登山やそれに近いこと
私の家の後ろ…敷地内には竹林と裏山があり
私が小さい頃から山は当たり前にあった。
私にとって、山と竹林と庭に境はない。
よく外で遊ぶ子どもだった。
庭にはブランコやすべり台、鉄棒があったので
私は家族や友達とも遊んだし
一人でもよく遊んだ。
山にはタケノコが生えたので
春になるとタケノコを見つけては家族に伝え
みんなでタケノコを掘った。
山には赤や紫の木の実がなるし
おままごとでケーキを作る時にもってこいだ。
アケビやカラスウリも取れたので
私はそれらをよくもぎった。
山とはいっても、我が家の敷地内の山はたかがしれていて
近隣の住民と山を分け合うような形で管理していた。
山全てが我が家のものではない。
昔はもっと大きかったらしいが
戦争中に防空壕で使われたり、地盤が緩んだりして
山は少しずつ形を変えた。
我が家の山は高さが5~10m位しかない。
山というより丘なのだろうか。
竹林の一画が山みたいな形、と言えばいいのだろうか。
なかなかに形容しがたい。
でも、山の神様を祀るほこらのようなものもあるし
丘や竹林と表現すると違和感がある。
世間一般の山とはまた違うが、とにかく我が家には
山と呼ばれるものがあった。
イノシシやタヌキ等はいないが、ヘビならたびたび見掛けた。
カブトムシ等様々な虫がいるし、アリジゴクがたくさんいるのが素晴らしい。
私はアリジゴクが好きだったのだ。
いや、むしろ裏山にアリジゴクがいたから
アリジゴクが好きになったのもあるだろう。
地形の問題で、山は登り口が三個所あった。
メインとサブと裏手側だ。
メインが一番登りやすく、続いて裏手、一番難易度が高いのはサブだ。
私はメインの傾斜を登り、木につかまった。
木に捕まりながら、特定の場所に足をかけると
安定感があり、登りやすかった。
小さい頃からの遊び場だ。
手を使わなくても登れるし、利き手じゃない方を使って登ってみたりと
難易度を私と姉で設定して、登って遊んだりもした。
メインのルートは途中に立派な木があった。
サブあたりには更に立派な別の種類の木があるが
いまだに木の名前は知らない。
メインルートの中腹はなだらかで、休憩スペースのようなところがあった。
立派な木の横には木の実がなる木があったり
香りの良い葉や小洒落た葉がとれた。
やはり、おままごとでケーキ作りをする材料にちょうどいい。
私と姉は山で遊びつつ、おままごとで作るケーキ作りの材料を取りに行った。
庭の土と山の土(場所によって質感がまるで違う)、さらに、昔使っていたかまどから灰をくすね
私と姉はそこに水を入れて混ぜ合わせた。
この配合やバランスにより、泥遊びの質が変わった。
泥や土で作ったケーキを、木の実や花で飾りつけることが
私や姉は好きだった。
粘土遊びも好きだったから
それに近いものもあるかもしれない。
小さい頃は毎年、母の実家に泊まりで遊びに行った。
うちも田舎だが、母の実家は更に更に田舎である。
山、山、山……に囲まれた中に家がポツンとある。
道路は車が一台、一時間に通るくらいのレベルだろうか。
だから道にチョークで絵を描いたりして遊んだりもした。
母の実家は敷地が広い。
公園並というか、そこらの公園よりよっぽど広い。
母の実家に行った時
近くの川でサワガニや魚を捕ったり
山に登って山菜やキノコをとったりして遊んだ。
山は我が家の比ではないくらい
本格的な山であり、場合によってはタヌキやイノシシ等
野生動物が出現する。
私は見たことがない。
こちらでは、おままごとでケーキを作らず
土器作りを行った。
こちらはそれに適した土が色々とれたのである。
自分たちで焼き場を作って焼いてみたりもした。
さすがに専用の土でもかまどでもないし
火力も足りなかったから
焼いている内に形は崩れてしまったが。
山を登る理由として、「そこに山があるからだ。」という有名な言葉があるが
確かに私は小さい頃から敷地内に山があり
母の実家が山の中にあったので
山は親しみ慣れた場所ではあった。
だが、じゃあ登山が好きかといったら
そんなことはない。
おそらく、山は珍しくもなんともないし
家やその付近や母の実家でやたら見たから
あえて挑戦することもなかった。
小学校四年生の遠足は、うちや母の実家より標高の高い、立派な山を登ったが
景色がすごいとか、空気がおいしいとか、山登り最高とか
そんな記憶は特にない。
私の記憶にあるのは、当時好きだった男の子を写ルンですで隠し撮りして、それを大切な宝物として何年間も大事にしていたことだ。
私は小学校四年生~中学校二年生まで、ある人に片思いをしていた。
私の思いが強すぎて、昔は仲が良かったが
途中から冷たくされ、避けられるようになった。
距離感がヘタクソだった。
今にして思うと、完全に私はストーカーで
彼の反応は至極真っ当である。
その一年後の小学校五年生の頃、何らかの集まりで登山イベントがあり
私は母親と二人で申し込み、山に登った。
母親は息が上がり、途中で具合が悪くなり
「ともかはみんなと先に行ってなさい。お母さんは大丈夫だから。」
と言われ
私は他の登山チームの人と休憩ポイントへ先に進み、母を待った。
私の母親は明るく元気でお調子者で
こんなに具合が悪い母親は初めて見た。
本当は母親を置いて進みたくなかったが
母や見知らぬ大人から先に進むように言われて
私は仕方なく先に進んだ。
休憩ポイントでお弁当や飲み物を飲むように言われても
母親が心配でそれどころではない。
待てども待てども来ない。
心配でたまらない。
周りの大人も、「お母さん、遅いねぇ。」と言う。
もはや私は半泣きだ。
数十分経って母親がやってきた時に
私は心底ホッとして母親に駆け寄った。
「心配かけてごめんね。大丈夫だから。」
と、母親が笑っても
私はもはや登山を楽しむレベルではなくなった。
だから、その山がどこだったか、どんな景色だったかは覚えておらず
母親を置き去りにした景色と母親の具合の悪い顔、母親と再会した時の光景だけが
私の心に深く刻まれた。
私はそのことがきっかけとなり、登山に消極的になった。
大好きな母親が具合が悪くなる場所に、わざわざ行きたいとは思わなくなった。
楽しい思い出作りをする予定が、私はすっかり山登りに消極的になり
母親は「あれは悪いことしちゃったなぁ。」といまだに話す。
私は知らなかったが、もともと母親は体質的にあまり登山が得意ではなかったらしい。
平地では元気に動き回るし、1週間フルで働いて畑作業までやって
基本的に寝込まない人なのに
「あの日は登山だったから具合が悪くなった。」とこぼしていた。
おそらく娘に登山の思い出作りをしたかったのだろうが(確か母親と参加という、登山イベントだった)
早く言ってくれ、おかん。
母親はその登山以外ではピンピンして本当に毎日明るく元気だった。
だから逆に登山の思い出は強烈だった。
高校生になり、登山部に入った友達がいたが
私は登山部に入ろうという気はまるで起きなかった。
そもそも私は、トイレが近い方で
トイレがあまりない場所に行くのは苦手だ。
不衛生なトイレも好きではない。
私は体力がないし、体調不良になりやすいので(皆勤賞ではあるが)
山登りに自信がなかった。
逃げ場がない場所も苦手だった。
山は遭難がよぎる。
山は獣がいるし、天候も変わりやすいし
臨機応変力や山への知識が必要となる。
山を登った先に御来光があろうが、素晴らしい景色があろうが
私には山登りはデメリットだらけだし、悪い記憶しかなかった。
だから大学一年生の頃、運動部全員でランダムでチームを作り
スポーツ大会&合宿&それに伴う集まりや飲み会があった時
私は退部を後押しされた。
大学に入り、女子サッカー部に入ったが
【未経験歓迎】の割に、私はずば抜けて体力がなく、技術もなかった。
そのくせ、レギュラー化はなく、大会は全員参加させてくれた。
ありがたいが、ありがたくない。
私が試合に出ると、足を引っ張ってばかりだったし
それを責められないことがまた辛かった。
サッカー部の練習はキツく、バイトもできず
疲れもとれず
チームメイトにも追いつけない時
一番仲が良かった友達が辞めて
更に一ヶ月後に、合宿が待っていた。
チームごとに富士山に登る合宿である。
色々な運動部で作るチームにより
他学部や他の部活の人と知り合った。
だが、私は憂鬱だった。
チーム対抗戦で泊まり込みだ。
サッカー部で足を引っ張る私が、このチームで活躍できるとは思えなかった。
運動部は全員参加がルールだ。
だから私は、合宿前に、部活を辞めた。
周りからは止められたし
だったらマネージャーをやればいいとも言われたが
私は首を振った。
結局は
女子サッカー部の人達とも、合宿チームの人達とも
私はそりが合わなかった。
みんないい人達だったけど
私の居場所はここじゃないと思った。
バイトもやりたかった。
富士山に登る自信もなかった。
合宿は、大学内で一番カップルができるイベントらしいし
私が退部してから女子サッカー部で彼氏もちも増えたらしいが
私はそれでも未練はなかった。
退部して三年後、初めての彼氏はきちんとできたのだから。
学校を卒業して社会人になり、私は障害者福祉施設で働き出した。
仕事の関係で自然の中、散歩をすることが増え
私は散歩の魅力に気づいた。
仕事で毎日100人位の人と毎日関わる反動で
私は休みの日に人気のない場所に行きたくなった。
マイナーな自然がいっぱいの場所や滝等を同僚に教わり
一人、もしくは親友か恋人と
私はそういった静かなマイナスイオンの出る場所に出掛けた。
親友も恋人もそういった場所での散歩が好きだった。
そうして私は段々と、屋久島や尾瀬への憧れを深める。
小学校時代に国語で習った屋久島だ。
音楽の時間に習った尾瀬だ。
神々しい屋久島を歩きたい。
尾瀬で「遥かな尾瀬 遠い空」を歌いたい。
だが、屋久島は遠い。
かなり遠い。更に、トイレがない。
既に行ったことのある父からリアルな話を聞き
うーん…と唸る。
私の仕事は盆と正月以外はなかなか連休はとれないし
盆と正月は本家だから、親戚への接待がある。
トイレ心配性としては
トイレがあまりないのは辛い。
だが、尾瀬ならば屋久島よりは近い。
尾瀬についてHPや本で知るたびに行きたくなった私は
家族に提案し、行くことになった。
父も尾瀬に乗り気だったので、母を誘ったのだ。
ちなみに、両親共に既に尾瀬は行ったことがあったらしい。
尾瀬は季節によって変わるし、ルートもたくさんあるが
私は実際に行ってみて、イメージが変わった。
よく写真で紹介されている尾瀬の景色を見るまでに
あまり足場がよくない場所や山道をかなり歩かなければいけなかった。
ちょうどその日はあまり天候がよくなく
足元は濡れていたし、歩いている間も小雨が降ったり止んだりした。
天気予報は土砂降りだったので、これくらいで済んだのは
晴れ男の父親のお陰だろう。
実際、バスで長距離移動中は雨がひどかった。
思ったより、花は咲いておらず
景観がめちゃくちゃいいわけではなかった。
手前までしか歩かなかったり
その時の季節やタイミングにもあったのだろうが
小学生の時に遠足で行った戦場ヶ原の方が
私は好印象だった。
私の家からでは、尾瀬よりも戦場ヶ原の方が近いし
戦場ヶ原は平地だし、トイレがあり、草花も豊かだ。
せっかくはるばる憧れの尾瀬に行ったのに、私はかなりガッカリした。
まぁだが、これも行ったからこそ分かった景色だし
尾瀬に行ったという経験が大切なのだ。
消化不良のようになった私は
後日同僚と、戦場ヶ原や華厳の滝等に行った。
わざわざ遠くに行かなくても、近場にも素晴らしいものがあると知った瞬間である。
戦場ヶ原も華厳の滝も行くのは10年以上ぶりだった上、天気にも恵まれ
めちゃくちゃ楽しい思い出となった。
その一年後、仕事中に保護者と尾瀬の話になった。
その保護者の方は登山が趣味だったので
「尾瀬もいいけど、登山も人生観変わるわよ。」と私にススメてきた。
登山かぁ………。
どうしても、登山は母親の思い出がつきまとう。
だが、あれから心境の変化が私にあり、「日本人に生まれたのだし、人生に一度くらいは富士山に登りたい。」という夢を抱くようになった。
周りに富士山デビュー者がたくさんいたからだ。
だが、富士は日本一の山だ。
舐めてはいけない。
いくらうちの山や母の実家の山を幾度となく登っていようと
あれは山であって、山ではない。
初心者レベルだ。
まともな登山は小学生の遠足レベルで止まっていた私は
富士山にチャレンジするのは無謀過ぎるように思えた。
「それならともかさん、高尾山よ。あそこは初心者向きでいいわよ。」
保護者がニコッと笑った。
高尾山かぁ………名前は聞いたことがあるが、詳しくは知らないなぁ………。
私はその日、家に帰ってその話を家族にした。
すると、父親が食いついた。
父親も、もともと興味があったらしい。
「お母さんも行こうよ。」
父親が誘い、家族三人で行くことになった。
まぁ初心者レベルの山と聞いていたし、ロープウェイもあるらしいし
ここで母親が具合が悪くならなければ
私はあの苦い思い出を乗り越えられるかもしれない。
そう思った。
そんなこんなで尾瀬に行った翌年に、高尾山に家族三人で行った。
どちらもバスツアーであった。
秋である。
出発時は意気揚々としていたが、やがて渋滞にハマった。
その日は天気が良く、各地からたくさんの人が高尾山を目指したらしい。
「渋滞のため、トイレ休憩はしないで進みます。」
バスガイドさんの言葉に、ホワッツ状態だ。
既にスケジュールはおしていた=トイレに行けないでいたのに、なんてこった。
車内はクーラーがガンガンだった。
念の為、膝掛けを多めに用意し、水分を控えていて良かった。
駐車場にはトイレがあったが、他のバスのお客さんが既に長蛇の列であり
トイレはなかなか行けなかった。
漏らさなくて、よかった。
高尾山の入口には、人しかいなかった。
笑えてきた。
山ではなく、人を見に来たようなものだ。
高尾山もルートはいくつかあるが、初心者向きのルートを行くことにした。
人の後ろをただただついていく。
立ち止まってはいけない。
ただただ人波に合わせて進むだけだ。
さすが東京の山だ。
満員電車のような密度が、ただひたすらに道にはあった。
だが、尾瀬よりは歩きやすい。
人がたくさんいる分、早くは進めない。
かえって体力的に安心だと余裕をかまえていた私と父の横で
母親がくたばっていた。
「お母さん!?お母さん!?」
悪夢、再びである。
母親は前日に仕事の飲み会があった。
一次会で帰ってきたが、今日の出発は早い。
バスで寝ていたとはいえ、開始早々に母親は顔色が悪くなった。
人波に酔ったり、逆に激混みにより、自分のペースで歩けないのがまずかったらしい。
高尾山は序盤がジグザグに斜めに上に登り、キツいのだ。
途中で休憩をたくさん挟み、家族三人で高尾山頂上を目指した。
私はやはり母親のことばかり気にしていた。
頼りの綱のロープウェイは二時間待ちだかで
ディズニーランドのアトラクション並だった。
とてもじゃないが使えなかった。
集合時間に間に合わないのだ。
後に聞いた話だが、紅葉シーズンで
この日は異常なまでの混み具合だったらしい。
トイレも場所はすぐに分かった。
女子トイレは長蛇の列だったから悪目立ちしていた。
私達は進むしかなく、途中でお団子を食べたり、水分補給をしつつ
ゆっくり頂上を目指した。
序盤さえクリアしたら人はまばらになるし
傾斜はマシになるし
自分のペースで進める。
母親も平地なら強い。
お団子で糖分補給したこともあり、母親はやがて回復した。
なんとか頂上に到着したが、そこは人だらけで、景観も何も人がたくさんいるという印象しかなかった。
紅葉にはまだ早すぎたらしく
登り口と頂上、道中に少々
赤くなった葉があっただけだった。
せっかちな父は母親のペースに付き合いきれず
また人混みに苛々し
一人でさっさと下山した。
行きと違う難関ルートで下山したらしい。
私は母親と共に、また来た道を戻った。
下りはまだ気持ちが楽である。
私はもう大人だ。
あの頃みたいに母を決して置いていかない。
集合時間にはまだゆとりがあったし
私は母にペースを合わせ、ゆっくりと下山した。
のちに現像した写真では
母親の顔色はすこぶる悪かった。
下山した先でお店に入るが、そこも長蛇の列であった。
飲食店も土産物屋もいちいち混んでいて、げんなりした。
山や自然を愛でたかったのに
私達家族は無言になった。
集合場所にそろそろ向かおうか………という時に
けたたましいサイレンが鳴った。
「え?何?」
パトカーや救急車、消防車が何台も駆け上っていく。
私達が今降りてきた道を逆走するように
人を避けながらどんどん駆け上っていく。
私達家族も周りの人も呆気にとられたが
何かが起きたらしい。
何が起きたか分からないまま
バス車内ではパトカー等の話に持ちきりになったまま
バスはサッサと出発した。
帰りの渋滞に引っ掛からないように早くこの付近を抜けなきゃいけない。
帰宅後に調べたら、あの日高尾山でやはり何かがあったらしいが
私は特に記憶が残っていない。
確か全焼や人が亡くなるレベルではなかったのだと思うが
帰り際に見たパトカーや消防車や救急車がインパクトが強すぎて
事件の詳細は忘れてしまった。
高尾山に行っても
やはり私は登山にあまりいい思い出が作れなかった。
尾瀬、そして高尾山で
時間やお金をかけた割に思ったよりいい景色が見られなかった私達家族は
満場一致で
もう登山をしようとは言わなかった。
尾瀬にまた行きたいとも言わなかった。
「次に行くなら、やっぱり屋久島かな?」
そんなことを私は口にはしていた。
だが、やはり距離がなかなかにネックであり
いまだに私は屋久島には行けず
屋久島は憧れのままである。
尾瀬や高尾山に行ったのは今から数年前だが
あれから結局私は家族以外とも
登山やそれに近いことは行っていない。
我が家の山はあれから更に地形が変わり、木々が増え
以前のように自由気ままに登れなくなった。
父親がタケノコ掘り中に落下して骨折したこともあり
私は山に対して警戒心を強めた大人になった。
母の実家では自宅付近の山や土地を全て買い取り、私が最後に行った頃よりも敷地は拡大したらしい。
母方の祖父母が亡くなったのを最後に
私は母方の実家には行かなくなった。
「ここから見える景色を全て君にあげるよ。」
というプロポーズがガチでできる従兄弟が羨ましくなった。
いや、従兄弟が言ったかは知らないし、今後誰かに言うかは分からないが。
2020年はコロナウィルスの影響で、今までのように出歩いたり、登山に行くことは制限がかかるようになった。
だから今から数年前に尾瀬や高尾山に行っておいて
本当に良かったと思う。
行ったという経験はできたのだから。
外出自粛中の今、散歩をしたり、運転していると、遠くに山々が見える。
ここは山に守られ、山に見守られている。
登れなくても、山がある風景がここには広がっている。