「ダークマスターVR」~ 観客のリアルを操縦する演劇~
どっから語ろうかな~。もう、語ることが多すぎて困ってしまう。
1.観客のリアルを操縦する演劇
ぼくたちはコロナ禍の中での演劇の存続を考えてきた。いま演劇は、人との接触に神経を尖らせて(三密回避に腐心して、換気と入場制限をかけながら)作品を提示し続けている現状だけれど、果たして本来の演劇らしさを保っている公演はどれくらいあるのか。オンラインリモート公演や人数の疎らな大劇場公演は、どこか本来の演劇らしい「核」を多少なりとも弱めたり失いながら興行を続けているものではないのだろうか……と。
なぜって、演劇はそもそも三密を内包した芸術で、稽古中から本番に至る役者同志のノーディスタンスとも言える密なコミュニケーションに加え、本番では、舞台上の役者から観客へ向けた熱量(飛び散る飛沫も含めた/特に小劇場において)こそ、演劇の演劇らしさであると、自分の演劇体験(創るときも観るときも)であったから。
2020年10月。「ダークマスターVR」――。VRと言っても自宅視聴ではなく観客は劇場に訪れ、ちょうど個室ラーメン屋「一蘭」のような個人スペースに潜って、MR(Mixed Reality)ゴーグルを装着して、物語と接続する。これは、コロナ禍に誕生するべくして誕生した稀有で重要な演劇作品である。
結論から言うと、「ダークマスターVR」はとても演劇的なコンテンツだった。たしかに舞台上にリアル役者はいない。観客同志のバイブス共鳴感もない。まして役者と観客の相互作用はない。(ここで言う相互作用は、観客の笑いや感嘆のリアクションを役者に届け、その瞬間の役者の次なる演技に寄与する化学変化みたいな共同創作性のことです)。そういう意味では、従来の演劇的コミュニケーションは不在だ。それなのに生っぽい「演劇」に思えた。
わたしが思うに2点ある。1点目は、VRはある一面で(映画よりも)演劇的体験に似ている特性を持っていること。2点目はこの作品「ダークマスター」はVRにするにふさわしい作品だったということだ。
1点目。VRの演劇っぽいところ。編集の権利の話である。例えば、映画を観るとき観客は監督が編集した絵を受け取るしかない。役者の顔ドアップや、長回しや、カットバックの多用とか、1本の映画の中でいろいろな絵を提示されるが、それは監督が作った料理(編集され終わっており観客は同じ絵を見る)である。それに対して劇場の舞台で展開される演劇は、演出家の作った料理は一部観客に編集を委ねている部分がある。あるクライマックスシーンで、観客が役者の顔だけを見つめるか(この場合観客の目はズームアップカメラになる)、舞台セット全体の中で人を俯瞰して見るか(観客の目は引きのカメラになる)で印象は変わり、その印象はその1観客だけのオリジナルとして宿る。この演劇の演劇らしい「最後の編集権のようなもの」をVRもまた観客に与えている。要するに360度(あるいはそれ以下の角度で)の世界のどこを見つめるかは観客が決めていいのだ。
2点目。「ダークマスターVR」が殊更演劇っぽいこと。それはヴァーチャル空間の中にいる個々の観客の感じる感覚こそを問う物語だったからなのではないか。単にVRの映像クオリティが高いから、生っぽいという(だけの)話ではない。観客がVR(仮想現実)を観るために、普段の自分の視覚や聴覚をゴーグルやヘッドフォンにゆずる(五感をヴァーチャルに明け渡す)という観劇の構造そのものが、言ってみれば、この芝居のテーマとも言える「乗っ取られた感覚の物語」と不可分に通底していたからなのだと思う。「ダークマスター」はVRとして生まれ変わり、観客のリアルを操縦し始めることになる。
「ダークマスターVR」を語る前に、先行する「ダークマスター」という舞台演劇版に触れたい。以下はステージナタリーからの引用。
庭劇団ペニノの代表作の1つ「ダークマスター」は、原作・狩撫麻礼、画・泉晴紀による「オトナの漫画」に収録された同名マンガを元に、タニノクロウが脚色・演出を手がけた作品。2003年の初演から、東京、大阪、宮城、富山で上演され、2018年には「ジャポニスム2018:響きあう魂」の公式企画としてフランス・ジュヌビリエで、昨年には「OzAsia Festival」に招待され、オーストラリア・アデレードで上演された。
2.ダークマスター舞台演劇版
わたしは演劇鑑賞会の幹事をしながら、庭劇団ペニノの芝居を2008年アトリエはこぶね観劇以来、欠かさず観劇会の演目に挙げて見続けてきた。しかし10年にわたりこの初期の傑作を観る機会を得ることがなかった。2017年の2月のこと。初演2003年再演2006年に次いで、11年ぶりの再再演「ダークマスター」を観劇したとき、何かとっても新しいものに撃たれた衝撃が走った。それはすぐに言葉にできない種類のものだった。
駒場アゴラの客席に通された観客は、長椅子座席の上に等間隔に置かれた長いコードのイヤホンに目をとめ、しばし戸惑った。会場にスタッフのアナウンスが入り、隣に座る観客同志が(仮に見ず知らずの他人であろうが)右左のイヤホンを片方ずつ耳に入れてシェアして観劇して欲しいと伝えられる。長くコードの伸びたてっぺんにふたつの丸いイヤホンヘッドがあり、隣人と片方ずつ右に座る人は左耳にヘッドを、左に座る人は右耳にヘッドを入れるという行為の、どことなくオカシミにあふれ、どことなくエロティックな導入から演劇は始まる。冒頭のイヤホンは観客を和ませるための小道具ではなく、物語とリンクして、観客にある実体験をさせる演出(=仕掛け)であった。
舞台は洋食屋の店内、精巧に再現するように造作されている、東京からやって来たバックパッカーの青年が旅行中に訪れた大阪の場末の洋食屋「キッチン長嶋」に入り、格別な味のオムライスを食べる。アル中で客扱いに難のあるマスターに代わって、客として来たはずの青年は、この店のマスターになるよう命じられる。青年はマスターに言われるがまま、左耳にマイクロWifiイヤホンを埋め込まれ、耳に届けられるマスターの声に従って料理をふるまうことになる。上の階に退いたマスターは店の至る所に取り付けられた監視カメラを見ながら、オムライスのレシピ段取りをイヤホンを通じて青年に伝える。青年は聴覚をマスターに奪われながらも、味に定評のあるマスターになっていく。遠隔で操られている状態そのものも、どこか気持ちのいい感覚になり、来店客も大喜び、店は繁盛する。そんなイイこと尽くめの中、2階に閉じ籠っているはずのマスターの存在感はだんだん薄れていき、次第に自身の内面までマスターに乗っ取られていく錯覚に陥る。
この芝居を観ている観客はと言うと、マスターの操り人形となる青年と同様、最初に客席で耳につけたイヤホンから聞こえるマスターの指示を聞くことになる。駒場アゴラの席で、聴覚をコントロールされ、狭い小劇場に料理の実作による匂いを立ちこめて嗅覚を刺激され、視覚は自由がきくものの(小劇場の超至近距離で)聴覚と嗅覚を完全にペニノに預けた(牛耳られた)感じで、世界に没入させられるのだった。この強制的な聴覚・嗅覚・視覚が魅惑的で、ドキドキしながら物語にノッている、「強い何か」に操られていることが、どこか快楽であるかのように。
この「ダークマスター劇場版」は、前述した演劇鑑賞会において、観劇者平均スコア9.4という超ハイスコアを叩き出した。
3.ダークマスターVR
劇場演劇版に満足していた私は今回のVRにも何か特別な感動があるに違いないと東京芸術劇場に向かった。各回20名限定の観客は劇場の床に貼り付けられたレーンの枠内に沿って進み、アクリル板(マジックミラー)で区切られた小さなスペースに閉じ込められる。
乗っ取られる芝居だとわかっているわたしからすると、導入から(メタ的に)楽しむことができる。VRゴーグルを装着し(視覚を乗っ取られ)、ヘッドホンを装着し(聴覚を乗っ取られ)、コロナ対策で口を覆っていた自分のマスクを外した(キッチン長嶋で出される料理の香りを嗅ぐために)。これは「キッチン長嶋」に入店するための儀式のようなものである。そこにいるダークマスターという強力な他者に自分を乗っ取らせ操縦させるための準備のようだ。なんだかまるで、宮沢賢治の「注文の多い料理店」に入るための準備のようですらある。
物語のプロローグ。個々のブースに入って椅子に座る。ブースといっても天板はなし、目の前にテーブル、その向こうにアクリル板(座ったときに頭の高さより少し高い程度)。左右の隣の観客とも、アクリル板1枚で遮断されているだけ。天板がないから、劇場空間全体が見えている。目の前のテーブルの上のゴーグルをかける。この時点では視界がまだ閉ざされてない、リアルな劇場空間がゴーグル越しに見えている。このゴーグル、画像エフェクトをかけられていて、正面のアクリル板(マジックミラー)反射で、ゴーグルをかけた自分が、鏡に映ったように見えるのだけど、輪郭とかすべて真っ白になる。左右を見ても自分が見えるだけで、隣人の姿は(光の制御によって)見えなくなる。劇場の大きなスペース、高い天井の明かり、広い空間は見えている。劇場はほんの僅かな照明を除けば真っ暗である。どんより暗い異国の空港を思い出す。相当昔にトランジットで立ち寄ったモスクワ空港がこんな感じじゃなかったか。
つまり、大きなスペースに真っ白な自分が独りぼっちになる。
小さなブースの中にいる自分を見つめる時間になる。
MR(Mixed Reality)ゴーグルを通して見える自分。闇の漆黒の中に白く浮かび上がる輪郭の自分。色彩を喪ったモノクロの世界。孤独で真っ白い自分の手を閉じたり開いたりする時間が流れる。
やがて物語が始まる――
白い自分だけだった視界にフルカラーの視界が(VRで)戻ってくる。「キッチン長嶋」の扉が見える。ドアを開けて店の中へ入る。マスターの金子清文さんがいる。コロッケ定食を出してくれるまで、マスターの表情を注視していると、ときどき凄い目ヂカラでコチラを見ている。ガンを飛ばしていると言ってもいいくらい。たったふたり(自分とマスターしかいない)空間でだ。ここ重要。他のお客さんは視界の中にいない、たったふたりの空間が作れるVR。もし目の前にいるのがリアルな人だったならば、瞬間的に視線をハズシたくなる圧力なのだが、そこはVRだ。(おそらく他の観客もそうだっただろう)冒頭部分はこのマスターを見ることが演劇だと思っているから、思いっきりマスターと目線を合わせにいく。自分の意志で(先に書いた観客に委ねられた編集権)。大人の男性のイラつき気味の表情を、敢えて真正面から見ている自分。(目線を他に移す選択肢はあるのに、また特別な好意感情があるわけでもないのに)ふたりだけの空間で細部まで穴があくほどじっと見続ける。もうこの経験からしてかなり稀有だ。
嗅覚刺激に関しては、QJWebのインタビュー記事を発見した。
青年がマスターの指令でステーキを焼くシーンがある。そのとき、かすかにいい匂いがしてきた。気のせいかと思っていたら、金子氏に聞くと、スタッフが玉ねぎを炒めて、ウチワで扇いでブースを回っていたらしい。
QJWeb 「観客は実態のない支配者にリモートで“操作”される タニノクロウ演出『ダークマスター VR』(末井昭)」より、マスター役金子清文氏にインタビュー
物語の終わった後のエピローグでは、再び白い自分と対峙する。今度は両サイドのアクリル板がシースルーになっていて隣の白い人物も透けて見えてくる。
昨今、観客が能動的に参加する演劇をイマ―シヴシアターという(わたしも四半世紀にわたってミステリー演劇の業界でイマ―シヴな行動型分岐演劇を創り続けている)が、観客自身が物語世界の登場人物になって、転がる物語の中でゆっくりと没入していくのに対して、VRやMRは入り口からして没入装置である。“観客が世界に没入する“ という字義だけで捉えるならば、観客の知覚という知覚を占拠してしまう方が、手っ取り早く没入させられる。もちろん冒頭から過剰な刺激を与えるのではなく、没入への段取りというものがある。そういう意味で、ダークマスターVRに学ぶところは多い。
(追記すると、ちなみに庭劇団ペニノの作品には、観客が仮面をかぶって移動しながら世界と交信する、「まさしくスリープノーモア的な」イマ―シヴ作品も既に数作あって、私はそのシリーズも好きなのだが)
4.ゴジラナイトMR 演劇とMRの相性
ここで、2つ目のMR(Mixed Reality)演劇の話をさせてもらいたい。それは演劇とMRはとても相性がいい!というケーススタディだと思うからだ。
わたしが2018年と2019年と2年間にわたって関わった「ゴジラナイトMR」。全公演を演出担当(+脚色)として立ち会った(約300公演)。
それまで、VRと言えば、恐竜やジェットコースターや360度デートものやら、VR映像からドラマVR、VR演劇と名前がつくものも目に付いたものは観てきたが、あまり心が奪われなかったのは、今いる自分の現実がゴーグルの外の安全地帯に置き去りにされて、まったく脅かされていなかったからなのかもしれない。
マイクロソフト社のホロレンズに代表されるMR(Mixed Reality)はVRと違って、視野はフィクションで塞がれておらず、シースルーにリアルな現実の風景が見える透明ゴーグル(リアル空間)に、ヴァーチャル映像を同居(現出)させることができる。私が依頼された仕事は、ゴーグルを通して現実の日比谷のビルの合間から、等身大のゴジラ(ヴァーチャル)を登場させて、観る者たちに襲いかかるという、パニックエンターテインメントの見せ方、だった。
ゴジラナイトMRでは、ゴジラを観る前に、気分を煽る導線を用意した。フィクションはいきなり見せるのでは嘘になるから、事前に気持ちをつくってあげる、という意味での「前座芝居」である。ゴジラをミサイルで迎撃するアトラクションの前に、作戦本部に集まり打ち合わせるという芝居パートだ。小劇場演劇に慣れ親しんだ私は、ふたりの役者(夏目司令官役の伊藤総さんと山田上官役の間瀬英正さん)と一緒にこのパートを練り上げることに注力した。観客は自ら自衛隊員として招かれて作戦本部に入る。そこでホロレンズを装着させられた隊員たちは、司令官と上官の指示にしたがって、上陸したゴジラによる被害状況や今後のミサイル攻撃の手順をホロレンズ越しに説明される。リアルの風景の中にヴァーチャル画像がどんどん侵食してくる。徐々にヴァーチャルの度合いを高めていき観客の体温を上げていくことで、ゴジラに襲われるというフィクションを受け入れられる遡上をつくる。日常の風景リアルからヴァーチャルへと視界のグラデーションを作りこんだとも言える。
初演2018年日比谷迎撃60回より、ふたりの役者さんと平面図
みんな頭の片隅で高解像のゴジラに襲われたいと思っている。演出家として、全300回公演にわたって、ゴジラ迎撃に挑む観客隊員の姿を横で見ながら、つくづくそのことを思った。観客たちは、リアルの中に侵食してくるヴァーチャルの異物によって、操られてしまう「もうひとりの自分」に出会いたいのだ。無意識にそう願っている。
【ゴジラナイト全300回戦績】
2018 日比谷迎撃作戦_伊藤&間瀬(作戦&迎撃70回)
2019 名古屋栄迎撃作戦_名古屋自衛官8人(作戦&迎撃180回)
2019 WKE日比谷迎撃作戦_青山会議_伊藤&間瀬(作戦10回)
2019 日比谷ミッドタウン迎撃作戦_伊藤&間瀬(作戦&迎撃40回)
「ダークマスター」のテーマである「五感を乗っ取られる物語」は、物語構造的にもメタ的にも、われわれが無意識にVRに期待している「欲望の物語」であったのかもしれない。
5.3つ目のMR演劇「縛られたプロメテウス」
更に2020年の3月。コロナが始まる頃に観た、もうひとつのMR演劇の衝撃作がある。
小泉明郎「縛られたプロメテウス」
MR演劇の可能性を強く感じさせる作品だった。お台場にある港区民センターの中にある巨大体育館。各回限定10人のひとりとして中に誘導される。木造体育館特有の据えた匂い。真っ白なコスチュームスタッフから丹念にアルコール消毒された、白いヘッドマウントディスプレイを手渡された。
ゴーグル越しに見える風景は、一緒に参加している10名の姿。やがてわたしの周囲に非現実な映像が割り込んでくる。居心地のいい宇宙空間に包まれながら、ところどころでわたしは孤独になった。この60分の構成に唸らざるを得なかった。この物語は「自分の体験」の後に、周到に設計された「他人の体験」が用意されているのだが、この「他人の体験」を観たとき、時系列でいうと過去になる「先ほどの自分」が、目の前の「現在の他人」から透かしてみえる「未来の存在」になるという、MRならではの、とんでもない物語構造を含有していた。
「ダークマスターVR」はこの時と同じMRゴーグルを使用していた。一部視界をホワイトで占拠する演出にも共通点があった。タニノさんのインタヴューを読むと合点がいった。テクニカルスタッフの野村つよしさんが両作品を支えていたようだ。