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確かにジュンはいた

私はポケベルを通り抜けた世代だ。
ポケベルの存在は知っているし、持っている友達がいるにはいるが、二人しかいなかった。

 

「ベル鳴らして。」と言われて、教わった通りに行ってみるが、これがまぁ面倒くさいことこの上ない。
電話を使わないとメッセージを送れないなら、そのまま電話をかけた方が楽ちんじゃないか。
そんな経緯もあり、私はその二人に一回ずつメッセージを送っただけだ。
それが私とポケベルの思い出だ。
 
 
 
私が家の電話や公衆電話を使っていた時代に、携帯電話もあることにはあった。

だが、あくまでビジネス用だ。
欲しいという発想は子どもにはない。

携帯電話そのものが割高で使用料金も高く、黒くて無骨で大きなデザインがかわいらしくない。
あくまで通話しかできない。
当時は家に親機だけでなく、子機もあるのが普通だった。
うちに至っては親機が二つあり、子機も二つあった。
携帯電話の必要性はまるでない。
自宅からかける電話が一番手頃で便利だ。

 
携帯電話を大人が使うとは言っても、まだまだ普及率は低かった。
私の母親は持っていたが、周りの大人で持っている人は母親と親戚くらいで
学校の先生や友達のお母さんが携帯電話を使用している姿は見たことがない。

 
 
ところが、私が中学生を卒業する頃には携帯電話は進化を遂げ
メール機能が備わり、見た目もかわいらしいものが発売されだした。

一人一台携帯電話所持時代へ移行する境目に
私は高校生になった。

高校一年生の頃、クラス内で携帯電話を持っていない人は片手で数えられるほどで
ほとんどの人が携帯電話を持っていた。
ピッチの人も数名いた。

高校デビューに合わせて
携帯電話デビュー。

そういった時代だった。
 
 
まだカメラ機能はない時代で、画面はカラーじゃない。
最初は折りたたみ携帯所持者が半数以上だった。
メールの際、絵文字より記号や顔文字の方が主流の時代だった。
他社携帯にメールすると、絵文字は文字化けしてしまう時代だったし、他社携帯だとメールが送れなかったり、割高になるからだ。

まだ赤外線がない時代、当時は教えてもらったメアドは手動で入力していた。
今当たり前に使える機能は、最初はほとんど搭載されていなかった。

 
私の初代携帯電話はショートメールしかできなかった。
一通で全角25文字、半角なら50文字送れる。
Twitterの140文字制限どころではない。
短歌や俳句に毛が生えたような文字数だった。
半角なら50文字送れるといっても、カタカナや英語で全文送ろうものなら
宇宙人かエセ外国人のような印象になってしまう。
基本はマックス25文字と思っていた方がいい。

 
大抵の高校は携帯電話持ち込み禁止だったが、私の高校は携帯電話持ち込みが許されていた。
私立様々である。

「今日カラオケ行く?(^o^)」

「行く行く♪エミも誘っちゃう?」

こんな形で、短文を何回も送り合い、ショートメールは活用された。
グループLINEなんてものもない。
あくまでマンツーマンでいちいちメールだ。
長い手紙は、紙に書いて授業中や休み時間、放課後に渡す。

最初はそういう高校生活だったのだ。

 
  
 
さて、高校生活に慣れ、携帯電話にも慣れてきた頃に、私達は次の段階へと移行した。

メル友探し

である。

  
昔、文通相手やベル友を求めたように
携帯電話普及に伴い、メル友の文化が生まれた。

メル友。
それはメールを送り合う友達だ。
 
 
花の女子高生だ。
やっぱり男子とメールしたい。
共学に進学してもクラス内は男女仲良くなかったし、女子高に進学した友人は、男性との関わりに飢えていた。

共学でも女子高でもどちらが恋愛に有利ということはなかった。
共学は男子がクラス内にいても恋愛に発展するかはまた別で
女子高は女子高ブランドがあり、友達からの紹介ではウケがよかった。

 

まだSNSがない時代、活躍したのは掲示板と呼ばれるサイトだ。
出会い系サイトと呼ばれる、性的な関係を目的とした掲示板もあったし
一見出会い系サイトではないのだが、性的な目的で出会いを探している男性が多い掲示板もあった。

既にメル友がいる友人等に話を聞き、信頼性が高いと思われる掲示板に、私は簡単なプロフィールを載せ、メル友を募った。

  
私の周りでは、関西のブランド力が強かった。

「やっぱり関西人、いいよねー!」 
「メル友になるなら、関西人だよねー!」

という声を至るところで聞いた。
私達が関東人だからだろう。
関西といったら修学旅行で行く場所だ。
食い倒れの大阪、情緒溢れる京都をはじめ
「~や!」「~やん!」「~どす」などの関西弁は、関東にはない独特の雰囲気があり
私達は憧れを抱いた。

ちなみに、私の地元は「~け!」である。
慣れているせいもあるだろうが、いかにもな訛りであるし、関西人や他県の人から、方言を褒められることは特にない。
 
 
 
「関西の男の子」「なるべく年が近い人」
という私の条件をクリアした人が
掲示板に書き込みをして、早々に見つかった。

名前はジュン。
本名は全く違うが、とある理由からジュンというニックネームで、周りからずっとそう呼ばれているらしい。
呼ばれ慣れているから、という本人の希望通り、私もジュンと呼んだ。

 
 
ジュンは私より一歳年上で工業高校に通っており、兵庫県に住んでいた。
 
兵庫県………?

いまいち関西の中では印象が薄い方だったが、私の県も関東内で地味だから、ちょうど似た立ち位置なのかもしれない。
当時は無知だったのでそんなことを思っていた。
兵庫様に謝れ、と言いたい。
私が無知なだけで、我が県より華々しく有名なのだから。

 
「兵庫県と言えば、阪神淡路大震災、大丈夫でしたか?」

と、私のなけなしの知識をフル活用して話しかけた。
兵庫県と言ったら、阪神淡路大震災と神戸牛、夜景しか分からなかった。

 

話によると、ジュンは生まれは兵庫だが、その頃は家族の都合で一旦関東に引っ越していて、また兵庫に戻ったらしい。
だから、兵庫生まれだし兵庫在中だが、阪神淡路大震災で被災はしていないらしい。
兵庫から関東、それからまた兵庫か。
東と西だと、言葉や文化の違いがあるから大変そうだな。
そういった気持ちをジュンに伝えると、長々としたメールの最後が次のように〆られていた。

「関東に引っ越したら標準語になったけど、(兵庫に戻ったら関西弁に)一週間で元通りや~!」

 
これが私の中ではツボで、姉にその話をしたら、姉もツボに入った。
この年の姉妹流行語は「一週間で元通りや~!」になった。
案外、何か変化があっても、人は一週間後には、ある程度環境適応できるようにできているのかもしれない。

 
 
パソコン用の掲示板でメル友を募集した為、ジュンとはしばらくパソコンでメールのやりとりをし、ある程度の信頼関係が築けてから、携帯電話の番号とメアドを交換した。

ジュンは工業高校に通っていて、バイトをしていた。
私は普通科で、バイトは禁止されていた。

東と西の違い。
高校の違い。
生活の違い。
男と女の違い。
 
 
そういった違いや、違いの中からの発見や、共通点を
ショートメール25文字に託して
メールを送り合った。

 
 
ジュンはノリが良く、面白く、優しかった。 
のちに顔写真を交換すると、思いのほかイケメンだったのでビックリした。
イケメンで性格がいいなんて反則だ。


二回だけ、電話もした。
生の関西弁、生のジュンの声に、毎日メールしているのに緊張して、興奮した。
放課後の教室、周りの友達に見守られる中、恥ずかしくてカーテンの中にくるまって話した。

かけ放題がない時代だ。
通話料は一分あたりでもべらぼうに高い。

話した時間は30分にも満たなかったが
大好きなジュンと話せて、楽しかった。

 
 

周りはメル友と、そんなに長くは続かなかった。
ネットでの出会いや交流は、自然消滅になりやすい。
性格が合わなかったり、連絡頻度によって、あっという間に崩れたり、終わってしまう。
リアルな生活でも人間関係は難しいが、生活や関わりから、イヤイヤでも付き合わなければいけないことはある。

メル友は嫌だと思ったら、返事を返さなければいい。
しつこい場合は、拒否設定にしたり、メアドを変えればいいだけだ。

厄介なケースもあるが、お手軽な関係とも言える。

   

だが、私とジュンは長続きしていた。
初めてのメル友で一年以上順調に関係が続いていることは、極めて稀だった。
それは単純にジュンがいい人だったし、相性が良かったからというのもあるだろう。
毎日する些細なメールや雑談は楽しかった。

そのうち、ジュンに彼女ができた。

正直、少しショックだったことは確かである。
もしも近くに住んでいて、もしも会えたなら、私は恋に落ちていたかもしれないほど
ジュンのことが好きだった。
だけど、現実問題としては、ジュンが関西にいたから出会えたのだ。
関西にいなかったら、この関係はなかった。
そして関西にいる以上、私はジュンに会えない。

私達はメル友だ。
それ以上でもそれ以下でもない。

 
私にも、やがて好きな人ができた。
ジュンではない人だ。

   
 
ジュンに彼女ができてからも、私に好きな人ができてからも、私達は毎日メールしていた。
そしてその頃、私は必ずする日課もあった。

モーニングコールである。

私はいつも電車の中で、ジュンに電話をかけた。
7:30にコール数は5回。
それはジュンに頼まれたことだった。 

「モーニングコールは彼女にしてもらった方がいいんじゃない?」

とも伝えたが
彼女は私の存在を知っているし、朝が弱いらしい。
だから気にしないでいいから、モーニングコールをしてほしい。
バイトで疲れてたまに寝坊をしてしまいそうになる、とのことだった。

 
電話で話したことはわずか二回だけだったが
私は毎日決まった時間にモーニングコールをかけ続けた。
彼氏でも彼女でもない男女が
西と東で毎朝繫がれる。
着信履歴に残る、私の名前。ジュンの名前。
 
 
その頃には携帯電話は更に進化し、iモードができ、メールは最大250文字(半角なら500文字)ができるようになり、カラーになった。
ジュンとのメールはパソコンと携帯電話で行っていたが、この携帯電話の進化に伴い、メールは携帯電話のみで行うようになった。

 
 
私が高校二年生の冬の頃だ。
ジュンはもうすぐ高校を卒業しようという時に、私にあることを伝えてきた。

「彼女と結婚することになったんや。」

ジュンの話によると
高校卒業後に同棲をして様子を見てから結婚したかったが、親の許可が出ず、同棲するなら入籍が条件だと言われたらしい。

「彼女と結婚が決まったんだね!おめでとう(*^^*)ジュンは優しいから、きっといい家庭が築けるよ。奥さんは幸せ者だね。」

と伝えた。

  
高校三年生の冬は自由登校だ。
モーニングコールの習慣は終わりを告げ、私はその報告を機に、ジュンとメールすることは辞めた。

彼女公認とは言え、モーニングコールさえ大丈夫か不安だった。
だけどさすがに結婚するならば、メル友というこの関係は解消だ。
それはジュンも分かっていたのだろう。

「ともかも優しくて、めっちゃいい子や。ともかの幸せをいつも願ってるで。」

そんなメールが届いた。

 
さよならもまたねも言わず、私達はそのままそっと指を離した。

約二年間のメル友関係は、こうした穏やかな幕引きだった。 
 
 
 
 
それから数年後、私は彼氏と兵庫県に旅行に行った。
人生で初めての兵庫県。
異人館や夜景を見ながらも、ふと蘇るのはジュンとの思い出だ。

この街のどこかにジュンはいるのだろう。
元気にやっているのだろうか。

そう思ったが、もちろん偶然会うことはない。
もしかしてすれ違ったかもしれないが、気づくことはなかった。
もちろん私から連絡することもない。

 
ジュンが楽しい思い出をくれただけでいいのだ。

私の初めてのメル友。
面白くて優しかったメル友。

私はただ、あなたがどこかで元気で幸せならば、それでいい。


 
 
それから更に数年が経ち、私は友人に誘われて軽い気持ちでFacebookを始めた。
「あなたの友達かも?」で表示された一覧の中には

ジュンの名前もあった。

元気にやってるんだね。よかった。
私はジュンの名前を見つけただけで、ホッとした。

 
私からは友達申請はしない。
メッセージも送らない。
それでいいのだ。それでいい。

お互いに、今の生活がある。

そして会ったことはないけれど
今に至る道の途中に、確かにジュンはいた。

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