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ペットロス。自分でも意外なほど、ならずに済んでいる理由。

飼い猫が亡くなって3週間が過ぎました。
2002年6月。日本が自国開催のサッカーW杯に湧いていた最中拾われてきて18年半、ずっと一緒だった猫。これまでも2匹飼ってきましたが、1匹目は4年でいなくなり、2匹目は7年で交通事故死。一番長く一緒にいてくれたこの子が、最後を看取る初めての子でした。

さみしい。
確かに、さみしいです。
腎臓が悪くなってからの最後の1年は闘病生活で、いつお別れでも、と覚悟はしていました。何度か本当に危ない時もあったし、目に見えて弱っていった最後の1ヶ月は辛かったです。自力で歩くことも難しくなった昨年末。それからは、今日が最後かもしれない、毎日そう思って過ごしていました。

さみしくないわけなんか、無い。

それでも、今のところペットロスにはなっていないです。変わらず日常を送れているし、泣いたのも当日と翌日くらい。あ、お世話になっていた獣医さんからお悔やみの花をいただいた時(本当にありがとう)も泣きましたが、それくらい。

仕事は待ってくれない、というのもありますが、ロスにならずにいる大きな理由は、同居の母です。
母はしっかりとペットロス。毎日泣いています。当然で、自然なことだし、早く立ち直って欲しいとも思いません。とはいえそのままにしておくわけにも行きません。受け入れられるまで、支えてあげたい。そう思っています。

これが大きい。今の自分には、ペットロスの母を支える、という使命がある。だから、悲しみに浸っているわけにはいかない、そう無意識に感じているように思います。

「支えること」に、支えられている。

冷静にいえば、僕は、こういう生き方には割と反対です。「他人のお世話」に依存するのが日常で、大部分を占めるのは精神的にリスキー。自分のことは自分で、ある程度は支えるべき、と思っています。

だけど

「支えること」、に支えられている。

大き過ぎる悲しみに直面している、非日常な今は、これも悪くない。

四七日は今週金曜日。何をお供えしようかな。


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