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【掌編小説】記憶は風に乗り(1639字)


まだ夜明け前の静けさが森を包む頃、1匹のセミが生まれた。土の中の長い暗闇を経て、ようやく地上の光が彼を迎えた。顔を出した瞬間、彼はその鮮やかさに息を呑んだ。無限に広がる空、揺れる木々、光の粒が踊る世界。それは、今までの静寂とは全く異なる、生の躍動感に満ちた世界だった。

初めて耳にした音たち。鳥たちのさえずり、風が葉を撫でる音、そして何より、仲間たちの合唱。それらはまるで、彼を誘うように、遠くから近くから響いていた。彼もまた、その響きに加わりたいと願い、小さな体を羽化させた。羽は陽の光を浴びて、透明なベールのように輝き、新しい世界へと彼を導いた。

昼間の森は、静寂と喧騒が混ざり合う場所だった。彼はその中で、初めての歌を響かせた。まだ不確かで震えるような音だったが、彼の心には確かな何かが芽生え始めていた。それは、生きることへの喜びと、何かを求める切なる思いが交錯するものだった。日ごとにその声は強さを増し、森中に響き渡るようになっていった。

時は忙しなく流れ、彼の一日一日は仲間たちと共に歌い、飛び回ることで満たされていた。夕暮れ時、彼らの合唱は一つになり、森全体を包み込んだ。夏の空気はその歌声で震え、遠くまで響き渡った。

ある日、彼の歌に応えるかのような柔らかな音が、風に乗って届いた。その音に導かれるように進んだ先で、一匹のメスと出会った。彼女は、彼の声に耳を傾け、その瞳には静かな輝きが宿っていた。その瞬間、彼の胸の中に温かな何かが広がった。それは、彼にとってこの短い夏の日々の中で最も美しい出会いだった。


夜、彼らは寄り添いながら満天の星空を見上げた。煌めく星々がまるでふたりを祝福するように瞬いていていた。短い一生のなかで、彼らは出会い、生きる喜びを分かち合った。彼は彼女の温もりを感じながら、今この瞬間が永遠に続いてほしいと星空に願った。星の光が静かに彼らを包み込み、時の流れすら忘れさせるような、深い静寂に満たされた夜だった。



翌朝目覚めたとき、彼女の姿はすでになかった。空虚な朝の光の中で、彼は胸にぽっかり穴が空いたような喪失感を覚えた。しばらくの間その場に佇み、何も感じることができなかった。
しかし彼は再び飛び立たねばならなかった。木々の間を飛び回り、仲間たちの合唱に加わったが、体は次第に重くなり、声も徐々に弱まっていった。彼は自分に残された時間がわずかであることを悟った。それでも最後の日まで一瞬一瞬を慈しみながら、命が尽きるまで歌い続けようと思った。



数日が過ぎたある日の夜、満天の星々が彼を静かに見守っていた。彼は星空が好きだった。しかし今、その星空を見上げながら、この夜が自分にとって最後の夜になるだろうと感じていた。短い命の中で、これほどまでに美しいものを見たことはなかった。その輝きは彼にとって、憧れでもあり永遠の象徴でもあった。気が遠くなるような遠い星から届く光を受けながら、自分の存在がこの広い宇宙の一部であることに、ささやかな喜びを感じた。彼は静かに輝く星々を見上げながら、この夜空が最後の贈り物のように映り、その光の中で自分の命の終わりを受け入れていった。


翌朝、彼にはもう飛ぶ力が残されていなかった。けれど最後まで歌い続けようと思った。その歌声は風に乗り、遠くの空へと消えていった。
やがて、歌声は少しずつ弱まっていった。陽が沈み、夜の帳が降りる頃、最後の力を振り絞り、もう一度空に向かって歌を捧げた。それは感謝の歌であり、彼の魂が風に溶け込む最後の瞬間だった。

彼の体は静かに地に落ち、風がその羽を優しく撫でた。全ての力が失われ、遠のいていく意識の中で、彼は長かったようであっという間に過ぎていった一生を思った。
土の中で夢見た外への憧れと不安、初めて飛翔した時の胸の高鳴り、そして彼女との奇跡のような出会い。それらはすべて、限りない夏の記憶の中に溶け込んでいく。彼が残した響きは、夏の終わりを告げる風に乗り、次の世代へと受け継がれていく。

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