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2011年3月11日14:46

2011年3月に私の上司が結婚した。

私は同僚と共に結婚式に呼ばれた。
仕事でお葬式に行くことはあるが、結婚式に行くことは初めてで
普段ジャージを着て仕事をしている私達が
着飾って集まるのは不思議な気がした。

 
当時、私には付き合っている人がいたし
上司の奥さんは私と同い年だったから
次は私の番だと思っていた。

 
私が仕事を始めてから、同僚が二人結婚した。
同僚は施設長を会議室に呼び出し、結婚報告をし
同僚と施設長二人で職員室で大々的に結婚報告をした。
みんなが笑顔になって、「おめでとう!」と言い合い
そこには祝福ムードしかない。
二人とも、長年付き合っている人がいるのは
同僚みんな知っていた。

当時、私は同僚に婚約者の話をしていた。
だから私は次は私の番だと思ったし
周りも次は私の番だと思ってもいた。

 
 
上司が新婚旅行で仕事が休みになり、主任の義母が危篤となり
結婚式後は仕事はバタバタだった。
上司と主任を抜かせば
実質、現場を仕切る正職員の一番古株は私だった。

 
もう新卒の小娘ではない。
「現場は任せてください!」と上司に言ったつもりだったが
まさか主任まで休むとは誤算だった。

 
そんな中、利用者が緊急入院し、別の利用者の保護者が急死し
私は毎日てんてこまいな状態だった。
それでも、あと少し頑張れば……と思っていた。
3月11日の金曜日は、仕事終わりに久々に友達と飲み会予定だった。
その週は久々の週5勤務。
花金を楽しみにしていたのだ。

 
 
 
そんな怒濤の一週間であった。
その週の5日目にあたる金曜日、3月11日を迎えた。

 
その日、新規の利用者が二人、施設利用を開始した。
そのうちの一人は私の事業だった。
某特別支援学校が10日に卒業式だったので
早速施設を11日から利用し始めたのだ。

 
二人とも学生時代から施設に実習に来ていたので
施設の職員や利用者とある程度は関係が築けていたが
基本的に利用初日は私がマンツーマンでつく。
私が事業責任者だからだ。
朝の体操や自己紹介、作業や活動、食事支援やトイレ支援と
午前中から昼にかけて、特に問題はなかった。

 
 
その日は月に一度のクラブ活動の時間で 
13:30~14:30までパドル体操だった。
パドル体操とは、パドルと呼ばれるこん棒のようなものを使い
音楽に合わせて自由に、もしくは先生の動きに合わせて体を動かす体操だ。
施設は学校とは異なり、体育の時間がない。
学校を卒業したての利用者はあっという間に太りやすく
散歩を含め、様々な運動やリハビリを活動に取り入れたり
給食の量を調整した。

 
ボランティアの先生が来て、行ってくれるパドル体操の時間は
貴重な体を動かす時間で
利用者だけでなく、私自身も好きだった。
私も利用者もいい汗をかき、クラブ活動後の麦茶がめちゃくちゃ美味しい。

 
14:30にクラブ活動が終了し、先生に挨拶をして見送った。
利用者は着替えや水分補給をし、私はクラブ活動日誌に様子を記入していた。
当時、クラブ活動は三種類あり、全て私が担当していた。

「ともかさん、私、トイレ行きたいです。」

今日から新しく利用者になった女性が私にそう言ってきたので
私は書類を書く手を止め、トイレに移動した。
クラブ活動室からトイレは離れていた。

車椅子の方なので
筋力が低下しないように自力でなるべく漕いでもらい
私は横についた。
彼女は初めてのパドル体操だったが
楽しめた様子だったので何よりである。

 
身障トイレに到着し、個室に二人で入った。
彼女は便器に座った。

その時である。

 
ガタガタガタガタ………

 
「あ、地震…。」なんて二人で言っていたら揺れはあっという間にドガンと大きくなり、長く長く揺れた。

 
え?え!?な、何!?!?

 
ただごとではないと思った。
利用者や職員がキャーキャー騒ぎながら外に避難する音が聞こえた。
普段月一で避難訓練はしていたが、実際に避難したことなんてなかった。
だが、今回はそんなレベルではなかった。
それほど大きな揺れだったのだ。

 
私は利用者を思い切り抱きしめ、利用者の頭や体を守った。

「ともかさん、怖いよぉ…。」

と、利用者が半泣きである。

 
「大丈夫。ともかさんがいるよ。」

と励ましながらも、私は人生で初めて死を覚悟した。
私はここで死ぬんだと思った。

 
せめて利用者の命だけは守ってみせる。 

 
そう思いながら、私は強く強く利用者を抱きしめた。
利用者はビビッて体は動かなくなっていたし、揺れは一向におさまらない。
私と体重は同じくらいだ。
背負うことは難しい。

 
私の事業部は…みんなはどうなっているんだろう………?

 
私は利用者を抱きしめながら思った。
この時利用していたトイレは、他事業部の部屋近くのトイレで、私の事業部のみんなはどうなっているかがわからなかった。

 
そのうち、揺れがいくらかおさまった。

 
「大丈夫かっ!?」

 
同じ事業部の男性職員がトイレ個室前で声をかけた。
避難しない我々を心配して助けに来てくれた。
みんなの避難終了後、利用者を他の職員に任せてヘルプに来てくれた。
その声と存在が心強かった。

 
私「そろそろ立ち上がれる?」

 
利用者「やってみます。」

 
私「1、2の3っ!!」

 
ようやく利用者は立ち上がり、私は車椅子への移乗介助をした。
車椅子に無事移れた。

  
私「大丈夫です!外に行けます!」

 
私は扉越しに職員に声をかけ
車椅子の利用者を一気に押して、外へと急いだ。

 
 
…外は大惨事であった…………。

 
 
てんかん発作の利用者はピクピクと痙攣し、「ともかさん!」「怖かったよ!」「怖いよ!」と利用者がギャン泣きし、私の右手や左手にみんながピッタリくっついた。

「もう大丈夫。ともかさん来たからね。大丈夫だよ。みんな、よく頑張ったね。」

私はみんなに声をかけたり、頭を撫でた。
パートさんらと協力しながら利用者の様子を見た。
利用者は不安定になり、泣きまくっている。

 
 
揺れは止まらない。
大きな地震の後、何度もグラグラしていた。

 
なに?
なんなの、これ………。

 
男性職員が、ラジオのスイッチを入れた。
どうやら東北地方が震源地でかなり大きな揺れとのことだった。
通常は15:45送迎スタートだが、早めに送迎した方がよいという話をしていた中
自閉症の利用者がパニックになり、複数人が施設内に走っていった。
私は自分の担当利用者二人の名前を呼んだ。

「Aさん!Bさん!」

二人とも足が速い。
私は泣き喚く利用者がたくさんそばにいて、第一歩が遅れた。
慌てて二人を追いかけて走った。
まだ余震がひどい。室内は危険だ。

 
利用者A「まだ連絡帳書いてもらってない。」

 
私「大きな地震だから、今日は書けません。今すぐ送迎車に乗ります。」

 
利用者B「帰りの会やってない。」 

 
私「今日は中止です。建物内は危険だから、今すぐ送迎です。」

 
 
利用者が納得するわけがなかった。

職員で手分けして利用者の荷物を外に運び、保護者に早めに送迎することを連絡し、その間に利用者の見守りや支援を行った。
私は余震の中、Aさんの分の連絡帳のみ記入し、Bさんに帰りの会を行ったが
納得ができず
最終的には暴れる二人を職員複数人で建物から出した。
死を覚悟した瞬間その2である。
利用者の力は強く、加減がなく、今また大きな地震があったら
私はこのままやられると思った。
そして、暴れる利用者から傷をつけられないようにしたり、逆に利用者を守ろうとすればするほど
それはそれで地震とは異なる危なっかしさがあった。

 
避難訓練時、いざ地震が来たら車椅子の利用者が逃げ遅れるだろうなぁと呑気に思っていたが
実際は自閉症の利用者がパニックになり
室内に戻ってしまったという誤算があった。

 
訓練は訓練だと思い知らされた瞬間だ。

 
 
 
利用者は早めに送迎となり、私は保護者に連絡がつかない利用者の様子を見ながら、書類作成をした。
事務室の書類は若干棚から落ち、若干壁が欠けてパラッと粉が落ちていたが
特には被害はなかった。

 
パートさんらは先に上がり、正職員のみが事務室に残った。

飲みに行く予定の友達は仕事の関係で、地震により仕事量が増え、「飲みどころじゃなくなっちゃったね。また次回にしよう。」とメールが来た。
私は私でバタバタしていたので、飲みどころではなかった。

 
 
書類作成をしていると他県に住んでいる親友と彼氏から、「地震、大丈夫だった?」とメールが入り、私はハッとした。

 
地震、もしや他県もヤバいのか……?

 
地震発生時、ラジオから震源地で東北地方と聞いたのみで、私はまだ東日本大震災の恐ろしさを知らなかった。
施設内は特に被害がなかったし、事務室にはテレビもラジオもなかった。
早く帰宅する指示もなかったし、利用者が複数人施設に残っていた。

 
帰れる訳もなかった。

 
その内、母親からもメールが来た。
たまたま、母親は仕事が休みだった。
メールによると我が家は停電中らしい。ドキッとした。
施設内は平和だったからだ。

 
 
送迎担当者は車内でラジオが聴けた。
話によると、相当大変な地震らしい。
福島出身の同僚は慌てて食料品等を買って定時で上がった。
今から福島を目指すらしい。

 
福島県がヤバいらしい

 
と、私はこの同僚の言動で分かった。
食料品を買い込むなんて大袈裟だと最初は思ったが
後に同僚の正しさを思い知った。

 
 
利用者Cさんは18時に保護者に引き渡し、利用者Dさんは保護者が24時にならないと迎えにいけないと言い出したので
Dさんは職員が自車で送っていくことになった。
Dさんは電車で遠方から通所しており、電車は地震の影響で止まっていた。

 
利用者全員が帰宅したため、私は帰ることにした。
残業はいつも通り行った。
利用者がいる限り、先に帰ることはできない。

 
例えどんな状況であっても、だ。

 
 
施設の外は普通の世界に見えた。

一瞬だけだ。

施設そばの信号機二箇所が停電により、反応していなかった。
譲り合い、そろそろと走った。
信号機が機能していないことがこんなに恐ろしいと思わなかった。

 
 
そのまま15分以上走った後、私は自分の目を疑った。

 
いきなり、街が真っ暗になったのである。

 
どうやら施設近辺より我が家近辺の方が停電がひどいらしく
私は機能しない信号機そばをそろそろと通り抜け
我が家を目指した。
走っても走っても街は死んだように暗く
車のライトだけが不気味にギラギラしていた。

 
我が家は真っ暗だった。

 
こんなことは、初めてだった。
いつもなら、停電はほんの一瞬ですぐ復旧するのだ。
ただごとではないと、いよいよ私は怖くなった。

 
 
室内には両親がいた。
懐中電灯やロウソクの火が怖くて、気持ちが沈んだ。
ラジオの情報も穏やかではないし、まだ詳細は分からない。
食欲などわかず、適当に食べて早めに寝た。

 
 
 
復旧は次の日だった。
電気が心底ありがたかった。

私の部屋ではトロフィーやぬいぐるみ、本が一部落下して、床に傷がついた。
私はそれを12日に知った。

2010年秋に引っ越したばかりで、丁寧に使っていた部屋だけに
床の傷がかなりショックだった。

 
代わりに、あの地震に家はびくともしなかった。
それは非常に心強かった。

 
 
 
朝起きて自室から1階に降りてテレビを見た。
床の傷がなんだと言わんばかりに

 
東北地方は津波で悲惨な状態だった。

 
これが、日本?
映画のワンシーンじゃないの?
これは、現実?

 
私は呆然と立ち尽くした。
母親の実家は福島で、実家には電話が繋がらなかった。
福島には親戚だけでなく、友達も住んでいた。

友達は海の近くに住んでいたし、父親が漁師だった。

 
私はゾクッとした。

親戚や友達やその家族は、今どうなっているのだろう?

 
 
我が県の震度は5~6だった。
私が体験した過去最大であった。

12日、私は勤務ではなかったけど、勤務している職員もいたし、利用していた利用者もいた。
我が県はまだ被害は少なかったが
それでも違和感があった。

テレビから流れる非日常的な映像と
普通に営業している施設のギャップが
私に日常とは何かを問うている気分だった。

 
 
親戚に電話が繋がったのは数日後であった。
母の実家は酪農家である。
停電中のため、搾乳器が使えず
手で乳を搾り続けたらしい。
牛は定期的に乳を搾らなければいけない。

停電中も連日乳を搾り続け
メディアは放射線がどうのこうの福島がどうのこうのと騒ぎ
搾っては牛乳を捨て、搾っては牛乳を捨てる日々が続いたそうだ。

 
のちにこの地震は東日本大震災と名前がつけられ、補助金をもらえたようだが
未だに親戚は体が元通りに動かない。
手で乳を搾り続けた代償である。

 
友達は無事だった。
ご家族も、だ。
連絡がついた時はホッとした。

  

 
 
テレビやラジオ、度重なる余震により
東日本大震災への恐怖は強くなるばかりだった。

家を失った方々が我が県で避難所生活をしたり
炊き出しも行われた。

 
計画停電に合わせて生活し、利用者がお弁当を持参した日もあった。

 
ガソリンスタンドは長蛇の列になり、ガソリンを入れるまでに数時間かかった。
数時間かかっても給油できたらいい方だった。
ガソリンがスタンドに入らないのである。 

他施設は施設営業や送迎車サービスを取り止めたり、制限したが
私の施設は強気であり、営業も送迎車サービスも続投した。
その結果、他施設と併用利用の利用者がたくさん押しかけ
送迎車のガソリンはみるみるうちに減った。

 
 
 
地震の翌週の土曜日は勤務予定だったが
さすがに営業は取り止めとなった。

本来はボーリング大会の予定だったが
この時期は不謹慎ということでイベントは全て中止になっていた。
ガソリンも貴重である。

 
 
そんな中、思いがけない休みがもらえ、グースカ寝ていると電話が鳴った。
6:55である。

電話の主は施設長で、近隣のガソリンスタンドにガソリンが入ったから、今すぐ出勤してガソリンを入れろということだった。

 
本来は7:00に家を出て出勤しているし、「今から準備では間に合いません。」と伝えると、とにかく急いで準備して出勤しろと言われたので
私は慌てて出勤して
ひたすらに送迎車にガソリンを入れた。
他の職員と手分けして送迎車にガソリンを入れたが
それだけで一日が終わってしまった。

 
 
 
 
 
あの東日本大震災の後、私は家族とこんな話をした。

私達はいざという時に全員、生徒や利用者を守って死ぬ

と。

 
私の家族は全員が、生徒や園児や利用者を相手にする仕事だった。
もしも仕事中に再び大地震が起きたら
私達はその場から逃げられない。
家族よりも他人の家族を守る立場にあるのだ。

 
もしも仕事中に大地震が起きたら
私達は仕事を全うしよう。

 
私は家族とそう誓い合った。

 
 
 
あの東日本大震災は私の人生を明らかに変えた。

車の中に常に着替えや充電器等を入れるようにしたし
災害時はガソリンスタンドからガソリンが消えることも学んだ。
普段から余裕をもって給油していたが
更に用心深くなった。

 
地震雷火事親父

 
と言うが、それまでは何故地震が第一位の恐怖か分かっていなかった。
だけど私はあれから地震を恐れるようになった。
日本はいつまたあの規模の地震が来るか分からない。

 
 
当時、夜中の余震は東日本大震災を彷彿させた。
「あ、地震……。」と私が言うと、隣で寝ていたはずの彼氏が何も言わずに私を抱きしめた。
そのぬくもりにホッとして、いつの間にか私は寝てしまった。

職場では利用者を必死に守る私も
プライベートでは彼氏に守られる存在だと感じた。

 
 
 
 
  
東日本大震災の後、あれほど恐いことはもうないと思っていた。
阪神淡路大震災のちに関西が復興したように
時間をかけて東北地方も徐々に復興した。

ただし、津波や発電所の影響で
あれから約10年経った今も、まだ復興は完了していないのが現実だ。

 
その約10年の間、台風や大雨は以前より脅威になり
ここ数年毎年どこかしらの地域が大きな被害を受け
復興する前に再度やられ
日本は全国的にガタガタのような印象を受ける。

 
昔、私はこんなに自然を恐いと思っていなかった。
だけど今は自然が怖くて仕方ない。
地震や台風が怖くて怖くて仕方ない。

自然の前に人間はあまりにちっぽけで
無力だ。
 
 
 
 
 
今の私には守るべき職場はないし
私を守ってくれる彼氏もいない。

ステイホームをしながら家を守るだけだ。

 
まさか今年、東日本大震災とはまた違う恐怖のコロナウィルスに翻弄されるなんて
思いもしなかった。
生きるとは戦いの連続だ。

 
 
私は時折妄想する。

もしも元職場が火事になり、利用者が取り残されているなら
私は火の中でも進むだろう。
何が何でも利用者を守る。
仕事だからとか好きだからとか
そんな理由ではなく
きっとそうなったら
私は動かずにいられないだろう。

私の命で利用者が全員救われるなら
私は命をかける。
退職した今でもその気持ちはブレない。

 
現実的に考えたら
消防士に任せるしかないし
私が目の前で何かあったら利用者はトラウマものだし
そんなことになったら逆に利用者を怖がらせるから
どうせならみんなで救われる道がベストに決まっている。

 
だけど、もしも……だ。
私の命で助かる利用者の命があるならば
私は迷わず差し出すだろう。

私にとって利用者はそれほどの存在なのだ。









 


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