親だとしても、その言葉を口にすることはできない。他の人に話したら確実に馬鹿にされると分かっていながらも、アドバイスは貰いたい。そんなもどかしい気持ちで溢れていた。
自分でも馬鹿馬鹿しいと思いながらも、その気持ちは真剣だった。おそらく同級生は中学生の頃に経験していたであろうその気持ちを、当麻は高校生になって感じていた。予習も復習もしていなかった経験がここで尾を引くとは当麻は考えていなかった。
三年生。期末試験。大学進学。塾。学校行事。
頭に思い浮かべるだけで、夕海先輩を誘う気持ちが薄れてくる。忙しいよなぁという確証もない自身の無駄な配慮に辟易してくる。滅入る気持ちを紛らわそうと、当麻は書きもしないのに持っていたペンを置いて一階へ行った。
一階にはL字型のソファで野球を見ている父の姿、そして音楽を聴きながらもくもくと皿洗いをする母の姿があった。つまりはいつも通りの光景が広がっていた。その母の後ろを通りながら冷蔵庫から飲み物を取り出す。いつもは入っている二百五十ミリリットルの細長いスコール缶の姿が無く母親に確認する。
「スコールないじゃん。買ってきてないの?」
そう当麻はボソッと呟く。
音楽を聴きながら皿洗いという二層に重なった音のフィルターのせいで理解に時間がかかった母は返事を遅らせる。
「あれ?一個はさっきまであったんだけど。ああ、あの人ね」
そう母は言うとテレビの方を指差した。
キッチンからだと姿が見えないが、自堕落に横になりながらテレビを見ている父が犯人というわけだ。自分が飲みたかった飲み物がないことにも苛ついているのに、それを父が奪ったというのなら、ムカつく度合いは二倍じゃなく二乗だ。
そう思いながら渋々麦茶を取り出し、コップに氷をこれでもかという位入れて、麦茶を注いだ。
木目調のリビングテーブルにコップを置き椅子に座ると、父がぶつぶつと小言を言っていた。
「おい打てよど真ん中じゃないか。チャンスなんだから積極的にいけよ」
テレビにはいつも通りファルコンズの試合が映し出されていた。ファルコンズが一点リードしている中でさらにチャンスを迎えている場面だった。勝ってるんだから文句言うなよと以前の当麻なら思っていただろうが、今は違う。同じく積極的に振れよって思ってしまうだろう。もちろんそんな素振りは見せたくないので口に出そうとはしないだけだ。
「ファルコンズ勝っているんだね」
当麻はおそらく初めて父に対してファルコンズのことを話した。
「おお、当麻か。そうなんだよ。勝ってるんだけどもっと点取れているはずなんだよなぁ。だからなんかもどかしい試合になってるんだよ」
ソファで横になる父の前のあるテーブルには、緑のスコール缶と銀色の缶ビールが置かれていた。飲むんならどっちかにしろよと苛立つ気持ちを抑えて当麻はテレビを見つめる。
「でもこのバッター代打でしょ?玉川ってあんまり見たことない名前だね」
「このバッターは高校からドラフト一位で入ったルーキーなんだよ。鳴り物入りで入ってきたやつ」
「それなら…まぁ積極的にいけなくても仕方がないね。ルーキーだし」
何だルーキーか。だから聞いたことない名前だったんだと思いながら麦茶を口に流し込む。
「馬鹿言え。ルーキーだろうがベテランだろうが関係ないんだ。むしろルーキーだから積極的にいかなきゃいけないんだよ。経験もない実力もない奴が、目の肥えているプロ野球ファンに何が見せられるかって……若さゆえの積極性だろ。今だけを考えて積極的にトライする姿がこっちは見たいんだよ。それなのに玉川は二ストライクまで振らないでチャンスなのに……あーほらもう三振じゃねぇか」
ぼやきが止まらずにビールを飲み干す父の言い方には少し腹が立ったが、言い草は妙に納得してしまった。例えば入部したての高校一年生が豪快に三振してくるのは許せるが、三年であるとおそらく許されないだろう。そういう若さゆえの積極性はどの世界でも許容されやすい要素なのだろう。
「お父さん。実力も経験もない選手が、失敗したらどうしようって考えるのは無駄だと思う?」
言葉が無意識に口から出てしまった。感じた言葉が脳を介さずに出てしまったようだった。LINEだと取り消せる失言は、現実世界では無かったことにはできない。
「そんなのあたりまえじゃねぇか。失敗するかもって考えること自体が無駄なんだよ。チャレンジしないとどうなるか分からない。振らないと何が起きるか分からない。だいたい失敗するかもって、成功するかもって思ってないと考えないだろ?だから元から確率は五分五分。何も考えずにチャレンジすりゃあ良いんだよ」
父は淡々と言葉を並び立てる。その後に話していたスーパースター堤の話は全く入ってこなかったが、何か自分の気持ちがすっきりしたようにも感じた。当麻は一通り父の話が落ち着くと、氷がまだ残っているグラスを持って、また麦茶を入れに母の後ろを通る。
母が後ろから小さく「あらっスコールでお父さんに怒っているわけじゃ無かったの?」と話してきたので、「怒ってたけどもういい」と平坦に返す。
そう言って麦茶を持ち階に上がろうと背中を向ける当麻に向かって、母は顔を綻ばせた。
「当麻変わったね。柔らかくなった」
ふふっと笑う母に向かって、当麻は足を止めて振り向く。
「高校生だしね」
そう言葉を残して、当麻は二階に上がった。
二階に上がっても賑やかさは変わっていなかった。相変わらずカエルは五月蝿いし、電球の周りを飛ぶ虫は鬱陶しい。しかし当麻の心の中からは煩わしさは薄れていた。頭の中には父の言葉が残る。
ー失敗するかもって考えること自体が無駄なんだよー
ー何も考えずにチャレンジすりゃあ良いんだよー
おそらくこれだけ父の言葉が響いたのは初めてだろう。親に背中を押された経験がない当麻にとっては、新しい感情のようにも思えた。いや……いつも親は背中を押していたのだろう。いつも親身になってくれたのだろう。その言葉を、その行動を、当麻自身が退けていただけだろう。そのことに、当麻を思いやって言った訳ではない父の言葉で気付くのは皮肉なものだなと思う。
「失敗する前から諦めてたら仕方ないよな」
当麻は、書き置いていたLINEのトーク画面を石岡夕海に合わせる。何度も書き直した文面だが、結局一番初めに書いた文章に戻ってしまった事を思い出す。言葉にすると勇気がいる。LINEだと指が触れるだけで気持ちを伝えることができる。その手軽さが、その身近さが、自分を明日野郎に仕立て上げていたのだ。
三日も前からこの文章を送ろうと考えていた。震える手を落ち着けながら、この送信というワンタップができていなかったことに呆れ果てる。そうだ何も考えずにチャレンジだ。守りに入る必要なんてない。
当麻は意を決して青色の送信というボタンを押し、石岡夕海宛に送られた文章に齟齬が無かったか見返した。
『夕海先輩。一緒にまたファルコンズの応援に行きませんか?』
長考した割には、至ってシンプルな文章だなと思い、こみ上げる笑いが抑えきれなかった。
20話
『夕海先輩。一緒にまたファルコンズの応援に行きませんか?』
夕海は携帯に届いた緑のアイコンが示した文字に目を通し、既読がつかないようにアプリを閉じて携帯を乱雑にベッドの上に置く。携帯が軽くバウンドしてベッドの上に収まると、仰向けになっていた夕海は天井のシーリングライトを見つめ、大きく息を吐いた。
ゴシック体の羅列が脳の中をグルグルと回る。そう安易と返事ができる代物ではないことは分かっていた。おそらく意を決して、生半可ではない気持ちで送られたものだろう。当麻の性格から、数々の言動から、その短い文章に込められた紆余曲折が思い浮かぶ。
「……高校に入って知り合った先輩に思い切って誘ってみたってところかな」
たとえどれだけ狭い部屋であっても隅々まで届かない声で呟く。
好意があってか、興味があってか、それは知る必要はない。知る由もない。ただ、初めて当麻から送られてきたメッセージの内容がお誘いであったところに「思い切って」というニュアンスが込められているような気がした。ベッドの側にあるローテーブルの引き出しに入っている写真を、夕海はおもむろに取り出す。
(当麻くん。実はね。わたし前から当麻くんのこと知っていたんだよ……)
夕海は、マウンド上で投げている当麻の写真をじっと見つめ、ふふっと笑った。
※
昔から知っていた。いや、正確には昔から有名だった。
中学の時に野球部のマネージャーをしていた夕海は、他校との練習試合で衝撃を受けた。まだ身体もできていない百六十センチそこらの中学一年生に一回を完璧に抑えられたからだ。その投球の凄さもさることながら、堂々としたマウンド捌きには一年生ながら尊敬の感情を抱いた事を記憶している。
次に見たのは弟の練習試合の時であった。身長は百七十センチを優に超え、あどけなさが少しずつなくなってきた表情からは更なる自信まで感じられた。弟のチームを翻弄する姿にはもはや驚きなどなかった。
「仕方ないよ、相手が悪かったんだもの」
練習試合ながらその力の差に落ち込む弟を、そんな軽い言葉で励ましたことに後悔の念が押し寄せた。
その後見たのは、当麻が三年生になってからだった。勝利した県大会の一回戦を夕海は自発的に観に行った。今までは、偶然目の当たりにするにすぎなかった当麻のピッチングを、今度は自分の意志で観るために球場を訪れた。あのピッチャーはどうなっているんだろう。あのピッチャーはどれだけ成長しているだろう。まるで自分がスカウトマンになったみたいだった。あの選手は昔から注目していた。あの選手の成長は私が見守っていた。隣でキャーキャー言っている中学生がいたら、大人気なくそんな言葉を吐いてしまいそうな、それくらいの熱量はあった。
その試合も圧倒的だった。百三十キロくらいのストレート。相手を見下すかのような眼光。赤子の手を捻るかのように簡単に相手バッターをなぎ倒す姿が、まるで作業をこなしているかにも見えた。バックネット裏に押し寄せるポロシャツ姿の高校関係者は、夕海を更に誇らしい気持ちにさせる。どうだ。すごいでしょ。私が注目していたピッチャー。どこが声を掛けるのよ。バックスタンドの後方から胸を張った。
それだけに次の試合のコールド負けという結果は、夕海をひどく驚かせた。夕海の前では一点も取られていなかった当麻のピッチングからは、敗北の二文字どころか、失点するシーンでさえもイメージできなかった。どうせ違うピッチャーが投げたんでしょという希望的観測も、結果を記した新聞記事が跡形もなく破壊してくれた。
それでも夕海は信じてやまなかった。自分が憧れたヒーローが、近くで見てきたスターが、ファルコンズで、立花球場で躍動する近い未来を思い描かざるを得なかった。「この選手、中学から知ってるよ!」って隣のファルコンズファンに興奮しながら話す未来を期待してやまなかった。
だから秀山高校のような、お世辞にも野球の強豪とは言えない高校にその選手がいるのは、スマホからアラートが鳴るくらい緊急事態だった。
なんであんたがここにいるのよ。なんで花園学院に行ってないのよ。しかも大体何よあの顔。覇気が感じられないじゃない。マウンド上の堂々とした顔はどこに行ったの。なんなの。馬鹿なの。
会ったことも話したこともないスーパースターを見て、陰ながら腹を立てた。その後野球部のキャプテンから、中学校で揉めたらしいという話を聞いて、自分自身を落ち着かせるしかなかった。
しかしその元スーパースターは夕海の目の前に突然現れた。球場の中ではなく球場の外ではあったが、微かに光が宿った二重の瞳に、夕海は少しほっとさせられた。
(ああ良かった。無気力で無関心な目から解放されたんだね)
あの時の、マウンド上の光を少し取り戻したかのように思えて、嬉しい気分にさせられた。観戦に行くにつれ、応援するにつれて、かつてのスーパースターが帰ってきたような錯覚を覚えた。その光を取り戻すのに貢献したかと思うと、胸の中がたんぽぽ色に明るく染め上げられた。
だからって……このままで良いとは思えなかった。
このまま自分の手で、将来を渇望された、将来をイメージさせてくれた選手を、プレーから遠ざけてしまって良いものかと追い込んだ。
だって仕方ないじゃない。野球を話せる友達なんて少なかった。あんなに詳しく野球を説明してくれる高校生なんていなかった。その感情が、その思い出が、夕海の喉に蓋をした。
「野球部に入らないの?」
たった一言が言えなかった。その勇気が振り絞れなかった。やっと動き出した彼の歩みを、自分の手で止めてしまうのが怖かった。
……でも、終わりにすることを決めた。おそらく期限はこの夏まで。ダラダラと引き延ばすわけにはいかなかった。その才能にときめいたのなら、ファルコンズで活躍する未来を希うのであれば、その責任は自分にあると感じていた。新チームまでには、秋までには野球部に入るべき、入るよう促すべきだと自分に使命を課していた。夕海は寒暖差で開け辛くなっている窓をスライドさせ、ベランダに出る。暗闇の先にはまだ明かりが灯っている民家があった。それを見て少しほっとすると、生暖かい風が撫でるように吹きつけた。夕海は手すりに身体を預けながら右ポケットに手を忍ばせる。まだ返信していないスマホを取り出して、ため息をつく。
「二時間も放置しちゃった……。結構早く返すタイプだったんだけどな……」
夕海は暗闇の中に淡く消えていく声で呟く。
きっと迷惑だろう。おそらく余計なお世話だろう。でも後悔して欲しくない……。いや……これは自分が後悔したくないだけだ。自分で自分を納得させるため、そんな卑怯な理由で彼の決めた道を、彼の歩いた道を、砂をかけるように消してしまうかも知れないのだ。
「でも……決めたから」
夕海は自分の意思で、自分の信念で、当麻に問いかけることを決めた。野球をやるきっかけを、考え直す動機を与えたいと先輩ながら考えていた。
明かりが消えた民家を見つめ、マイナスばかり浮かぶ頭の中を必死にリセットする。
(夕海先輩。一緒にまたファルコンズ応援に行きませんか?)
当麻から送られたメッセージがふと脳裏をよぎる。当麻くんもこんな感じで私に送ってきたのかな。悪いイメージばかり浮かんできたのかな。その情景をイメージすると、その必死な気持ちは無下にしてはいけないなと、心が軽くなった。まったく、恋愛じゃないんだから、スパッと返信しなさいよと自分自身で背中を押して、空欄のままだったラインの返信画面に文字を走らせる
『それなら、野球部の初戦を観に行かない?』
もしかしたら同級生がプレーをしているところを観て考え直すかもしれない。野球をやりたいという気持ちが再び湧き上がるかも知れない。そんな淡い期待を持っての返信だった。
画面から震える親指が離れると、〇時四分という時刻と共にその文字が映し出された。その後すぐに表示される既読の文字に驚く。
「……早いのよ。携帯を見るのが」
捨て台詞のように呟いた夕海は、当麻からの返信が来る前に携帯の電源を落とし、逃げるように自分の部屋に戻った。
21話
太陽が見下ろしていた。空一面に青色が広がったその中心で、腰を据えているかのように堂々としていた。直視すると、針で刺されたかのような光の刺激が目の表面から伝播し、視線を外す。
夏は嫌いだった。もちろん暑いのが大半の理由だ。自分の中にこれだけの水分があったのかと驚くほど噴き出る汗。トースターで焼かれているかのような紫外線。木々に潜み、存在をこれでもかとアピールする蝉。フラストレーションの塊のような季節だった。その存在だけで吐き気を催すほどの嫌悪感があった。それだけではなく野球のシーズンでもあるから、なおタチが悪い。
大体なんだよ夏の甲子園って。感動を覚えるって。高校生が夏に汗を流して、息を切らしながら、極限の状態でやる野球をみて何が楽しいんだ。何に感動するんだ。あの炎天下の中、激しい直射日光とグラウンドから湯気のように湧き上がる熱風は、スポーツをやる環境からかけ離れている。
……と以前は考えていた。いや今でもそう思っている節は多々ある。夏は嫌いだし、スポーツもやりたくない。
しかし憧れの先輩に連れられてとはいえ、三年生の最後の大会を応援しにきている事実を鑑みると、夏への意識も少しは変わってきたのかも知れないと当麻は胸の奥で呟く。
(友部応援に来てくれるのかよ!)
野球部の小木津が、餌をあげる前の子犬のように喜んでいた姿が妙に頭に残っている。当麻が来てくれることに喜んだのか、一回戦は応援に来る人の数が少ないから喜んだのか、その真偽は定かではなかったが、全身で喜びを表現する姿に、不思議と不快な気持ちは湧き上がらなかった。
「だからってこんなに人いないのかよ」
当麻は終わり際のお祭りくらいの人しかいない三塁側のスタンドを見上げ、「そうれもそうか」とため息を吐く。
「花園学院」
一塁側のスタンドの上部にある横断幕にはそう書かれていた。その他にも、「常勝」「全国制覇」といった強豪校でしかつけられないような紺色の横断幕が等間隔に掲げられていた。その下にはおなじTシャツと花園学院のロゴがプリントされたメガホンを鳴らしている保護者。そして百人は優に超えているであろう、メンバーから外れた選手。持ち運ぶのも大変そうな太鼓。さらには学ランを着た応援団まで駆けつけていた。
その差は歴然だった。何も知らずにふと立ち寄った人であっても力の差が分かるほど、スタンドの様相は明白だった。
「よりによって何で花園学院なんだろうねぇ」
夕海が水滴がついたスポーツドリンクを二本持って、「はいっ」と当麻に渡す。
花園学院は全国に名が轟くほどの強豪校だ。センバツ優勝一回。夏の甲子園準優勝一回。また数々のプロ野球選手を輩出している。この県において、高校野球の全国大会で決勝に上がったのが花園学院ただ一校だけだと考えると、県内から毎年期待の目が向けられるのも仕方がないだろう。そして今年が、例年になく注目されている年であることも仕方がない。
当麻はスコアボードに映る両校のスターティングメンバーを見つめて、太陽の熱が残る席に座った。
「それにしても藤代くん、一年生で四番ってすっごいね。さすが中学日本代表」
夕海が珍しく苦笑いを浮かべながら、持っていた団扇で扇ぐ。
藤代伊吹。
その名前を見ると、その顔を見ると、あの時の記憶がフラッシュバックしたようだった。身体が、頭が、その熱を覚えていたかのように、全身の血液が騒ぎ出すのを当麻は感じていた。一年も前のことなのに、藤代に打たれたホームランが当麻の脳裏を過ぎる。
「あいつ…東京の名門からの誘いも断ったみたいですよ。この県で全国制覇したいからって」
当麻は「すごいですよね」と言いながら額に流れる汗を拭った。その姿を夕海は横目で見て、グッと口元に力を入れる。
「おーい友部!俺打つから見とけよ!あっ!石岡先輩も。俺の勇姿見といて下さい!」
グラウンドに目を向けると小木津がバットを片手に右手を大きく振っていた。何だあいつレギュラーだったのかと内心思いながら、座ったまま手を振り返した。
スコアボードには六番サードと表示されていた。
※
試合は序盤から花園学院が優勢だった。一番バッターが初球からヒットで出塁すると、すぐさま盗塁、そして二番バッターが送りバント、三番バッターのセンター前であっという間に先制された。
「うええ。強いなぁ花園学院…簡単に先制されちゃったよ…」
夕海が大きくため息を吐きながら、スポーツドリンクを飲み干す。
「確かに、ちょっとレベルが違いますね。しかもただ力の差があるだけならいいんですが、しっかり送ってくるところを見ると、油断もスキもなさそうなところがなお絶望的ですね」
当麻は、地鳴りのような声援を送り続ける一塁スタンドを横目に、グラウンドを注視する。
「もう、当麻くんもそんなこと言わないでよ!野球やってなかった私でも分かるんだからレベルの差くらい」
夕海が地元の夏祭りで貰った団扇で、当麻の左肩をペチペチと叩きながら口を尖らせる。
「夕海先輩。でも問題は次です。こいつを抑えられればまだ大丈夫です」と指を差す。
夕海が目線をグラウンドに戻すと、スタンドからでも分かる大きな体躯が、ネクストバッターズサークルから、小走りでバッターボックスに向かっていた。球場からアナウンスが流れる。
「四番。ライト。藤代」
そのアナウンスが流れ終わる前に、一塁スタンドからは怒号のような声が鳴り響き、より一層応援が熱を纏う。
藤代にとって、初めての夏の大会の初めての打席ではあったが、当麻はその姿から緊張の色を見つけることはできなかった。威風堂々。その言葉がぴったりと似合いそうな立ち振る舞いに、敵ながら賛辞を送りそうになった。
(フォームは変わっていないけど、身体がめちゃくちゃ大きくなっているな)
当麻は高々とバットを掲げるフォームを見つめながら心の中で呟く。不思議な気持ちだった。あの時あれだけ打たれて悔しかった相手を、野球を辞めるきっかけになった因縁の相手を、また見ることができたことに、嬉しい気持ちが僅かながらあったのだ。
秀山高校のピッチャーがセットポジションから投げ下ろす。一球目は変化球から入った。ピクリとも動かなかったバットからは自信が溢れ出ているかのようだった。マウンド上で対峙した一年前は、この藤代伊吹の力を、しっかり把握できていなかったのかもしれない。無謀な挑戦だったのかもしれない。それほど、マウンド上で見た時とスタンドで見ている今では、オーラのような身に纏う雰囲気が異なっていた。
二球目も変化球だった。しかしバットは動かない。追い込まれるとヤジのような声も一塁側から聞こえ出した。一年生でレギュラー、しかも四番というのはそういうことだ。賛辞もあれば、遺恨もある。
「よしよし追い込んだよ!」夕海が団扇をメガホン代わりにしながら声のトーンを上げる。
しかし追い込まれても、藤代はルーティーンを変えない。バットの先端を右バッターボックスからいちばん遠くのホームベースの角に当てると、またバットを高々と持ち上げた。
ピッチャーがセットポジションからキャッチャーのサインに二回目で頷く。左足が僅かに上がり、地面を擦るようにキャッチャーに向かって送り出された。
その次の瞬間、「キン」という金属の鋭い音と、体勢を崩され、右膝を地面につけた藤代の姿が視界に映った。ボールの行方を探すと、低い弾道が左中間の奥深くまで届き、「ドン」というフェンスに叩きつけられた音がした。その音と同時に一塁側から野太い声が鳴り響く。
藤代は、悠々と二塁まで辿り着くと、ホームに滑り込むランナーを見て一塁側にガッツポーズをした。
「ああああー打たれたぁ!」
「今のは…うまく打たれましたね。体勢を崩していたのに持っていかれました……」
藤代のバッティングをスタンドから見て、その凄さを称賛したかったが、シャッター街のように寂れた三塁側のスタンドを見渡して言葉を引っ込める。
「でも、秀山のピッチャーもいい球投げていますよ。そんなに悲観することはないです」
落ち込む夕海を励まそうと出した言葉であったが、その言葉には少々信用が足りなかった。マウンド上で項垂れるピッチャー。それを見て、慌ててタイムを取るキャッチャー。連動するかのようにマウンド上に集まる内野手。焦りが無いと言う方が不自然だった。口元をグローブで隠しながらも選手たちに笑顔はなかった。それを雰囲気で感じ取ることができた。
時間にして一分ほどタイムが取られると、内野手はすぐさま自分のポジションに戻っていった。その中で一人だけ、思い出したかのようにもう一度投手のもとに走っていった選手がいた。
「小木津……何してんだ?」
当麻は口に出してしまっていた。それほど小木津の行動に虚をつかれたのだ。
小木津はピッチャーの近くに行くと、一言話しかけて、ピッチャーの胸元をグローブで強く叩いた。そしてもう一言話しかけると、またサードのポジションに戻っていった。
「あいつ……」
当麻は喉元から急に現れた笑い声が止められなかった。「ははっ」と吹き出し、口元を手で抑えても、その笑いは止められない。
「ちょっと当麻くん。ピンチなのに何笑ってるの」
グラウンド上の様子を理解してなかった夕海が、強めの口調で話す。
「いや……夕海先輩。あいつやっぱり馬鹿ですよ。あいつ今グラウンドに立っている中で一番この試合を諦めていません。一年生なのに先輩ピッチャーに向かって、多分……ちゃんとやれって叩いたんですよ。あいつならやりかねません」
目元の涙を拭いながら当麻は話す。夕海が「どういうこと?」と首を傾げる。
「とにかく。友達が諦めていないのに僕が諦めるわけにはいきません。まだいけますよ秀山高校」
ファルコンズを応援している時みたいだと当麻は思った。何かお腹の奥底から湧き上がる気持ちを、胸の中で蓄積される強い思いを、発したいと思うようになった。
(当麻くん知ってるかい?応援されることで選手は普段以上のパフォーマンスを出すことができるんだ。甲子園で人生初ホームランみたいな話を聞くでしょ?あれはそういう理屈なんだよ。言葉の力は確かにある。それだけで我々が応援している価値があると思わないかい?)
いつしか聞いた大洗先生の言葉が反復する。そんな効果があるなら応援するメリットは自分だけに完結されるものじゃないなとその時当麻は思った。今もそうだ。自分がスタンドに来ているなら、応援しにこの場所に来ているなら、発する言葉は一つしかない。
「秀山高校まだいけるぞ!頑張れ!」
当麻は口元に両手を当てながら、身体中の空気を吐き出した。
22話
「何で着替えを持って来なかったんだ」と当麻は思った。照りつける日差しは容赦を知らない。ただいつもの日課のように、同じ時間に自身の最大限のパフォーマンスを示してくる。
汗染みが目立たない黒のTシャツが徐々に湿度を含み始める。応援に熱が入れば入るほど身体もそれに呼応して汗を出しているような気がした。
試合は中盤の五回に入っていた。初回に奪われた二点。そして次の回に取られた一点。それ以降は秀山高校も粘りを見せているような気がした。しかし依然としてヒットが打てていない。バッティングが一流なら投手も、守備も一流なのが花園学院という高校だ。「堅守」と書かれた横断幕は、守備に自信があることを意味している訳では無い。守備も自信があるということだ。全てのプレーに自信が持てるような練習を積んできているのだ。
中学最後の夏の県大会が終わって、監督から呼び出された。それは花園学院から推薦がきているという話だった。少し前の当麻であったら二つ返事で「行きます」と言っていただろう。目を輝かせ、自身の将来への活路が開けたと思っただろう。しかしそれを聞いて思ったことは「大丈夫かな?」だった。完璧に打たれ、手も足も出なかった夏の大会を経験した後では、自信など塵ほども残らなかった。結果とともに自信もあのグラウンドに置いてきたのだ。
だからこそ監督への返事は「考えさせてください」と言うに留まった。
その後も監督から何度も推薦についての話が来た。催促されているようで、入学が既定路線に考えられているような気がして、呼び出される度、声を掛けられる度に、じっとりと嫌な汗が背中を這った。
監督から言われるがまま、花園学院の練習を観に行ったことがある。頑なに首を縦に振らない当麻の背中を押そうと、監督の誘いに乗った形だった。練習を観に行けば、その重い腰は花園学院に導かれるだろうと監督は思ったに違いない。しかし当麻にとっては逆効果だった。全員に太い幹があるかのような強靭な肉体。当麻よりも小さいのに、簡単にホームランを打ってみせる打者陣。スピードだけじゃ無い、ボールに確かな迫力がある投手陣。自分がこのチームに入って、活躍する未来が全く思い浮かばなかった。適わないと思った藤代でさえ、このチームに入ると霞むんじゃ無いかと思えるほど、一人一人に個性があった。だからその練習を観に行ったあと、監督に「行きません」と告げた。
花園学院とはそんな高校だ。秀山高校がどう戦ったとしても、一日の野球に対する密度は天と地ほどの差がある。
「俺たちは努力をしてきた」
「甲子園に行くだけの資格がある」
確かにそうなのかもしれないが、「俺たちは野球しかない」と断言できる花園学院にどれだけの背景があるか、その言葉には野球に対する厚みが込められている。
だからといって応援を諦めている訳では無い。練習を積んできた高校が、下馬評が高い高校が順当に勝ち上がるのであれば、「ジャイアントキリング」という言葉は存在しない。そういった一縷の望みにかけるため、ワンチャンスをものにするための応援なんだと当麻は思う。
「まず一本。ヒット打ちましょう」当麻が、汗とともに声を絞り出す。
「この回よ!この回」夕海が続けて高い声を響かす。
「ちょっと当麻くんヒット一本も打てないんだけど!」
「いやそんなこと言われましても。相手のピッチャーはプロ注目ですよ。二年生の時からエースナンバーをつけている投手なんですから、打てないのは仕方ないです」
「でも同じ高校生でしょ?いけるいける」
「まぁ……そうなんですけどね。でもこの回はチャンスですよ。ひと回りして少し目も慣れてきていると思いますし」そう当麻はほとんど願望に近い言葉で語気を強めた。
五回の裏の秀山高校の攻撃は、二番バッターからだった。しかし二球でサードゴロに打ち取られると。三塁スタンドからは「うーん」とエンジンのかからない打線に意気消沈する声が上がった。
「打たされちゃいましたね。あのカーブが厄介ですね。かなり落差ありますよ。高校生であのレベルのカーブはなかなか打てません」
「でも次は……古河くんね」
「唯一良い当たりを打ったのが古河さんでしたからね。さっきはショートライナーでしたし」
キャプテンの古河が左打席の一番後ろに立つ。深々と被ったヘルメットから鋭い眼光を覗かせる。
その初球だった。
「キィン」
僅かにバットの根本に当たった打球はピッチャーの足下を抜けていった。後ろを守るショートが左手のグローブを精一杯伸ばすが、意志が乗り移ったかのようなボールがその下を通り過ぎていく。
「きたぁ!古河先輩初ヒット!」
スタンドが息を吹き返したかのように、盛り上がり始める。「よくやった」「ナイスバッティング」「続けよ!」「古河さーん!」様々な音が球場内を反響し、一塁ベース上で右手を上げる古河に集まる。
「さすが古河くん!ファンクラブあるのは伊達じゃないね!」
「ええ?本当にあるんですか?」
「それはそうよ。すっごいんだから古河くんの人気は!」
夕海が「へへん」と自分のように誇らしげに胸を張る。
(さすがは、古河。侮れないな……。男の敵め……)
当麻は心の中で嫉妬心を募らせる。それを横目で見た夕海は、笑いながら当麻を団扇で叩いた。
次のバッターはセカンドゴロに倒れた。四番バッターが打った瞬間に、「ああ!」と落胆の表情を見せる。古河はその間に二塁に進塁していた。二アウト二塁。得点圏にランナーを進めたが、なかなか花園学園の厚い牙城は崩せそうにない。
次のバッターは粘って粘って四球を選んだ。最後のボールは顔付近に飛び込み、仰け反って尻餅をついたが、五番バッターはガッツポーズをして一塁に走っていった。
二死一塁二塁。僅かながら得点に向かって前進しているような気がした。いつ開通するか分からないトンネルを、道具も使わずに素手で掘り進めるかのような作業に、微かな光明が差し込む。
「六番。サード。小木津」
そのアナウンスを聞いた瞬間、当麻はグッと拳に力を込める。正直に言えば、この試合は惨敗するものだと思っていた。惨めで見てもいられない試合になると思っていた。でもこの人たちはあの強大な相手に立ち向かった。臆さずに突き進んだ。それは誰にでもできることではない。
自分は戦わずして逃げた。「戦う」ということがどれだけ難しく、崇高なものか、他の人よりも幾分か理解している。そしてその「戦う」という行為を全員に促した、伝播させた人物が、バッターボックスに立つ小木津である。
「小木津!チャンスだぞ!」
気が付けば立っていた。当麻は打ってくれという願いを込めたエールを三塁スタンドから送る。
小木津はバットを投手に向けて、「さぁこい」と吠えるように声を出すと、右バッターボックスにずっしりと構えた。
「小木津くんって打つの?」
夕海も立ち上がると、祈るように両手を胸の前で組み、話しかける。
「あいつには対戦した覚えはないって言いましたけど。あれだけしぶといバッターあいつ以外に対戦したことありませんよ。紛れもなくバッティングの才能があります」
当麻はバッターボックスに立つ小木津を真っ直ぐ見つめる。
初球は変化球から入った。大きく縦に曲がる変化球に、小木津のバットは空を切る。
明らかに力が入っていた。スタンドからの距離でも、全身に走る緊張が分かるほど、手が、指先が強張っていた。
「あいつ緊張しているな……さすがにそうか。この場面だもんな」
一年生ながら夏の大会。三年生の引退をかけた戦い。そしてその三年生に向ける期待は例年に比べて遥かに大きい。どれだけ生前に徳を積んでいたとしても、この舞台で力を発揮するのは難しいだろう。
「小木津!とにかく思いっきりいけ!」
当麻は届いているか分からない声をグラウンドに向けて発する。
そして二球目。
また変化球だった。縦に曲がる変化球が初球よりも低めに落ちた。小木津のバットはギリギリの所で止まる。キャッチャーがワンバウンドしたボールを胸で止めて、ボールが一メートルほど前に転がった。すると次の瞬間。
「サード!」
内野手からは鋭い声が響き渡った。キャッチャーが慌ててボールを拾い三塁へ送球するが間に合わない。
「うわ!ここでダブルスチール?」
サードがタッチをしてセーフが宣告されると、一塁ランナーも二塁に進み、二塁上で拍手を送る。
歓声が湧き上がる。ここでしてくる訳がないという場面で見事に決めて見せた古河に、称賛の拍手と、得点を期待する声援が渦を巻く。
「すごいすごい!古河くんすごい」
「いや、アウトになったらチャンス潰れるんですよ?よく決めましたね。あの人すげぇ……」
拍手に包まれる中、三塁ベース上で古河は、バッターボックスの小木津に向かって、肩の力を抜けと両手を肩の上に置きグルグルと回した。そしてそのあと両頬に指をつけて、「笑顔」と小木津にエールを送った。
小木津は一度バッターボックスを外す。大きく深呼吸をして、もう一度バッターボックスに入る。
緊張はなくなっていた。いつもの鋭い目が、ピッチャーから投げ出されるボールを一心不乱に見つめていた。
「小木津!ここだ!決めてくれ」
当麻は五回にして枯れそうな声を振り絞る。ここだ小木津。お前の練習の成果を見せてやれ。自身を小木津に投影したかのように、小木津が打つ姿を心から願っていた。
そして三球目。また大きな変化球だった。小木津の胸元から膝下辺りまで鋭く落ちる変化球に、小木津はバットを出した。
カンッ。
カーボン製のバットの音は無音のように感じた球場に響き渡る。その音とともに、鋭い一筋の線のように見えたボールはサードとショートの間をすり抜けていく。
「抜けた抜けた!打った!ヒットだ!」
大歓声が湧き上がる。球場全体から回れ回れと声が聞こえてくる。三塁ランナーの古河が拍手をしながらホームベースを踏む。二塁ランナーも、大きく腕を回すランナーコーチの指示を見て、全力でサードベースを回る。花園学院のレフトがボール持って素早く送球し、ワンバウンドでキャッチャーのミットに吸い込まれる。
タイミングはほぼ同時だった。キャッチャーのタッチとランナーのスライディングの音がホームベース上で重なり合う。「どっちだ?」当麻たちは固唾を飲んでその結末を見守る。すると審判が大きく右腕を頭上に持ち上げた。
「アウトーー」
ため息が球場を包み込む。その後に湧き上がる一塁側からの歓声で、相手の応援団がいたことに気が付く。
「うわぁー惜しかったですね……小木津ナイスバッティング!」
「なんであそこで良いボール返ってくるのよ。ちょっとは逸れなさいよ!」
「確かに……あそこであのボールが投げられる所に花園学院の強さがありますね。ちょっとやそっとじゃ点数をくれません」
「でも……一点取りましたよ秀山高校!これで一対三。これからですよ!」
当麻は五回が終わって整備されるグラウンドを見て語気を強める。
球場にはまだ点数が入った後の余韻が広がっていた。前半戦を一対三で終えた無名の弱小校を称える声と、もしかしたら勝ってしまうのではないかという期待感が広がっていた。
当麻も俄然目に光を宿し、興奮冷めやらぬままベンチに腰を下ろす。
いやぁ惜しかったと呟く当麻からは充実の表情が窺えた。その表情を横目に、夕海は言おうと思っていたフレーズが脳裏を過ぎる。
もし彼が本当は野球をやりたいのであれば、もし心残りがあるのなら、こんな表情を浮かべるはずがない。分かっていた。もう彼は野球を応援する側になっていることに気付いていた。でも、自分の気持ちの整理のために言いたかった言葉が胸のうちから溢れ出る。
「当麻くん。野球やりたくならないの?プレーする人たちを見て、もう一度投げたいって……思わないの?」
夕海は自分の声が震えていないか確かめながら絞り出す。
当麻がグラウンドから夕海に視線を移す。二重の瞳を見開いて、驚いた表情を見せる。夕海の表情を見て、それが冗談ではないことに気付き、息を吐いて返事をする。
「それが……正直。なんとも思わないんですよね。今日観にきて、もしかしたら内に眠る野球への熱?みたいなものが蘇るかと思っていたんです」
「でも全くありませんでした。熱が戻るどころか熱がないんだって……」
「そして、僕自身が誰かを応援する側だってことにも気付きました。応援して。応援が届いてその願いが実現して。誰かの夢が届く場面に一緒にいたいって思ったんです」
「だから野球はもうやりません。ただ、野球のファンで居続けます」
当麻は真っ直ぐに夕海の目を見据えた。その言葉と表情を見て、夕海は心に刺さった針のようなものが取れた気がして、大きく息を吐く。
「それなら良かった!ふふっ。よーし。後半は逆転よ!」
あの頃のヒーローはいない。私にヒーローはもういない。でも一緒に応援してくれる仲間になって帰って来てくれたんだ。そう思うと心の中がふっと軽くなり、それと同時に嬉しい気持ちが沸き起こる。その顔を当麻に悟られないように、気持ち悪く思われないように、夕海は持っていた団扇を大きくグラウンドに向けて指し示した。
23話
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
平家物語に書かれている言葉。平氏はその地位を安定だと思っていたがために、失墜を余儀なくされた。欺瞞や慢心という言葉はいくら強者であれど、絶対的に悪であることは過去が証明している。当麻は中学の時はその意味がよく分からなかった。古事成語やことわざというのは過去に倣っての経験則を元にしていることが多い。しかし自分の身に降り掛かってもいないことに共感や教訓など覚えるはずがない。おじいちゃんが過去に体験した事を孫に伝えたところでその十分の一も伝わらないように、身に降りかからないと本質を理解することはできない。
二度あることは三度ある。三度目の正直。この正反対とも言える互いが互いを食ってかかるウロボロスのような教訓があることが甚だおかしいのだ。「あなた良く無いことでもあったでしょ?」と冒頭から博打のような質問をしてくる占い師くらい信用ができないものであると思っていた。
しかし今回に限れば、平家物語の一節は当麻にとって腑に落ちる所があった。
もしあの時に、一年生である小木津を歩かせていれば、ダブルスチールが来ると少しでも頭に入れていれば、弱小の秀山高校にここまで攻勢を強いられることはなかっただろう。それは全て欺瞞と慢心。おごれる人も久しからず、なのである。
一点を取ってから風向きが変わったかのようだった。
何の変哲も無い当たりがヒットになり、花園学院の火が出るような当たりは偶然にも野手の正面を突いた。フェンスの近くまで下がっていた外野手も功を奏して、いつもなら抜けている打球がグローブの中に収まった。
しかしあれから点を取ることはできていない。おそらくその立場が逆であれば秀山高校は一気に逆転されていたであろう。秀山高校がリードしていて、逆転の狼煙をあげる一打が花園学院から生まれていれば、一瞬のうちに勝負が決まっていただろう。
しかしそれが秀山高校の場合はそうはならない。圧倒的な戦力差が、無慈悲なまでの経験の差が、潮目の変化など勝ち負けに直結させてくれない。
むしろ一対三という秀山高校が十回戦って一度あるかないかの奇跡的なスコアをこの大舞台で出せているのは、相手の焦燥感とこちらの勢いが生み出しているものだと当麻は思う。
五回以降0が並ぶスコアボードを見て、焦る気持ちが当麻まで伝播する。首元から流れ落ちる汗ではなく、手のひらを伝う湿気に不快な気持ちを覚える。
八回裏一対三。たったの二点差。
しかし一点を返した時に感じていた「二点しか差がない」という気持ちは、回を重ねるにつれて「まだ二点もある」にという気持ちに変わっていた。タイムリミットが迫れば迫るほど一点の価値が重くのしかかってくるようだった。
スタンドにいた当麻でさえそう感じていたのだ。グラウンドでプレーする選手たちはその比ではないだろう。ましてや三年生は、引退をかけた戦いをしているのだ。自分の野球人生が掛かっている「二点差」なのだ。その意味を見出せば見出すほど、プレーから積極性というものは失われていく。
しかしそこを打開しなければ次はない。打開しなければもう野球ができなくなるかもしれないのだ。次のステップで野球をやるかやらないか、それは当人たちが決めることではあるが、野球の一区切りとなる大会をどういう結果で終えたのか、それは大事な要素になるだろう。当麻は中学最後の大会で藤代に打たれ、野球人生を閉ざした。だからこそ秀山高校には、この試合が悪い思い出になって欲しくなかった。勝って欲しいと感じていた。
「重いね。空気。」
声援が飛び交っているのに静かに聞こえる三塁側のスタンドで、夕海がか細い声を絞り出す。当麻はグラウンドをじっと見つめる夕海の横顔をみて、「はい」と頷く。
八回の攻撃は一番バッターから始まった。しかし簡単にピッチャーゴロに倒れ、二番バッターも三振に切ってとられた。赤いランプが灯るたびにため息が何層にも重なって三塁スタンドを埋め尽くしていく。
「あーこの回先頭が大事だったのにもうツーアウト?あのピッチャーなんでこんなに打ち崩せないのよ」
「さすが場数を踏んでいますね。センバツも経験しただけあって、悪いなりに纏める力すごいです」
「え?これ調子悪いの?手加減してこれ?」
「手加減とは…ちょっと違いますけど、そうですね本来の力ではないと思いますよ」
当麻は事前に調べた情報と、テレビで春の甲子園を少しだけ観た記憶からそう推測する。
「ええ…じゃあ絶望じゃない…。いやいやでもこれからよ!がんばれ秀山」
キン。
二人が話しているとグラウンドから鋭い音が聞こえる。その音の方向を辿ると古河が手を叩きながら一塁まで走っていた。
「うわっ見逃してた古河くんヒット!」
「また打ったんですか?今日三安打ですよ?」
さすがは古河、いけすかないと当麻は思いながらも声援を送る。
「古河くん本当すごい。さすがここまで引っ張ってきたキャプテン!」
夕海が拍手をしながらぴょんぴょんと飛び跳ねる。
ツーアウトながら一塁。九回が下位打線になることを考えれば、八回に僅かな希望を持つしかなかった。
次のバッターは四番。ここまでノーヒットではあったがチームの大黒柱に三塁スタンドからは願いのような声援が送られる。
当麻たちも同じだった。誰でもいいから打ってくれという強い気持ちが、その身体を持ち上げ応援させていた。
「ここですよ!何でもいいので打ってください!」
花園学院のエースナンバーをつけたピッチャーがセットポジションから投げ込む。
その初球から積極的にバットを振っていった。
「あっ」
当麻は打つ前から声を出してしまったかのような気持ちになった。それもそのはず、四番バッターの打球は明らかにバットの芯を捉えていない鈍い音を発した。
「うわっボテボテだ」
勢いが全くない打球がサードの前に転がる。それに反比例するかのように花園学院のサードが勢いよくダッシュしてくる。
「走れ!走れ!」
三塁スタンドからは悲鳴のような音が混ざった声援が聞こえてくる。
花園学院のサードが前進し、ボールをしっかりと捕球する。しかし次の瞬間、ボールに命が吹き込まれたかのように、僅かにボールが跳ねた。宙に浮いたボールをもう一度キャッチし、一塁に急いで送球する。
すると投げられたボールは一塁手の一メートルほど上を超えていった。
「うわああ!エラーだ!珍しい」
歓喜に沸く三塁スタンド。一塁手の後方に飛んでいったボールは壁にぶつかり、ファールゾーンを転がっていった。カバーに来ていたライトがボールを捕り、一塁手にボールを渡した。その間に一塁ランナーの古河は三塁まで走っていた。二死二塁三塁。秀山高校にとって思ってもないチャンスが生まれた。
「うわぁ…それにしても珍しいですね。こんなことあるんですね。花園学院この試合初めてのエラーですよ。びっくりしました」
「チャンス来たじゃない。すごいすごい。同点のチャンスよ!」
八回の攻撃が始まる前と比べると、プレッシャーが無くなったかのように、応援のボルテージが上がる三塁スタンド。花園学院の選手がタイムを取ってマウンド上に集まる。この光景も初めて見るものだった。
「次は…五番バッターですね。今日二安打。しかも二本とも長打です!古河先輩の次に当たっている打者ですよ。いけます!」
「ええ?そうだっけ?でも…確かに打ってた記憶ある!」
夕海は飛び跳ねながら応援を続ける。さっきまで持っていた団扇はもう椅子の上に置かれていた。花園学院のメンバーがマウンド上から離れ、各々のポジションに散らばる。キャッチャーが元の位置に戻ると、審判に一言声を掛けた。
「申告敬遠」
審判が、キャッチャーの言葉を聞いた後に発した言葉は球場をどよめかせた。当麻たちも「えっ」という驚きの声が出る。
「ここで?このチャンスの場面で?次のバッターもヒット打ってる小木津くんなのに……」
夕海が眉を上げながら大きく目をあける。
「多分。これくらいは抑えられるという自信と。長打は怖いということ。あと……一年生だから。でしょうね」
「一年生?関係ある?」
「それが意外とあるんですよ。ツーアウト満塁。試合は終盤。三年生の引退がかかった最後の大会。そんな中この前まで中学生だった選手が打席に立って、その三年生の命運を握るわけですよ。平常心ではなかなかいられませんよね。その本来の力が出せないということも加味しての敬遠なんでしょう」
「そして万が一ヒットを打たれても同点にしかならない」
「……全ては憶測でしかないですけどね」
当麻はすらすらと出てくる言葉に苛立ちながら打席に立つ小木津に注視する。
「なるほど、それならまずは同点だ」と応援の熱量を依然と保ちながら夕海は声を出す。
(小木津見せてやれ…舐めた花園の連中をぶっ飛ばせ。)
練習の総量と、成長の度合いは比例しない。三年間練習した奴が三年分上手くなることなんてない。努力するやつが上手くなるんじゃない。考えて努力したやつが上手くなるんだ。能天気に自分に出されたメニューだけをその意図も考えず消化するやつに、技術の習熟など永劫届くはずがない。
花園学院の練習は確かに優れたものだった。確かにみんなが考えて練習していた。もしかしたら秀山高校の一年の練習は、花園学院の半年にも及ばないかもしれない。三年間でいえば同じ尺度で測れないくらい練習の密度は異なるかもしれない。
しかし、その野球の上手さをひっくり返せるのが、試合という場所なのである。練習量だけ、これまで積み上げられたものだけで勝負するなら試合をする必要なんてないのだ。
「だから……その舐め切った野球エリートたちの鼻を明かしてやれ……」
音にならないくらいの声で当麻は呟く。
「……いっけぇ!ここだ小木津!お前が決めろ」
喉が裂けるくらい身体中の空気を音に込めて当麻は声として絞り出す。
その音を感じ取ったのか、泥だらけのユニフォームを着た小木津は、ピッチャーに向かって叫ぶ。マウンド上のピッチャーが呼吸を整えて、大きく左足を持ち上げて、ボールを投じた。
勝負は初球で決まった。
小木津のバットに弾かれたボールは大きな弧を描いて飛んでいく。
その飛球は外野手を後方へと下がらせる。
その打球を見て三塁側のスタンドから鳴り止まない歓声が響き、その歓声は日差しが降り注ぐ夏の青空を轟かせた。
24話
風は春の暖かさを覚えていた。急激な変化があるわけではなく、冷たさから徐々に自らの特権を奪い返していくかのようだった。梅の花は最盛から陰りを見せ、桜の花は芽吹く程度。どっちつかずの季節といった方が適切なのかもしれない。
テレビで言っていたが、もうすぐ「啓蟄」という日が訪れるそうだ。土の中で冬眠していた動物たちが起き上がる日。暗い土の中から明るい外の世界に出てきて、麗かな日の光を浴びる、そんな日だそうだ。しかしその啓蟄もまだ先の話。桜どころか動物すらも目を覚ましていないこの季節に当たり前のように行われる行事に違和感を覚える。
「卒業式」
校門に置かれた大きな看板だけなのに、自分の学校ではないかのような雰囲気があった。いつもよりも煌びやかに見える高校の制服も、迎える生徒のためにほんの少しだけ華やかな衣装に身を包む先生たちも、全く知らない物のように感じる。季節はとても卒業式とは思えなかったが、学校を包む空気は卒業式そのものであった。
当麻は窓際の席に座り、そのいつもとは違う雰囲気を肌で感じていた。お世話になった部活の先輩たちへのサプライズを考えている生徒や、憧れの先輩へプレセントを渡そうと画策しているクラスメイトたちの姿があった。一年生の自分たちには関係ないイベントではあるが、少なからず高校生活の一つのピースになった先輩の卒業は、自分には無関係だと突き放すのには流石に無理がある。
「よう友部!花園学院の組み合わせ見たか?大阪の桐仙高校ってヤバくない?」
卒業式という雰囲気に酔いしれていた当麻にとって、急に現実世界へ引き戻されたかのようだった。夏からさらに身体の厚みを増した小木津が、当麻の横に立っていた。
「花園学院って去年もそうだったけど、センバツのくじ引きの運持ってないよな。去年も二回戦敗退だったし。夏は成績いいのにな」
「夏の成績といえば……。もう心の傷は癒えたのか?」
斜め上を見上げて、小木津に向かってニヤリと笑みを浮かべる。
「おい!それは禁句だろ。ってかもう癒えてるよ。新チームにもなって秋も終わってんだぞ。次の夏ぜってー花園学院ぶっとばしてやる!今は泳がせてやるよ」
小木津が握り拳に力を入れて、語気を強める。その姿を見て、当麻は声を出して笑った。
去年の夏。県内で一番花園学院を追い詰めたのは、間違いなく秀山高校であった。一対三で迎えた八回裏の二死満塁。打席に立つ小木津の打球は放物線を描いたが、レフトスタンドから十五メートルほど手前で失速した。大して惜しくもない平凡なレフトフライにスタンドから溢れ出たため息は今でも覚えている。
「後悔先に立たず」
確かに過去にいつまでも居座ったところで何も生まれない。人は過去を経験して、過去に教訓を覚えて、少しずつ前に進んでいくものである。小木津の顔を見て、「こいつは前に進んだんだな」と思い自然と笑みが溢れた。
(こいつには敵わないな……)
持ち前のポジティブさだけでは語れない小木津の直向きさに敬服の念を送らずにはいられなかった。
「それで……その、石岡先輩とは……話せたのか?」小木津が珍しく、辿々しく言葉を並べる。
「……なんのことだよ?」
当麻はその意図を理解し、表情から笑みを消した。
「……なんのことじゃねぇだろ。お前石岡先輩と話せてないだろ。それどころかあの夏から一緒に応援も行けてないだろ?どうすんだよ、今日卒業するんだぞ?一言言わなくていいのかよ!」
小木津は声を押し殺しながらも、強い口調で語りかける。当麻がすっとぼけたことに苛立ちを覚えたのだろうか、その声音はわずかに震えていた。
「うるせえよ。関係ないだろ」
当麻は気恥ずかしさから、冷たくそう言い放つ。
人は過去から前に進むもの。しかしいつまでも過去に居座ってしまった人はどうやって歩き出せばいいんだろう。歩き方すら忘れてしまった人間はどうやって動かし方を思い出せばいいんだろう。
あの試合の後、グラウンドで戦った選手以上に、夕海の涙が印象的だった。試合終了の後、スタンドのベンチから立ち上がることすらできず、タオルを涙で濡らし、顔を上げるができなくなっていた夕海の姿があった。何の言葉を掛ければいいかわからなかった当麻は整備されているグラウンドを隣で眺めることしかできなかった。
それからは夕海の受験勉強が忙しくなったこともあって、なかなか誘うことができなくなっていた。何かと自分に言い訳して、勝手に相手の都合を考えて連絡できずにいた。
「もう今日しかないんだぞ。今日が最後なんだぞ。今日言えなかったらもう次はないんだぞ。それでもいいのか?」
小木津が、今にも殴りかかりそうな剣幕で距離を近づけてくる。
「お前はスポーツを観に行くことで確実に変わった。入学した時の無気力なお前はいなくなった。変われたのは応援に連れて行ってくれた夕海先輩のおかげだろ?」
「お前が今好意を抱いているのかどうかは知らないし、そんなのは関係ない。そうじゃなくてお前の恩人でもある夕海先輩に一言何か言うことがあるんじゃないかってことを言いたいんだよ」
小木津が息を切らしながら当麻の目を見据えて、言葉を絞り出す。
「……だから行ってこい当麻」
肩に置かれていた手に、小木津の力がこもる。何かと言い訳をつけてやらなかった前の自分に、いつの間にか戻っていたんだと気付いた。迷惑かもしれないという事じゃない。自分がこれで納得できるかということを考えていなかった。それに小木津に言われるまで気付いていなかったことに驚かされる。当麻は逸らしていた目を小木津に向けて言葉を返す。
「名前で呼ぶなよ……気持ち悪いな」
その言葉を発した後、当麻は笑顔を浮かべて小木津を手で追い払った。
※
『夕海先輩。放課後時間はありますか?話したいことがあります』
当麻は休み時間に必死に指を動かした。明日じゃなくて今日言いたいことがあるんだ。今日じゃなきゃ伝わらないことがあると親友が教えてくれた。だから今日会うためにラインを開いた。
するとすぐに石岡夕海のアイコンから返事が届いた。
『ごめん!今日引越しがあってすぐに帰っちゃうんだ……』
その文面をみて、頭が真っ白になった。僅かな希望を持って送ったメールが叩きつけられたような気持ちになった。しかしもう一度石岡夕海からのラインの通知音が鳴る。
『でも…靴箱見て!プレゼント入れてるから』
その文字を見て、当麻は急いで靴箱に向かった。
靴箱を開けるとそこには薄浅葱色の封筒が靴の上に載っていた。「手紙?」と呟き、当麻はそれを手に取る。裏面を見ると「家に帰ってから読んでね♪」と左下にちょこんと書いてあった。
当麻はそれを見て「夕海先輩らしいな」と呟き、大事にポケットにしまった。
エピローグ
家に帰るまでがとても長く感じた。いつもより早歩きで、時折走って家路を急ぐ。別に家に帰って観たいテレビがあるわけではない。欲しかったものが届くわけでもない。ただただ手紙を読みたい。それだけの事でこんなにも必死になるんだと自分自身に驚いた。
玄関を開けてすぐリビングへ行かずに階段を上がり、自分の部屋に入る。遠くから母親の「おかえりなさーい!あれ?」という声が聞こえてくる。
ベッドに腰を掛けて、カバンの中にしまった手紙を取り出す。朱色の花柄のシールを丁寧に剥がしてく。すると中には2枚の便箋が入っていた。心を決めて深呼吸をして、夕海からの手紙を読み始める。夕海先輩らしく大きめの、勢いのある癖字で書かれた手紙の書き出しは「私のヒーローへ」だった。
私のヒーローへ
とつぜん手紙を書いてしまってごめんね。
急に引越しの日が決まってしまって。
引越し業者の人がどうしてもこの日じゃないとダメだというから変えられなくて。
でもまぁいいんだけどね。
私が話すとちゃんと伝わらない気がするから手紙で書きました。
どうだ時代錯誤でしょ!
(そんな威張る事じゃありませんよ)
心の中でそう突っ込みながらも、当麻は便せんを埋め尽くす文字の羅列を追う。
当麻くんは、私にとってのヒーローでした。
こんなすごいピッチャーがいるんだ。
こんなすごい子がこの地区にいるんだと中学生の当麻くんを見て思いました。
いずれファルコンズを背負うのは当麻くんだ!って信じてやまなかったです。
(まぁ…すぐやめちゃったんですけどね…)
でもね高校に入ったら、今度は別の形のヒーローとして帰ってたんだ!
今度は私と一緒に野球を観に行ってくれるヒーロー。
誰も一緒に行ってくれなかったから困っていたんだ。
ほんと救世主だよ当麻くん!
(ほんと。色々教えてくれましたね。最初はお節介だと思ってましたけど)
だから私も色々教えてもらって、でも……夏の大会は悔しくって……
残念だったけど、それでもすごく楽しくたくさんの思い出をありがとう!
高校3年生の時が一番楽しい一年だったって思えるのは当麻くんのおかげです!
(いえいえ…僕の方が感謝しても感謝しきれません)
たくさんの思い出、という言葉に夕海と過ごした日々が走馬灯のように脳内を駆け巡った。もうあの日々は返ってこないのか。そう思うと息苦しくなるような心地を覚える。しかしその苦しさを取り払ったのもまた、夕海の手紙の言葉だった。
でも…お別れって訳じゃないんだよ。大学も県内の国立大学だし、
またファルコンズ応援に行けるんだから、絶対行こうね。
この半年くらい行けてないけどちゃんと行ってる?今年5位だよ5位!
来年はもっと頑張ってもらわないと!!
(手紙の中でもファルコンズですか。夕海先輩……らしいですね)
それでさ、あれから少し考えていたんだけど。
ハロって覚えてる?
結構前に当麻くんが授業聞いてたけど名前忘れたって言ってたやつ。
(あれですよね…太陽の周りにできる暈みたいなやつですよね…)
当麻は彼女との会話を思い出す。ハロ。光の屈折の加減でまれに見られる現象のことだ。太陽の周りに虹のように現れるそれがここでなんの関係があるのかと、当麻は眉根を寄せた。
あれって、私たちみたいだと思わない?
いつもは見えないけど、いつもそこにあるの。
そんで、ある一定のタイミングで見えるようになるの、私たちみたいだと思わない?
太陽という野球選手の周りを遠くから眺めていて。
そんでいつもは全然見られないけど、たまーに応援が届いて姿を現わす。
もちろん見えない時だってあるけど、そんなことも含めて、
ハロがあって太陽、ファンがあってスポーツだと思うんだ。
だからこれからも一緒に応援に行ってください!
そして念願のファルコンズが優勝する瞬間を一緒に見られたら最高です!
卒業しちゃうけどこれからもよろしくお願いします!
これからも一緒に!チーム名は「HELLO」だね!(←これいい名前じゃない?)
石岡夕海
最後の一行を読んで、手紙を封筒にしまう。いつの間にか頬を伝っていた涙を制服の袖で拭う。
まだこれからも一緒に応援に行けるんだ。まだ応援に行ってもいいんだ。安堵の気持ちと、感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。その思い出を振り返れば振り返るほど、涙があふれワイシャツの袖を湿らせていく。
「本当に……ありがとうございました」
今度あったら言おう。次会う時は自分の本心で想いを伝えよう。応援の時みたいにストレートに気持ちをぶつけるんだ。
当麻は呼吸を整え、手紙をもう一度見返す。
「チーム名HELLO……ね。ふふっあはは」
再度その最後の一文を読んで、当麻は笑いが込み上げて吹き出してしまった。涙を拭う暇もなく笑いながら、当麻は次の応援シーズンに思いを馳せた。
今度また、あのスタジアムで待ち合わせしよう。首にタオルを巻き、緑色の限定ユニフォームに身を包んだ彼女の元へ駆け寄って……そして、とびきりの笑顔で言ってやろう。
「こんにちは、夕海先輩」
「ハロのスペルは……HELLOじゃなくてHALOですよ」
おわり