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【童話】風の子 4/4

朝、目を覚ますと、心に微かなざわめきが残っていた。夜の夢がこぼれ落ちたような名残の気配だった。昨日、彼女と過ごした時間が静かに胸の奥で輝いていた。だが、その光がひとしずくの露のように、すっと消えてしまうのではないか──そんな予感に囚われていた。

学校では先生の声も黒板の文字も、すべて遠くに霞んでいるようだった。窓の外の校庭の木々が風に揺れるたび、欅の木と彼女の姿が脳裏に浮かぶ。風の音が、彼女の囁きを運んでくる気がした。

授業が終わり、欅の木のもとへ行くと、彼女はいつものように風の中に立っていた。葉の影がちらちらと彼女に降り注ぎ、風が髪を遊ばせる。彼女は僕を見ると小さく微笑んだ。

「おかえり」

その声は、陽だまりのような温かさがあって、胸のざわめきはたちまち穏やかな波に変わっていった。

「今日はどこへ行く?」

僕が問いかけると、彼女は一瞬、空を見上げて目を細め、それから静かに言った。

「今日は、この木のそばにいよう。どこかに行くより、ここが一番好きだから」

その言葉には、風の透明な響きがあった。






欅の木の根元に並んで腰を下ろすと、彼女はいつも通り楽しげに話をした。けれどその目は、時折遠くを見つめ、何かに思いを巡らせているようだった。その横顔を見つめているうちに、僕の中である考えが浮かんだ。

「ねぇ、僕のうちに来ない?」

思わず口をついて出た言葉に自分でも驚いた。彼女は少し目を丸くして僕を見つめたあと優しく微笑んだ。

「君の家?」

「うん、いつもこの欅の木で会うばかりだから、僕の住んでいる場所も見てほしいと思って」

彼女はしばらく考えるように視線を遠くにやり、それから静かに首を振った。

「ありがとう。でも、私はここが一番好き。だから君ともここで会いたい」

その言葉は悲しくも柔らかく、僕の心に響いた。

「そうか……」

「あのね、昨日、風に面白いことを聞いたの」
彼女がふいに話し出す。
「遠くの山の上に、風の道があって、そこで風たちが競争してるんだって」

「風が競争?」

「そう。強い風も優しい風も、皆でどこまで早く行けるかを試すの。それを聞いて、ちょっと笑っちゃった」

彼女の声に楽しげな響きが混じっていて、僕もつられて笑った。
けれど、それは彼女の無邪気さに応じたものではなかった。
胸の奥に潜む言葉に形を与えられず、ただ微笑むことしかできなかった。






夕方になると、空が茜色に染まり風が少し冷たくなり始めた。秋が深まりつつあるのを感じさせる風だった。彼女がいなければ、この風もただの冷たい空気に過ぎない──彼女がいるからこそ、風が命を持っているように感じられるのだ。

彼女はふと欅の木の幹に触れ、その指先がゆっくりと幹の凹みや節を辿り、まるで木の内に眠る記憶を呼び起こすようにそっと撫でた。

「風がね……教えてくれたの」

彼女は遠くを見るような目で静かに言った。

「もう私がここにいられる時間は終わりだって……」

その言葉が耳に届いた瞬間、冷たい風が胸の奥深くまで吹き込んだ。心臓がぎゅっと掴まれたように痛み、息が詰まる。

「どうして……」

喉が震え、声が掠れる。何かを言おうとするたび、言葉が喉の奥に絡まり、空気の中に溶けていくばかりだった。

ふと彼女を見ると、彼女の輪郭が揺れていた。
夕暮れの光に霞んでいるのか、それとも、本当に風に溶けはじめているのか──。

彼女は視線を落としながら続けた。

「風は止まらないの。だから、私も止まることはできない。でも……君と過ごした時間は、私にとってとても特別だったの」

「嫌だ!」

気づけば思いが叫びとなって漏れ、自分の声ではないように響いた。
彼女は驚いたように目を見開き、その目の奥の何かが揺れたように見えた。

「風なんて関係ない!ここにいればいいじゃないか!」

僕の言葉は風の中で細かく砕け、欅の木の影に散っていく。


「私は風の子。風が行く場所にしかいられないの」

彼女の声は冷たいけれど優しかった。そしてその言葉は、どれだけ拒絶しようとしても、心の奥底にすとんと落ちていく。風に従うしかない彼女の運命が、あまりにも揺るぎなかった。

「だって……いくら何でも急すぎるじゃないか!」

風の音に押し流されそうになりながら、必死に言葉を探した。
けれど、彼女は消え入りそうな声で「ごめんね」とだけ囁く。
その声はとても遠かった。目の前にいるのに、もう届かないところへ行こうとしている気配がする。

「もういいよ……」

僕はぽつりとそう言い、欅の木の幹に背を預ける。目を伏せたまま、黙り込んだ。風が微かに頬を撫で、梢をざわめかせる音が耳に響く。胸の奥が締めつけられるような感覚だけが残り、言葉はどこか遠くへ逃げてしまったようだった。

彼女は何も言わない。ただ、立ち尽くす気配が欅の下に漂う。踏み締める砂利の音も、揺れる葉音の切れ間にも、彼女が戸惑っているのが伝わってきた。

「……君、そんなふうにしないで」

その声は、かすかに揺れていた。彼女がどうしていいか分からずにいるのだと、冷たい風に乗る言葉から感じ取れた。僕はそれでも顔を上げなかった。

「私は君に笑っていてほしい……」

その声に宿る切なさが、余計に胸を締めつけた。彼女が僕を見つめる気配が、さらに言葉が遠のかせる。

「怒ってるの?」

彼女の声が少しだけ近づく。

「怒ってなんかいない」

そう答えた自分の声は、どこか冷たい響きを持っていて、彼女の息遣いが少し途切れる音が聞こえた気がした。

その後の沈黙は、欅の葉音に押し流されていく。彼女は何かを言おうとして、また言葉を飲み込んだようだった。足元の砂利がかすかに鳴る音が耳に入る。その音だけが、彼女がまだそこにいることを教えてくれた。

「ごめんね……」

しばらくして、彼女の声がまた風の中に響いた。かすかで頼りなく、それでいて深く胸に刺さる一言だった。目を伏せている僕の耳には、その声の震えがかすかに伝わってきた。それを受け止めるべきなのだとわかっていながら、僕にはそれができなかった。


欅の葉が揺れる音が聞こえ続けていた。どれだけの時間が過ぎたのかわからないまま、彼女の気配は風の中で揺らぎ続けていた。

風が再び吹き、彼女の足元で砂利が小さく鳴る音が耳に届く。立ち尽くす気配が一瞬、ほんの少しだけ離れるような気がした。

「私の中にね、風が生まれるのがわかるの」
彼女の声が、風に溶け込むようにひそやかに響いた。


「その風は、留まることができないの。ただ吹いて、吹き抜けて……行き着くところなんて、きっとないのだけれど……」

僕はゆっくり顔を上げた。彼女は欅の幹にもたれるように立ち尽くしていた。風が彼女の髪を揺らし、その瞳の奥に、どこか迷いのようなものが見えた。

「本当に……今日でお別れなの……?」

ようやく絞り出したような僕の問いに、彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく微笑んだ。その微笑みは、まるで風に託された言葉のように儚く、美しかった。

「風は、自由だから。自由であることをやめることは、私自身であることをやめることなの。だから──」

その先の言葉は風にかき消された。彼女が欅の影の中に立つと、風がその体を纏うようにして吹き抜けていく。

「もう時間みたい……」

彼女の輪郭は、風に滲む水彩のように少しずつ、少しずつ薄れてゆく。
僕はどうしていいか分からず、ただ彼女に手を伸ばした。
触れたい、掴みたい──そう願った指先は、虚空をさ迷い、微かな冷たさを掬うだけだった。

「また会えるの!?」

僕は叫んだ。しかしその声は夕暮れの風に散って、茜色の空に溶けていく。

風がひときわ強く吹くと、彼女の影は揺らぎ、やがて崩れた。
その姿は黄昏に溶け込み、僕の目の前から消えていった。






空は茜から群青へと静かにその表情を変えつつあった。

残されたのは葉擦れの音と、風の冷たさだけだった。

風は彼女がここにいた証をもさらうように吹き抜けていく。

揺れる葉音は、彼女がかつて囁いた言葉の名残のようだったが、その意味をもう知ることはできない。

やがて光と影は滲むように溶け合い、深い闇が辺りを包んだ。

僕は胸の奥に残る微かな温もりを手放せないまま、彼女の消えた空を見つめ続けていた。


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