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ミロを睡眠薬にしていた日々のこと

これは一年くらい前の日々の、特に夜のことで、わたしはニートで、実家に住み、眠れなくて、ミロばかり飲んでいた。

自分がどこにも立っていない感覚があったのだと思う。「立つ」は「根を張る」に近く、「住む」ともそう遠くない感じの意味で使っている。

芸人になりたくて上京して、新歓ライブで先輩のアンゴラ村長(さん)を見て、敵わねえと思って、でもコントが好きで演劇を初めて、もちろん食べていける感じでも、食べていこうという感じでもなくて、就職したけどすぐやめて、バイトしながら考えようか(何を)と思っていたら、心身の不調と流行病への恐怖にあっさりやられて地元に帰った。しっぽ巻いて逃げる、は、わたしのための言葉です。

コロナ禍でも必死に「演劇」をやっている(やらねばいけない)人たちの姿を見て、おしまいだなぁと思っていた。わたしは、わたしの書くものが、人が集まるという行為が命に関わる世の中で上演する価値のあるのものだとは思えなかった。自分の書くものを全く信用できなくなった。これはコロナのせいではなく、コロナで露呈したわたしの問題だったのだと思う。わたしは演劇を信じれなかった。わたしはもっと、もっともっと真剣に書くことに向き合うべきだった。そんなこと、実家のベッドで思ったって遅いぜ。

そのくせして地元で生きていくと決めることもできず、東京に戻るかもしれないという理由でバイトもせず、朝、出勤する母にベッドの上から「いってらっしゃい」と言い、昼に起き、飯を貪り、申し訳程度の家事をし、帰ってきた母とご飯を食べ、何をするでもないのに夜更かしをする、という生活をしていた。家にも居候をしている気分(というかそれは事実)、とにかくどこに立っている気もしなかった。わたしはどこかに自分の足で立ちたかった。でも、立とうともしてない自分が恥ずかしく腹立たしく23歳だった。

そうやって、具体的にくよくよして寝れないとか言ってるうちはまだよかった。そのうち「わたし、要る?」という漠然とした嫌な気持ちになることが増えた。具体的なくよくよは「解決」的な終わりを見出すことは可能だが、漠然とした嫌な気持ちは終わらせ方が分からない。両親がくれた自室の両親がくれたベッドの上でうまく眠ることさえできず、両親の金で飯を食い、ウンチをし、水で流している自分。要る?要らなくない?邪魔じゃない?この辺からよくなかった。1キロくらいはなれたところにかすかな光が漏れてる扉が見えて「ああ、あの扉の光に吸い寄せられて、扉を開けてしまった人が「終わり」を選んだ人なのかもしれない」と思ったりすることがあった。これは「死にたい」の話じゃない。「死にたい」の姿をわずかに見かけた、だけの話。わたしはとても冷静だったし、自分の体を痛めつけることは本当に本当に一回もしていない。ただ、あのとき以来、自分の体を痛めつける行為をする人に対して「やめなよ」じゃなくて「あなたはそのやり方を選ぶのですね」と思うようになった。

眠れないまま朝を迎える日が続いた。
そんな時、朝日を横目で見ながら飲んでいたのがミロ。

牛乳にちょっと多めに溶かして飲んだ甘いミロ。なんか栄養がありそうなミロ。「強い子のミロ」ってキャッチコピーがあったことは後から知った。強くなりたかったなー。

スプーンで粉を何杯入れたか数えること、くるくると牛乳をかき混ぜてできた渦を眺めること、飲み干した後、底に残った粉をかき集めること。それらのほんのちょっとした作業がわたしを救ってくれた、ような気がする。

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あの時期、わたしのターニングポイントだった、絶対に書くべきだ、と思って書き始めたが、今振り返れば「上京したものの何も叶わず帰ってきてうなだれてる」だけだったのがなんともくやしい。また、「深夜、なんとなくながめていたドキュメンタリー風の番組が実はミロのCMだった」みたいな流れになってしまったのもくやしい。

まあでも、今日もわたしは生きていて、薬を飲めば眠れるし、バイトの前にはガソリン代わりにミロを飲んでいる。明日も生きたいし、ミロ飲みたい。オーライ。



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