ミステリのトリック集とコスパ重視―読書月記47
(敬称略)
最近もあるのかどうか分からないが、私が子どもの頃に、ミステリのトリックだけを集めて解説した本があった。もちろん、私が読んだのは子ども向けだ。犯人の名前はなかったと記憶しているが、トリックの紹介にはイラストがあるものが多く、それに加え、ご親切に作品名まで書かれていた。子どもの頃の私は、この本を読んで後々どんなことになるかなんて考えずに、この手の本を何冊か読んだ記憶がある。覚えていないものも多いけど、いくつかは強く脳裏に刻まれた。
以前にも書いたが、私はミステリをけっこう再読するけど、それは自分で読んで再読に値する、もしくはトリックや犯人を忘れたからもう一度読もうと思う作品であって、一度も読んでいないがトリックを知っている作品を読む気にはなかなかならない。だから、上に書いた本を読んだ影響でミステリ史に名を刻む作品でも数冊は手に取っていない。
その代表格は、クリスティの『オリエント急行殺人事件』。私はクリスティが苦手だが、それでも『スタイルズ殺人事件』『アクロイド殺人事件』『そして誰もいなくなった』『ABC殺人事件』などは読んでいるが、おそらく『オリエント急行殺人事件』だけは今後も読むことはないだろうと思う。カーの『ユダの窓』を読んだのも、カーの主だった作品を読んで、かなり後になってから。トリックは知っているけど、チャレンジしてみるか、というちょっとした決心をしてのことだ。
大人になってから、罪な本を作った人たちがいたものだと考えるようになった。もちろん、すぐれたミステリは、トリックや意外な犯人だけが魅力ではない(『オリエント急行殺人』が読み継がれているのは、そういった部分も大きいはずだ)。私は昨年の5月にクイーンの『九尾の猫』について書いているが、同書をすでに4回読んでいるのは、謎解き以外に強く魅力を感じているからだ。
ただ、ミステリがトリックだけではない、意外な犯人だけではない、と分かっているけど、それでも、あの手の本はダメだと思う。最近は聞かないが、図書館でミステリを借りると、人物紹介欄に「こいつが犯人」と書き込んであったという話がある。事実なのか、都市伝説なのかは分からないが、どちらにしても、嫌な話だ。映画好きの知人は、「どんでん返し」の有無さえ聞きたくない、自分に言って欲しくないと言っていた。年間400本ぐらい映画を観ていたその知人だって、「どんでん返し」だけで作品が成立していないことなど分かっているのだが、やはりそういった考えだった。
小説のあらすじにも似たようなものを感じる。ストーリーの面白さだけが小説の魅力ではない。登場人物の造型、主人公たちの葛藤など、それぞれが魅力を持っている。だから、優れた小説は再読に耐えるのだ。というよりも、再読に耐えない小説は、優れていないともいえる。しかし、だからと言って、小説のあらすじを、ストーリーを、その結末を、まだその作品を読んだことのない人に教えていいとは思わない。子どもの時、小説が結末に進んでいくことにドキドキしながら、その一方で、終わってしまうことへの寂しさ、悲しさを感じたことがある人もいるだろう。それを味わうためには、やはり何も知らない、白紙の状態も必要なのではないだろうか。
こんなことを考えるのも、「コスパ重視」という風潮、考え方があるからだ。映画やドラマの倍速視聴から始まり、難解な古典の漫画化、そして、世界の名作のあらすじをまとめた本。仕事などの関係で大人が仕方なく利用するのは分かるし、あくまで「入口」だからというのも分からないではない。例えば、『レ・ミゼラブル』など、岩波文庫で2000ページ超。これを完全制覇するのは大人でも難しい。だから、子ども向けにダイジェスト版があるのは理解できる。しかし、すべてのダイジェスト版を、本当に「入口」と考えていいのだろうか。そして最初に書いたトリック集みたいなものは、ミステリの知識を誇りたいだけの人には、コスパがよくて「いい本」なのかもしれないが、私にはそうは思えない。