東海道中膝栗毛
鉄道系ユーチューバーのスーツさんがやっていた「旧東海道を電動アシストママチャリで完全踏破する」シリーズがバカ面白かったので、久しぶりに「東海道中膝栗毛」岩波文庫版を読み返してしまいました。
「東海道中膝栗毛」はご存知十返舎一九が書いた江戸時代の大ヒット本です。自分はこの本を高校の頃から愛読していてこれまで何度も読み返しています。
この本の最大の魅力は何かというと、ただひたすらクソくだらない話しかない、というその一点に尽きます。
本当の本当に、どこをとってもうんこちんちん系の下ネタか女の話か悪ふざけの話、人生のためになるような話など掛け値なしでひとつもありません。
百歩譲って、まあ確かに江戸の風俗や旅の土地の様子がわかる、という文化的要素もあるにはありますが、その描写は正直全体の割合からするとほんのごくわずかで、作者もそんなのを書くのはめんどくさいのか、色々な地方の観光名所に着くと「ここは略す」「くだくだしいから略す」などと言って堂々とざっくり割愛したりしています。まぁ正直当時の読者もそっちを求めていたわけではなかったのでしょう。
あとは弥次喜多が詠む狂歌がこの話には欠かせない要素なので、これも今でこそ文化的な感じもしますが、基本的には各エピソードのオチのジングル的に使われているイメージです。話の締めに当時流行していた狂歌が入る、ということで、今だとなんですかね、ショートコントの終わりに入るワカチコワカチコとか、ジャンガジャンガ…みたいな感じかしら。
ということで、時間が経ってしまったことで意図せず文化っぽくなってしまった箇所はなくはないですが、本質的には最初から最後まで不謹慎の極み、もう全力でひたすらふざけ倒しています。
自分がこの本を読み返すのは、感覚的にはさくらももこさんの「もものかんづめ」を定期的に読み返したくなるのと同じ理屈です。「意味がないのをただ読みたい」ってことあるじゃないですか。
ちなみに、自分の読んでいる岩波文庫版は、写真のようにいわゆる旧仮名遣い、活字ではあるがほぼ原文で書かれているものです。
こんなの読めるのか、という話ですが、はっきり言って全然読めます。基本、この本はほとんど登場人物のセリフだけ(会話)で成り立っているのと、とにかく内容がくだらないので、ほぼ現代文の感覚で読むことができると思います。
というより、現代語訳された本も読んだことはありますが、なんというか、現代語にしてしまうと、なんだか途端にダサくなるような気がするんですよね。。
要は全体がドリフのコントのような話なので、テンポ感というか、心底くだらないことを楽しんでいる感じが、現代語にした途端に「教科書の正しい登場人物」のようになってしまって、なんというか笑えない感じになってしまうのです。表現だって露骨なのが面白かったりするのに、正しい青少年でも読めるようにマイルドにされちゃいますしね。
また、読んでいると思うのが、意外と江戸時代でも今と同じ言葉使ってるんだな、ということです。例えば「きんたま」「ひっぱたく」「あいたたた」「腹がごろごろする」とか全然普通に使ってたんだな、と思うとこれはちょっと楽しいですね。「拙者は・・」とか「・・でござる」とか「へい旦那!」とぁ「殿!」とか全然言ってなくてそれもそれで楽しいです。
でも一番思うのは、人間の考えることや、くだらないことが大好きな性質というのは、昔っから全然変わらないんだなということです。
なんとなく、今でもちょっと5年10年世代の違う人だとそれだけで話が通じない気がしちゃう時もありますが、100年以上前でさえ基本的にはみんな下ネタと他人の失敗と女の話が大好きなんだって思うと、ほんと人間なんてたいして変わらないんだなっていう気がしますね。
ちなみに、自分は、本の中でしょっちゅう出てくる言い回し「こいつはおもくろい」(面白い、のことをこう言うのが当時流行っていたらしい)が、なんかかわいくて好きです。
ちなみに激怒することを「真っ黒になって怒る」って言ってたみたいですね。
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