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【♯7】 写真の場所性と記念碑性についての考察及び歴史伝承への応用 ━ 【第3章 ベンヤミンの歴史観と場所性】 -2

3 - 2 ベンヤミンの史的唯物論と写真の場所性

 ベンヤミンやバルトの写真論の中では、彼ら独自の写真論を展開させる際に時間や生死といったキーワードが関連してくる。これまでの私の論でも、一人の人間の生死から写真を考えることを通して時間や歴史まで考察を伸ばしてきた。ここでは特にベンヤミンが著した歴史観や時間概念や、バルトの写真論などを通して私の主張する「写真の場所性」と、写真が持つTimescapeとしての性質を考えていきたい。

 3 - 2 - 1 写真における「危機の瞬間にひらめくイメージ」

 ベンヤミン著『歴史の概念について』において、瞬間に知覚される弁証法的イメージは“危機の瞬間にひらめくイメージ”と表現されている。『歴史の概念について』において、“イメージが危機の中にある”ということは、弁証法的イメージを考える上で非常に重要な状態である。その上でこの“危機の瞬間にひらめくイメージ”をもとに写真との関係を探っていくことにする。
 『歴史の概念について』の中で語られる“危機”と言うのは、歴史主義的体制のなか、過去から伝えられてきた事績や文物が支配階級や戦争の勝者の占有物となってしまい、過去の物事が現代に生き生きと働きかける力を失ってしまう状態のことである。そしてベンヤミンは、このような状況下においてこそ、ある場所に堆積した時間の中から火花のような過去のイメージが不意に姿を現す可能性があると主張している。これはあくまでも、“過去を正しく知覚するための方法論”として主張されたものである。では、写真においてはどのように言えるだろうか。写真を見る行為はベンヤミンの歴史概念と同様、生成を繰り返す場所からイメージ(記憶)を取り出す行為である。とすれば、同じように写真にも“危機”と“危機の瞬間にひらめくイメージ”が存在するのではないかと考えた。
 ベンヤミンは、“危機”のことを「過去が支配階級の占有物となること=過去が量的(歴史主義的)時間感覚の中に組み込まれ忘れ去られること」と捉えていた。これを現代における写真の立ち位置に置き換えて考えることは、もちろん可能だろう。現在は歴史は隅々まで調査、整理され、多少のズレはあるにせよほぼ全ての歴史の前後関係は明らかになっており、さらに映像の生活への定着、SNSの普及などによって非常に高い情報の確実性、広域性、迅速性が担保されている。そして情報量の圧倒的に少ない写真は次第に“情報の伝達手段”としての価値を見出されなくなっていると言えるだろう。しかし、我々が情報への優位を疑いもなく信じている場合、それは紛れもなく危機である。現代の我々には用意され止めどなく体を通過する最新の情報を前に「すべてを知っている」という傲慢が常に存在している。それは能動的な“想像”を生むことを止めてしまう。ベンヤミンの唱えた弁証法的イメージは、過去が堆積した場所から想起されるものとして説明されているが、現代においては情報が溢れるこのような危機においてこそ、我々の存在する時間軸からはすでに離れており、さらには圧倒的に情報の少ない静止画である写真を見るという行為が、逆に完全に整理され切った歴史や情報の中では語りきれない、表しえないワンシーンをありありと表出させることができるのではないだろうか。このような考察からも“写真を撮る、見る”という行為は、ベンヤミンの主張した過去が堆積した場所に立ち危機の瞬間にひらめくイメージを捉えようとする行為と類似するものと考えられるのではないだろうか。
 また、写真における危機には、写真における静と動の関係が大きく関わっている。写真には過去の想起を起こさせる性質があることは、ここまでで説明した通りである。しかし動画は過去を想像するという観点からは動画を見る方が遥かに詳細な情報を得ることができるし、逆に時間軸から完全に独立した写真からは、前後関係を示す情報がなくそこに写っているものの情報しか得ることができない。しかしながらフランスの小説家であり批評家のピエール・マッコルランは著書『写真幻想』において、このように述べている。「写真は生まれつつある芸術たる広告と関係したり、ものによっては神秘的な文学作品の余白に入り込んだりして、速度に支配された時期の知的な光景をもっとも完璧に再現する、明らかに今日的な要素を担っている。そもそも、光を明らかにするものが影であるように、運動を明らかにするのは不動のものである。」19)このように写真はその誕生から、広告や小説、詩と言ったイメージとして動的なメディアの傍に置かれてきた。我々はその情報が非常に限られた写真の中からさらなる動的なイメージを掴もうとする。だからこそ、と言うべきかもしれない。なぜなら人間の想像力は「見えないもの」に働くからである。

 3 - 2 - 2 ベンヤミンの歴史観を参考に考える写真(写真の中の「死」)

 まず、様々な写真論の中でもっともよく論じられる“写真と死”の関係について、写真の場所性を通して考察したい。先ほども述べたが、様々な写真論の中で、写真は特に死と結び付けられる。マッコルランは、写真には「一瞬だけ死を想像する力」20)があると述べている。かく言う私も親友の死をきっかけにして写真の性質に興味を抱いている。では、写真の場所性と言う観点から考察すると、写真に内在する死とはどの様なものだと言うことができるのだろうか。なぜ、私は親友の死から写真の考察を始めるまでに至ったのか。
 この考察では主に、前章で述べた時間の知覚方法の転換が関わる。前章の中では、撮影された写真はリニア的時間軸から解放され、時間の経過とともに写真の中に積み重なる時間を浮遊しながら知覚できるようになると説明した。この時、撮影された対象は、この写真の中に保存された永遠とも取れる時間の幅をぐるぐると行ったりきたりしながら鑑賞されることになる。つまり撮影対象の概念は、時間軸の先端を生きている我々鑑賞者の時間軸とは別の次元に存在する時間軸の中に存在し、永遠にこちら側に迎合する事はない。対象が写真となった以上我々の時間軸と迎合する事はもはやないのだが、第一章で述べた“光によるつながり”によって、鑑賞者と写真の中の対象の間には同じ視点が共有されている。またベンヤミンの言葉を借りるならこの状態が把握できるのは、写真に堆積した時間のなかに潜む化石と現在が出会い、過去のイメージが火花のようによぎる(弁証法的イメージ)瞬間においてだけである。マッコルランが“一瞬だけ”と表現するのにはこのようなことが関係するのではないだろうか。また、このような“一瞬の”関係をもとに、死者と生者の関係においても同じような関係が成り立つと考えることができるのではないか。同じ時間空間を共有していた(骨や墓の存在による繋がりもあるのかもしれない)にも関わらず死者は我々とは別次元を浮遊しており、記憶と言う確かな繋がりはあるのかもしれないが、決してこちらには語りかけてこない。この状態が写真と鑑賞者との関係に非常に近いのではないかと考える。
 また、写真と人間の死という二つの対象を考える場合、“生成の静止”という共通点も上げることができるだろう。これは永遠性と言い換えることができるかもしれない。人間も時間も常に生成を繰り返し、一瞬たりとも前に戻ることはできない。人間で言えば常に古い細胞が死に、新しい細胞が生まれ続けて一瞬も同じ自分でいることはない。同じように時間の進行も、ベンヤミンの歴史観を借りて考えるのであれば、砂糖が水に溶けることや、髪や爪が伸びること、顔にしわが刻まれること、侵食や隆起による風景の変化などのように、不可逆の蓄積される変化によって行われている。つまり、何かの生成によって時間は感じられている。とするならば、この二つの対象、人間と時間にとっての生成の静止とは、それぞれ死と撮影であると言える。人間にとっては、死が細胞の生成を静止させ(実際にはそこから腐敗が始まるため、その人物としてのイメージの静止の意味合いが強い)、時間にとっては撮影によって、時間軸からの切り離しが行われ、撮影対象のイメージ(像)は静止させられる。そしてそれ以降、それらのイメージは永遠性を得ることになり、そこから先は人間にとっては記憶や墓の存在、そして写真にとっては光によるつながりによってのみその永遠性との対話を行うことになる。ここにも死と写真の共通点があると考えることができる。
 ベンヤミンは『歴史の概念について』の執筆当時、真剣に歴史の認識方法を覆そうとしていたに違いない。しかし現在の世界では日常生活においてこの様な主張を受け入れるのは非常に難しいと言わざるを得ないだろう。ただ、ここで述べた様に、ベンヤミンの論は写真という特殊な媒体の性質と類似しており、上記の様なベンヤミンの時間概念との共通点を軸にすることで新たな写真についての見解が得られた。この様に『歴史の概念について』に代表されるベンヤミンの時間概念は、現代の我々にとっても未だに斬新で非常に有益な視点を与えてくれる存在であることは間違いないだろう。



註釈・引用
19)ピエール・マッコルラン 著 / 昼間賢 訳 『写真幻想』/ 平凡社 / 90 頁 / 2015 年

20)ピエール・マッコルラン 著 / 昼間賢 訳 『写真幻想』/ 平凡社 / 67 頁 / 2015 年


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