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安らかに。

完成していなかったものを完成させました。



祖母の葬儀を終え、東京に戻ってきました。気持ちの整理と、この4日間で感じたこと、そしておばあちゃんのことを忘れたくなくて、ここに綴ってみようと思います。

4/18 午前9時頃 祖母が永眠しました。
102歳でした。本当に長寿で良く頑張って生きてくれたと思います。

4/18の夜中12時過ぎ、母親から、おばあちゃんが危ないとの連絡が入った。意識はあるが酸素ボンベをつけて喋れない状態。手も振ってくれたけど、お医者様によるともう危ないとのことだった。

私はおばあちゃんが逝ってしまう前に会いに行かなきゃと思い次の日の1番早いバスで実家へ向かうことにした。バスの道中で、おばあちゃんの訃報が入った。間に合わなかった。春休みに面会に行かなかった私は、最後におばあちゃんと話をしたのは年末年始となってしまった。「また来るね」と言ったのに、叶わなかった。なんで春休み見に行かなかったんだろう。すごく後悔した。正直まだまだ生きると思っていた。102歳だけど、おばあちゃんは全くボケていなくて、会いに行くと名前を呼んでくれた。元気に見えた。だからまだ生きてくれると思っていた。そんななか、突然の出来事だった。正直まだ生きているんじゃないかという気もしてくる。つい数日前まで生きていた人がもうこの世にいない。その現実を受け止めるのにどのくらいの月日がかかるのだろうか。おばあちゃんの生前話している姿、手を振って踊っている姿が鮮明に目に浮かぶ。

実家に着くとおばあちゃんが眠っていた。死人の顔を見るのは初めてだった。横たわる祖母の顔をすぐには見ることができなかった。

自分にとって近しい人を亡くしたことは初めてのことで、お葬式に参列したのも初めてだった。お坊さんのお経が響くお寺はまるで夢のようだった。本当におばあちゃんは死んでしまったのか。悲しくて涙が溢れた。戦争を乗り越えたおばあちゃん。とにかく働き者でしっかりしていてとても強い人だった。あんなに頭がしっかりしている人でも体は衰弱していた。あんなに強く生きてきた人でも最期は死んでしまうのか。本当に信じられない気持ちだ。正直今もそうかもしれない。というかとにかく悲しくて仕方がない。

おばあちゃんはたくさんの物を残してくれた。今思うと、有り得ないほど多趣味な人だったんだと思う。大きな刺繍の絵、編み物の花布団、ビーズで出来たのれん、日本人形など、老後も器用な手先を使って色々なものを作っていた。施設に入ってからも色塗りがすごく上手で、100歳のばあさんには思えないほど頭がしっかりしていたと思う。

おばあちゃんの遺品の中に日記があった。そういえば、家にいた時は毎日寝る前に必ず日記を書いていた。日記を見てみると、何年か前で途切れていた。施設に入ってからは毎日同じことの繰り返しで書くことがあんまりなかったんだろうとままに言われた。日記を読んでみると、「ボケないように」という言葉が幾度となく出てきた。おばあちゃんが最期まで家族の名前を忘れることもなかったのは、「ボケないように」しようとすごく意識して毎日を暮らしていたからだと思う。そんなおばあちゃんにとっては施設での生活が退屈で仕方なかったんじゃないかな。でも手先も上手く動かないから編み物も出来ない。その毎日を思うと涙が出そうになる。

最期のお別れの儀式で、棺に手紙を入れた。向こうで読んでくれたかな。読んでくれてたらいいな。おばあちゃんに旅立ちの服を着せていた時、親父が初めて泣いていた。その姿を見てボロボロ泣いた。灰になったあとは、整理出来ていなかった気持ちを一緒に浄化されたようだった。おばあちゃんがもうこの世にはいないことをやっと受け入れられた気がした。そしてこれがひとつの区切りなんだと思った。これからはご先祖様として私たちを見守ってくれる、そんな気がした。

忙しい日々を過ごしていると、故人のことを忘れてしまう。しかし、区切り区切りや残されたものを見てたまに思い出すことが故人に対する最大の敬意なのではないかと思う。

人はいつか必ず死ぬんだということを身をもって実感した。いつ死ぬかは誰にも分からない。その時まで、やりたいことをやって悔いのないように生きていくしかないんだと思う。

どうか、安らかに。

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