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「読み書き算盤」

20年程前は、自身のH.P内のBlogで、その後、Instagramで、その時々に書きたいことを書いてきた。Blogはいいとして、Instagramで平均1,000文字程度のテキストを書くことは、趣旨が違うと言われることが少なくはなかったが、所詮は自己満足なのだからと自身を納得させて、その選択をし続けた。
しかし、この度、本を出版するにあたって、過去の投稿内容と重複する部分をアーカイブして、スッキリさせたのを切っ掛けに、noteでの投稿を始めてみたのだが、画像/映像が主体となるプラットフォームと、テキストベースのそれは、当然のことながら住民が違う、ということを身を以て感じている。

活字離れと言われて久しいが、そのことと、X等での議論の噛み合わなさや、LINEの使い方(世代による違いも含め)の相違での揉めは、繋がっている、と思っている。

その根拠を述べるには、一般的な人間の成長過程、母胎内での胎児の説明から始める必要がある。人間の五感の発達は、胎児の段階で、先ず耳から機能し出すらしく、従って、胎教の効用が証明されるに至っている。要は、意味はわからずとも、声や音は胎児の状態でも聞こえているということ。その後、産み出されてから、徐々に意味を理解し始め、一年も経てば、たどたどしいながらも話し出すようになる。
ということは、外国語を学ぶにも、先ずは聞くことから始め、話せるに至るのが、物の順序なんだろう。
このようにして人間は、言葉を聞くに際しては、耳を通して音(鼓膜の振動)としてそこに乗った意味を解し、話すに際しては、喉や口腔や舌(筋肉の収縮)を使って音を発し、その羅列に意味を乗せる。
この聞いた音と発する音との差異が大きいことが、音痴と呼ばれる一因である。
と、簡単にそのメカニズムを言語化してみたが、誰もそんなことは意識せずとも、気付けば聞き話せているもんだろう。
しかし、同じ言葉でも、聞き話しと読み書きとでは、全く違う。
聞き話しは、多少の補助の必要はあったにせよ、基本的には自ずから出来るようになるが、読み書きは、そうはいかない。
識字率という言葉が示す通り、聞き話せても、読めないという人が存在する。何故そんなことが発生するのかと言えば、読み書きは、教わらなければ身に付かないからである。
聞き話すは、前述の通り、聴覚と喉や舌の筋肉の収縮によるが、読み書きは、視覚と腕や手首や指先の筋肉の収縮による。そして、聞く=音と、読む=形との間には、何ら因果関係はない。あるのは、強制了解である。
例えば、「あ」という形を、「i=イ」と発音したところで、何ら問題はない(厳密に言えば、「あ」は「安」に由来し、「い」は「以」に由来するので、ことはそう単純ではない)が、「あ」という形は、「a=ア」と発音(「a=ア」の音は、「あ」と表記)せよ、と覚えさせられる(強制了解)が故に、聴覚情報と視覚情報がイコールとなる。
余談だが、話すことは、同時に聞くこととなっており、書くことは、同時に読むこととなっている。よって、出力が即ち、自動的に入力ともなっている訳で、それが記憶に結び付く。
更に余談だが、養老孟司氏の何の著作だったかは忘れたが、入力とは五感からでのみ、出力とは筋肉の収縮でのみ、行われるものらしい。

さて、以下のようなデータがある。
日本の識字率はほぼ100%であるにも関わらず、そのおよそ1/3は日本語が読めない(正しく読解できない)、というもの。
*『事実VS本能 目を背けたいファクトにも理由がある』橘玲著
これが示すのは、文字面は読めても、その意味は解せていない、ということだろう。

聞き話すことは、気付けば出来るようになっていただけに、読み書きのように学ばければならないものより、前者でのコミュニケーションの方が楽なのだろう。だからこそ、活字離れな現在となっているのも納得がいく。が、しかし、である。
読み書きが面倒臭いからと、活字離れしたところで、XやLINEでは、読み書きを用いている訳で、だからこそ、前述したように、活字を通したコミュニケートに齟齬が生じる、のだと思っている。

先日、私の最下部のリンクの書籍の推薦文を書いて下さった、佐治晴夫先生の90歳の記念講演を拝聴した。その中で、理論物理学者であるにも関わらず、最重要なのは、国語力だと仰っていた。
実際、先生の書籍では、物理の説明に、シェークスピアや松尾芭蕉や金子みすゞなんかを引用されていたりするので、そういうことなんだろう。
*88歳当時で88冊もの著作がある中、入門書としては、以下のリンクのものをお薦めする

また、数学者の藤原正彦氏も、国語の重要性を説かれている。
*以下のリンクの著書に詳しい

これまた養老孟司氏の受け売りだが、女子高生が、「夕陽が綺麗だね」「そうだね」とのLINEのやり取りをした場合、一見通じているようではあっても、その綺麗さを一方は色を指し、他方は形を指している可能性が否めない中、三島由紀夫あたりの手に掛かれば、夕陽の綺麗さだけに3ページを割いていたりするものだとあり、得心がいった。

聞き話すだけでもコミュニケーションは取れるが、読み書きの能力の裏付けがあるのとないのとでは、その深さは確実に変わる。
読むとは、文字面を、だけではない。
行間や、空気や、気配や、心をも、読む、に繋がる。
それを面倒臭いと避けるのは自由だが、そのことによって、円滑なコミュニケーションが成立しないのは、自らの問題であると認識する必要があるんだろう。

そして、見えないものを読むことの先に、日本的美意識が潜んでいる、と思っている。

聞くこと。
話すこと。
読むこと。
書くこと。
それぞれに難しいものである。

そういえば、最早、見掛けることも珍しくなった算盤は、その役割を終えたのかもしれないが、読み書き同様、加減乗除と九九くらいは、身に付けた方がいいんだろう。

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