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能面のような顔をして

私は学校が好きだった。

学校に行けば友達に会えるし
担任の先生にも比較的恵まれていたと思う。
勉強は好きだったし
何かを学んで吸収することも好きだった。
みんなと同じ制服を着ることも
私服で通学することも
どちらも同じように好きだった。

 
人間関係上手くいかないことも多少はあったけど
あくまで多少で
たくさんの人が集まる場所ではやむを得ない。

そう思っていた。

 
 
 
 
 
大学を卒業した後、私は福祉の専門学校に入学した。

その進路を選択したのは、私の大学の友達1/3が同じような道を辿ったからだ。

 
大学院を目指していてストレートに院に入学できた人はほんの一握りで
院浪人になったり
私と同じように、福祉系の養成校や専門学校に入る人がいた。

私ももともと大学院希望だったので、二年間の専門学校に入ることは
親も賛成したし
周りの友達もしていることで
至って普通だった。

 
だが、それはあくまで私の周りで普通だっただけだ。
大学の友達以外でそういった道を辿った人が誰もいない。
大学卒業後に社会人をやった後、新たな夢ができて専門学校に入り直すパターンの方が多い。

  
 
 
私の大学は、臨床心理士を目指していた人が多い。
 
臨床心理士は大学院を卒業しないと資格取得ができない上、国家資格ではない。
そして、臨床心理士の資格があっても、心理学の仕事は非常に少なく、正職員で働けるのはほんの一握りだ。

 
大学院の試験は、英語と心理学専門用語の問題だ。

心理学専門用語問題は、大学で講義を受けていればそんなに難しくはないが
点数の比率は英語の論文を読み解く方が圧倒的に高く
私は英語が大の苦手で、院試対策をしても話にならなかった。

 
また、私は大学時代にカウンセリングを受けていた。 
学生は無料でカウンセリングを受けられたのだ。
その際、カウンセラーや精神科医に会ったりしたが
プロがこの程度かと落胆したりもした。

 
 
大学四年間で、私は心理学の世界に触れて
様々な面で現実を知り
臨床心理士を断念した。

単純だった。
福祉の国家資格なら取得しやすいし、食いっぱぐれがないし、正職員採用が多い。
そして、心理学を学んだことが仕事で活かせる。

 
福祉の道に進んだ人は、私も含めて周りも似たような心境だった。
大学を卒業すると取得できる認定心理士の資格は、福祉業界での就職に有利なのだ。

 
 
 
そんなこんなで私は、大学を卒業して、今度は専門学校に入学した。
クラス人数は僅か18名。
福祉の学校は乱立し、定員割れも珍しくなかった。

 
男女比は半々。
高卒と高卒以外の方も半々。
私より年上も何人かいた。

 
最初にクラスメートと会った時、私はやっていける自信があった。
初日に連絡先を交換し、一緒に行動する人も早速できた(そのまま、卒業までその人と行動を共にすることになる)。
担任も朗らかそうに見えた。

 
最初は、今までと同じ、普通の学生生活が送れると思っていた。

 


 
高齢者ではなく、障がい者に携わる仕事に就きたかった私は、障がい福祉論の授業を楽しみにしていた。
大学でも同じ講義はあったし、それがこの道を選ぶきっかけにもなったくらいだ。

優しそうな男性の先生だった。
初回の授業では、先生に自己紹介をした。

 
自己紹介の後、休み時間に先生が私の方へ歩いてきた。
どうやら先生は私の大学に縁がある方で、私の大学をよく知っていた。
そして、私がその大学卒だから話しかけてくれた。

 
「君みたいな優秀な子が、どうしてこんなところに来ちゃったんだい?」

 
その先生は笑顔だったけど、目は寂しそうだった。
私はどういった意味か分からず、一瞬耳を疑った。

 
こんなところ…………?

 
 
穏やかな先生には似合わない台詞だったが、それから一ヶ月もしないうちに、その言葉の意味を知る。

 
 
 

 
入学して間もなく、クラスの一人の子がターゲットになった。 
連絡がしつこかったり、独占的だったりと、人との距離感が掴めない子で、早くもクラスで浮いていた。
聞こえるように悪口を言われたり、露骨に無視もされていた。

クラスに20人くらいしか人がいない上、福祉を志す人が、そんなさもしいことをすることが悲しかった。

 
 
入学して一ヶ月後に担任の先生と二者面談があった際、私は先生にクラスについて聞かれた。
だから私はその件を伝えた。
誰が無視や悪口を言っているかも伝えた。

先生「クラスでそんなことあるわけないだろう。そういう風にしか捉えられない真咲に、問題があると先生は思うよ。」

 
…これが担任の言うことなんだ。

 
 
先生「真咲は将来、現場の職員になりたいの?先生は向いてないと思うよ。事務職がいいだろう。」

 
私は、入学して僅か一ヶ月で、担任から夢さえも否定された。

 
心の扉を固く閉める音が聞こえた。
こんな担任は、生まれて初めてだった。

 
 
 
私の専門学校は、専門学校卒業生が教壇に立てる。A先生は、学校卒業だった。

A「俺はさ、大卒大嫌いなんだよ。お高くとまってさ、現場でも使えないのは全員大卒だよ。」

 
入学して早々、授業中にそれを言われた時、私はビクッとした。
私は担任以外からも否定された気がした。
A先生の授業は二年間ずっとある授業で、私はこの台詞を聞いてから、A先生に対しても心を閉じた。

 
私は自分の大学が大好きだし、誇り高くもある。
だけど、大卒であることは、この学校では武器にならないのだと知った。

 
 
クラス内の人間関係は狭く醜く、悪口だらけで
私はひどく息が詰まった。
馴染めなかった。
それなのに、その専門学校はやたらと行事が多く、クラス単位で行動しなきゃいけなかった。
表面的には、上手くやらなきゃいけない。

 
それでも、朝登校したら私の机にゴミが置かれていたり、椅子が隠されていた時には気が滅入った。
スポーツ大会の時、私含めクラスの三人を抜かして、手に×印をみんなが書いた時も疲れた。
手に×印は、某アニメや漫画の仲間の証だ。

「うちのクラスは最高!」とリーダー格が叫ぶ。
「仲間っていいよね!」と、みんながお揃いのマークの手を掲げて写真を撮る。

 
この専門学校は、排除の世界だと思った。
目をつぶって、弱いものイジメをして、自分達が成り上がる。
先生も生徒も、腐ってる。

まるで小学生だと思った。
18歳以上のくせに、なんてレベルが低いのだろう。

 
テストのカンニングはするし
カンニングをしても私より点数は低いし
授業中の態度も悪いし
人を見下して悪口を言うか、笑えない笑い話にするか、そんなんばかりだ。

 
私は私で彼等を心底見下していた。

 
 
私はB先生から、能面と笑われた。
「今日も真咲さんは暗いな。能面みたいな顔してる(笑)」と言われた。
B先生も、学校で力がある立場だった。
私は曖昧に笑ったり、会釈をして極力関わらないようにしていた。

 
学校が辛かった。
授業自体は楽しいけれど、休み時間や行事がしんどかった。
一番仲の良い子は他クラスだったし、その子には私以外にもたくさん友達がいた。
優しい先輩もいたが、所詮他クラスだ。
そんなにしょっちゅう関わることはできない。

「行事に参加しないと単位はやらない。」と言われている以上、クラスの人に無視されようが悪態吐かれようが
低姿勢でいるしかなかった。

 
私は毎日泣いていた。
学生生活がこんなに辛いのは初めてだった。
その時、私は遠距離の初彼がいたので、彼に愚痴り、泣いてばかりいた。
彼は彼で春から新生活が始まったばかりだ。
彼は彼で余裕がなかった。
そんな病んでいる彼女の存在は重く、しんどかったろう。

別れを告げられたのは、初めての福祉施設実習を三日後に控えた時だった。

  
実習にはたくさん行ったが、一番辛かったのはその福祉施設実習だった。
そこは評判があまりよくない施設で、しかも私は大して仲良くないクラスメートと共に実習だった。
失恋してから上手く眠れず、食べられない日々の中の、実習という洗礼はあまりに酷だった。

私は実習中に3kg痩せた。

 
 
 
私の心身は疲れ切っていた。
福祉施設のボランティアを義務化している学校の割に、私がやりたいボランティアにコネがない学校だった。

何のために、親に高い学費を払ってもらっているのか。
何のために、内定を蹴ったのか。
大切な彼氏まで失って、一体私は何をやっているのか。

 
私は自分の道がこれでいいのか、分からなくなった。

 
 
 
私が学校で一番安らぐのは障がい福祉論の授業と、先生(以下、S先生)と関わる時間だった。

S先生の授業は楽しかった。
質の高い授業で、使っていたプリントや課題は素晴らしかった。
テストも難易度が高く、やり応えがあった。

 
私は先生と、授業がある日は休み時間中にたくさん話した。
先生は非常勤だった。毎日は学校に来ていなかった。
先生の優しさや笑顔といったまともさが、私を唯一能面から人間に戻してくれる気がした。

生徒や先生全てが敵ではなかったし
学校の中には、いい人もそれなりにいた。
それでも学校の仕組みの都合
ほとんどをクラスで過ごすしかないし
担任とクラスメイトと上手くやれなかったら立場がないし
居場所もないのだ。

そんな中、私の中で、S先生は別格だった。

 
だからあの日、私は自分でも思いがけない行動に出てしまう。

 
 
 
「先生………相談に乗ってほしいことがあります。電話していいですか?」

S先生は担任ではないし、学校では監視下にあたる。
私は先生の電話番号を聞き、先生に電話した。 
今まで、こんな風に学校外で先生に電話するなんてなかった。

 
「先生…私、あの…………あの…」

 
先生の声が受話器から聞こえた瞬間、私は火がついたようにワァーと泣き出した。

 
 
この学校にいると、やりたいことができない。
生徒も先生も醜い。
毎日が辛い。学校辞めたい。
でも、逃げ出すようで嫌だ。
高い学費を払ってもらっているのに、親に申し訳ない。
高い学費を払ってもらっているからには、資格をとって、きちんとしたところに就職したい。

高い学費をはらってもらってるし、こんなこと、親には話せない。 
社会人として頑張ってる友達にも、こんなこと、話せない。

 
そんなことをワァワァ泣きながら話した。
毎日毎日、何もしなくても一人になると涙が出たが、こんなに激しく泣いたのは
専門学校に入学してから初めてだった。

 
 
 
先生は、うんうん、と話を聞いてくれた。
否定をしなかった。
私を受け入れて、真面目に話を聞いてくれた。
そして私に、ある人の連絡先を教えてくれた。
 
「この人は真咲さんの県の精神障害福祉の分野で活躍している方だ。彼に君を紹介しよう。きっと力になってくれる。」

 
S先生は、他県に住んでいた。
そこで地元就職にこだわっていた私に、地元就職に強い知り合いを紹介してくれたのだ。

 
「ありがとうございます。ありがとうございます。」
 
 
私は泣きながらお礼を言った。
学校がボランティアにコネがないなら、私は独自で動く。
私は、既に就職した友達や頑張っている元彼に負けたくなかった。
就職が遅れた分、彼等の背中を目指してひたすらに追いかけていた。 

 
専門学校一年生の秋のことだった。 

 
 
 
私はS先生に紹介された、精神障がい福祉分野で働く方に会い、相談した。

大学で心理学を専攻していたこと。
障がい者に関わる仕事をしたいこと。
学校では、障がい児や知的障がい者、身体障がい者と関わる機会はあるが
精神障がいの方と関わる機会はないこと。
精神障がいの方の施設を見学したり、ボランティアをしてみた上で
今後の進路を考えたいこと。

 
「正直ねぇ……あまり求人がないんだよ。この前も大学四年生で精神保健福祉士持っていた方が、“仕事ありませんか?”って言ってきたくらい。」 

 
……やはりそうか、と思った。

私は大学卒業後、作業療法士か精神保健福祉士を本当は目指したかった。
だが、それらは国家資格だが、求人数が非常に少ない。
私は家の跡を継ぐ者として、引っ越しはできない。
それを踏まえると、色々な場所で働ける資格の方がいい、と私は社会福祉コースに入学していた。

「一度、精神障がいの方が働いている施設に見学かボランティアをお願いできないでしょうか?」 

 
私は頼み込んだ。
精神障がい者と関わるという、心理学と福祉の境界線にあるような仕事を、私は生で見てみたかった。

 
S先生の口利きのお陰だろう…
私は精神障がい者施設二箇所を見学させてもらい、その内一箇所で、毎月ボランティアができることになった。
学校の授業だけでなく、そこでのボランティア活動や、他の施設でのボランティア活動は
私にいい刺激となった。
福祉の仕事といっても、色々ある。
そして施設によってカラーは異なった。

私は段々、自分が目指す方向が分かってきた。

 
 
あの日、S先生と腹を割って話し、ボランティア活動を始めたことで
私は退学を踏みとどまった。
学校を卒業しなければ、資格は取得できない。
踏ん張ってやる、と思った。
学校を利用してやる、とも思った。

親が高い学費を払ってくれている分
私はその分何かを得なければ!と強く思った。

 
 
 
そんな中、私は二年生になった。

授業の関係で、精神障がい者の施設のボランティア活動は打ち切りになった。

二年生といったら、最長の三週間実習がある。
一年生の時は高齢者施設の実習のみだったが、二年生はついに念願の障害者施設の実習が入る。

 
そこで私は運命の出会いを果たす。

後に、内定をもらうことになる施設は、その実習先だった。

 
 
 
内定がもらえた私は、後は卒業を残すのみとなった。

真面目に授業を受け、ボランティアに行き、バイトをし、残りの生活を過ごした。
相変わらず私はS先生とよくしゃべった。
内定をとても喜んでくれたのも先生だった。
恋愛の話もした。
私は恩師である先生を、結婚式に呼ぶつもりだった。

 
「それで君は、本当によかったのかい?」

先生は笑顔だけど、いつも私の本心を見抜くような目をしていた。
先生は気づいていたのだ。
私が元彼を吹っ切っていないが、次へ行くために告白を受け入れ、次の人と付き合い出したことを。

 
私の悪い癖だった。

大好きな何かを失うと、満たされない何かを埋めるために、私はスケジュールを詰め込みがちだった。
忘れられないくせに
忘れられないからこそ
他の予定をガンガンつめこみ
他の人との交流に積極的になった。

「……これでいいんです。」

 
私はそう、言うしかできなかった。
さすがS先生だな、と思った。
周りは「医者の彼氏いいね。」とか「愛されてて幸せだね。」とか「元彼は忘れないとね。」とか
そういったことを私に言ってきた。
想定の範囲内の質問や会話は、私にとって楽だった。

 
「それで君は、本当によかったのかい?」

あの時の先生の顔を今でも思い出す。
そのたびに、泣きそうになった。

 

 
 
卒業式を迎えた。

卒業式の後は卒業パーティーとやらに参加し、私はクラスみんなと集合写真を撮った。
茶番はこれでおしまいだと思った。

 
 
私は家に帰ってドレスから私服に着替えた後
専門学校のクラスメートの電話帳を全消しし
着信履歴ややりとりしたメールも
その場で全て消去した。
もらった集合写真をビリビリに手で破いた。

家に帰ってから行われたこれこそが
私の卒業式だった。 
ようやく、解放されたのだ。
 
 
 
 
私はあそこで、学費分の福祉の資格を手に入れた。
成績も二年間全教科がSSかS。
それを就職先に出せば、学校の役目は終わりだ。

 
社会人一年目は慣れないことばかりで大変だったけど 
それでも私は仕事が楽しかったし、充実していた。
仕事を始めてから私はメキメキと明るくなり、笑顔が増えた。
天職だったのだ。

 
学生よりも社会人が大変というけれど
私からしたら、人生の中で一番辛かったのは
紛れもなく、専門学校時代だった。

 
 
 
「S先生、お元気ですか?」

専門学校を卒業した後、私はS先生に毎年、暑中見舞いと年賀状を出している。

今まで小中高と、担任の先生に年賀状は欠かさず出していたが
私は学校を卒業すると、ピタッと出さなくなる。
それが卒業だと思っているからだ。

 
だからS先生に年に二回、卒業してからも手紙を書くのは
私にとっては非常に珍しいことというか
初めてのことである。 

 
 
 
S先生がいたから、私はあの学生生活を耐えられた。
ありのままの私を見て、思って、心配してくれて、微笑んでくれたS先生が二年間そばにいたから……。

 
もうそろそろ、暑中見舞いの季節となる。
S先生は、コロナ禍や大雨の被害は大丈夫だろうか。

まずは先生に、仕事を辞めた報告をしないと、な。

 
 





 

 
 
 

  

 

 
 

 




 




  

 

 

 

 

 

 

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