【童話】風の子 1/4
村の外れに一本の欅の木が立っている。その木は長い時を経て、村の守り神のようにどっしりと根を張り、風が吹くたびにさらさらと音を立てていた。僕はその木の下が好きで、暇さえあればそこで本を開いたり、静かに空を眺めたりして過ごしてきた。
秋になると、欅の木の葉は黄金色に染まり、風に乗って舞い落ちる。その葉の音と、枝葉が揺れる音が心地よく、僕は木の下で過ごす時間が好きだった。
その日も、学校から帰ると真っ直ぐ欅の木へ向かった。青い空が広がり、柔らかな風が頬を撫でていく。地面に積もった葉を踏むたびに、カサカサとした軽い音が響いた。
木の下で、僕はいつものように根元に腰を下ろした。空を見上げると、欅の枝越しに透き通る青空が見える。風に揺れる葉がきらきらと輝き、木漏れ日が地面に踊るように差し込んでいた。
ふと、その静けさの中で違和感を覚えた。誰かが近くにいるような気配がしたのだ。
「ここ、気持ちいいね」
突然、耳に柔らかな声が届いた。驚いて振り向くと、そこに銀色の髪をした女の子が立っていた。
彼女は僕と同じくらいの年齢に見えたけれど、どこか普通の人とは違う雰囲気をまとっていた。銀色の髪が風にさらさらと揺れ、その姿がまるで風そのもののように見えた。
「……誰?」僕は思わず聞いた。
「私は風の子。この木が教えてくれたの。君がここにいるって」彼女は柔らかく微笑んだ。
「風の子?」僕は戸惑いながら聞き返した。
彼女は頷き、「そうよ。私は風と一緒に旅をしているの。この欅の木が『ここに来て』って呼んだから、今日はここにいるの」と言った。
彼女の言葉は信じられない話だったけれど、不思議と嘘ではないように感じられた。
「君、ここによく来るの?」彼女が尋ねた。
「うん。学校の帰りによく寄るんだ。ここ、落ち着くから」
彼女は嬉しそうに頷き、「分かるわ。この木はとても優しいもの」と言った。
「ねぇ、一緒に風を感じてみない?」彼女が言った。
「風を感じる?」
「そう。ただ風と遊ぶだけ。難しいことは何もないわ」
そう言って彼女は欅の木から少し離れ、地面にそっと座った。僕も隣に座るように促され、彼女の真似をして目を閉じた。
「深く息を吸って、風が通り抜ける音を聞いてごらん」彼女が小さくささやいた。
目を閉じてみると、確かに風が耳をかすめる音が聞こえてきた。さらさらと葉を揺らす音、地面を撫でるような優しい風の音。普段聞いていたはずなのに、彼女といるとそれがまるで新しい音に思えた。
「ほら、今、風が君の髪を撫でたでしょ」彼女が言う。
確かに、風がふっと僕の髪を揺らした感覚がした。それがただの風ではなく、彼女が教えてくれた風の「優しさ」のように思えてきた。
しばらくそうして風を感じたあと、僕たちは欅の木を見上げた。枝葉の間から射す夕陽が赤く光り、木全体が黄金色に輝いているように見えた。
「君、いつもこうやって風を感じてるの?」僕が尋ねると、彼女は「そうよ。風はいつも私と一緒だから」と答えた。
「でも、ずっと旅をしてるんだろ?疲れないの?」
彼女は少しだけ考えるようにして、「疲れるときもあるけど、風は止まることができないの。だから私も止まらない。でも、こうして木のそばにいるときは少し休めるの」と言った。
その言葉に、僕は少し胸が締め付けられるような気がした。風の子である彼女が、決して同じ場所に留まれない存在だということを暗に感じたからだ。
夕陽が欅の木を深い影に変え始めたころ、彼女は立ち上がった。
「そろそろ行かないと」
「もう行くの?」僕は思わず聞いた。
「今日はもう遅いから。でも、明日もきっと風が私を連れてきてくれるわ」
その言葉に、僕はほっと胸をなでおろした。
「じゃあ、また明日も会えるんだね」
彼女は微笑んで、「きっと」とだけ言った。
風が少し強く吹き、彼女の銀色の髪が舞った。その瞬間、彼女の姿が風そのものに溶け込んでいくように見えた。
その夜、布団に入ってからも彼女のことが頭から離れなかった。銀色の髪、風に溶けるような声、そして彼女が見せてくれた不思議な遊び。あの時間は特別だった。いつも過ごしているはずの木の下が、彼女がいるだけで別の世界のように思えた。風がささやき、光が踊り、時間が経つのを忘れるほど楽しい時間だった。
「また明日会えるかな……」
やがて瞼が重くなり、意識が遠のいていく。最後に浮かんだのは、夕陽に照らされた彼女の銀色の髪と、優しい微笑みだった。あの光景が、夢と現実の境界を揺らしながら静かに胸の奥に広がっていく。その優しい余韻の中で、僕はゆっくりと眠りについた。