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【1分小説】僕の登山デビュー

エベレストの登山ドキュメンタリーを見た夜、僕は感動のあまり立ち上がり、リビングのテーブルに手を叩きつけた。

「これだ!!俺も、登るぞ!!」  
エベレストの登山家たちが雪と氷の中を必死に進む姿、風が吹き荒れる中での決死の一歩一歩。息を切らしながらも山頂を目指し、ようやく到達した時の達成感に満ちた表情。その笑顔と涙が混じり合う瞬間を見ながら、まるで自分もそこにいるかのように感じていた僕は、何か大きなことを成し遂げたいという思いが湧き上がったのだ。
そこで僕が目をつけたのが標高50メートルの近所の裏山だ。気持ちが燃えたぎっているうちは僕を止めることは誰にもできない。

「まずはこれだな、エベレストの第一歩だ!」  
意気揚々とリュックに水と軽食とロープを詰め込み、いざ出発。気分はもうエベレスト登山隊の隊長だ。 


裏山のふもとに立つと、僕は深呼吸して目を閉じた。冷静さと落ち着きを保つことが、登山の鍵だと聞いたことがある。
リュックを背負い直し、鼻で息を吸い込みながら深呼吸。
「さあ、行くぞ!」
この一歩は栄光へのスタートだ。




しかし開始3分で異変は起こった。






「バカな…はぁ…はぁ…なんだこの謎の疲労は…」  
息は上がり、心臓はバクバク。足は重く、リュックの紐は肩に食い込み、風もまったく吹かない。しかも、木の根も邪魔で歩きにくい。


「こんなの聞いてないよ!!」


ドキュメンタリーで見た登山家たちは、もっとスムーズに登っていたはずだ。まるで崖を這い上るカタツムリのように僕のペースはどんどん鈍り、ついには木の根に足を取られて膝をついてしまった。


「息が…酸素が…」  

エベレストでは酸素ボンベが必須だというのは聞いていたが、まさか標高50メートルでも必要だとは思わなかった。

「ここで死ぬのか…」


その時、背後から声が聞こえた。「どうした?若いの」  
振り返ると、そこには佐々木さんが立っていた。彼は町ではちょっとした有名人で、この裏山を何度も制覇しているベテランだ。年齢は60代だが、軽やかに山を駆け巡る姿は、まるで山ヤギだと言われている。

「酸素が…足りないんです…」  
僕が言うと、佐々木さんは豪快に笑い、「なるほど。それは大変だ。それなら私と一緒に頂上を目指そうじゃないか」と励ましてくれる。


佐々木さんに引っ張られる形で、僕はなんとか登り続けた。途中何度も足が止まり、休憩を求めた僕を、佐々木さんはその度に「大丈夫、大丈夫、もう少しだ」と励ましてくれた。




そしてついに頂上にたどり着いた時、僕は思わず涙を流していた。山のふもとにある、毎日通うコンビニを上から見下ろすという光景は新鮮で特別なものだった。さらに向こうにはスーパーとその広い駐車場、そしてさらにその奥には僕の家の屋根もちらっと見える。この景色は決して日常では味わえない、まさに登山家にとっての至福の瞬間であろう。


「どうだ、悪くないだろ?」  
佐々木さんが満足げに肩を叩き、優しく微笑んだ。僕は涙を拭いながら頷いた。「最高です、佐々木さん…エベレストの登頂もきっとこんな気持ちなんでしょうね…」と、精一杯の感動を伝える。
「エベレスト?まあ、そうかもな。高さは違えど、感じるものは同じだろう」  

佐々木さんの言葉にうなずきながら、僕は山に登る前よりも少しだけ自分が大きな人間になったような気がした。







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