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[考察]終わりと始まり


もうすぐ年末。

師走の文字どおり、大晦日に向けて世の中全体がワァーとラストスパートでアレもこれもと駆けまくる感じ、ゴゴゴゴゴッと何かが集まってくる感じがしている。

大晦日を越えて1月1日になると、その溢れそうで騒がしかったものが、急にピーんと静まりかえる。

年末あれだけ騒がしかったものがすべて無かったことのようになるあのメリハリにはなんだか抗えない自然の力みたいな凄みを感じる。

この「終わって始まる」みたいな構造は、年末年始のような大規模なものに限らず、もっと小さなところにもみられる。
たとえば、ある1日、1時間や1分にもある。

23:59から0:00へ。
59分から0分へ。
59秒から0秒へ。

なにかがワァーと迫ってきて、次の瞬間にはそのなにかがすべてキレイに消え去る感じ。


「終わって始まる」というこの「振り子が振れる」かのような仕組みには、
蓄積されるものを良い形で精算する「循環」が組み込まれているようだ。


心理学者ジョイ・ギルフォード氏が提唱した「拡散的思考・収束的思考」という学説がある。

[拡散的思考とは固定概念にとらわれず、新しい発想を自由かつ無数に生み出していくこと。
収束的思考とは論理を積み重ねて1つの最適解を導き出そうとすること。]

拡散と収束が交互に行われるリズムの中で、新しい発想が磨きこまれて「創造」にたどりつく。

拡散させたものを収束させて一つに。
何かが創られる。そしてまた拡散。。。


少年時代のあのマンガを思い出した。

不朽の名作、「ドラゴンボール」。

世界に散らばったドラゴンボールを探す道中で、様々なものに出会い、闘い、学んでゆく悟空。
集めたドラゴンボール一つ一つには、きっとそのときそのときの体験が知識となって宿っている。

そうして集めたドラゴンボールは、願いを叶える「神龍」に変わる。

「神龍」は言うなれば、
集められた具体的体験知から抽象化された概念の象徴。拡散と収束が生んだ創造物。

願いを叶えた神龍は、1年間は石化したドラゴンボールとなってまた散り散りに世界のどこかへ飛んでゆく。

1年間をかけて見聞を拡げ、いろいろな環境からまた再び新しい体験知を集める時間にするべしってことかもしれない。


我々に与えられた1月から始まり12月で終わる「1年間」という流れは、
このようにみれば「ドラゴンボールを探す壮大な旅」と捉えなおすことができる。

(初詣に神社で手を合わせる「祈願」も含めて。)


要するに、

この世はでっかい宝島。
そうさ、今こそアドベンチャー。

ってことなのかもしれない。






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