清原なつのの『じゃあまたね』を読みながら、10代の頃の精神的「背伸び」について考える―読書月記52

(敬称略)

60代以上の人なら、1969年にヒットした『フランシーヌの場合』という歌を覚えている人も多いだろう。私の場合、歌詞の内容の詳細について知ったのは大人になってからだが、歌そのものと、抗議の焼身自殺ということだけは、子どもながら知っていた。

先日、清原なつのの自伝的作品『じゃあまたね』(kindle版)を読んでいたら、この曲の話が出てきた。『じゃあまたね』では、清原は個人的なことはもちろん、社会的事件、同時期の少女マンガや少年マンガで印象に残った作品に触れているが、『フランシーヌの場合』もそうだ。
この曲が誕生するきっかけとなったフランシーヌ・ルコントの焼身自殺は、飢餓で苦しむビアフラ内戦などに抗議するためだと言われている。そして、ビアフラについては、当時、週刊マーガレットに丘けい子が『ビアフラの悲劇』という作品を描いていることにも触れられている。ほかにも、公害を題材とした西谷康二原作、まちこ&ケンジ作画の『うち愛がほしかとよ』が1970年の少女フレンドに、萩尾望都の『かたっぽのふるぐつ』が1971年の『なかよし』に掲載されていたことも描いている。

10代後半になるまで少女マンガをほとんど読まなかったが、はっきりとした記憶はないものの少年マンガ誌にも社会派的作品が全くなかったわけではないので、少女マンガ誌にもこういった作品が掲載されているのは当然だろう。しかし、こういった作品がマンガ史のなかでどの程度触れられているのだろうか。おそらく、かなりの割合でこぼれ落ちているのではないだろうか。

今になって考えてみると、1970年頃の少年マンガ誌には、大人向けとも思える作品がかなり載っていた。もちろん、性描写などはないものの、題材的には、どう考えても子ども向けとは言えない、さいとう・たかおの『無用ノ介』、ジョージ秋山の『銭ゲバ』などがそうだ。1971年の「少年マガジン」に掲載された永井豪の『ススムちゃん大ショック』は単発マンガだが、今なら少年誌に掲載されることが絶対にないと言える作品だ。ある意味で、玉石混淆だけど、悪いことではない気がする。子ども向けでない作品は、子どもが読んでも、その時には分からないことがほとんど。それでも、本当に優れた作品は、とにかく印象に残る。それを自分の中で「問題」として抱え続けることで、考えるし、必要な知識を獲得したときに理解して、それが血肉になることが多い。

1970年頃には、小説の世界にはヤングアダルトという括りはなかった気がする。その隙間を埋めたのが、SF小説のジュブナイルであり、「24年組」の少女マンガだったと考えられる。そして集英社コバルト文庫は、1976年の刊行だ。それ以外では「子ども向け」と「大人向け」の二つだけで、13~14ぐらいになると「子ども向け」では飽き足らなくなり、「大人向け」に手を伸ばすしかなかった。だから、私は、子ども向けにリライトしたルパンやホームズから、いきなりエラリー・クイーンの『Yの悲劇』に入った。これぐらいならまだいいけど、当然のようにさらに「背伸び」をして、松本清張やほかの推理小説を読むことになる。そうなると、性描写も出てきて、すごくドキドキしながら読んだ。ただ、大人になって考えてみると、その「背伸び」も必要だった気がする。

いつごろからか分からないが、10代半ばを対象とする小説作品は増えた。ラノベの作品の多くはそうだろうし、ミステリー作家の作品でも、その年代を対象としているものがそれなりに書かれている気がする。「24年組」の少女マンガを「文学の代替物」と評する人もいたが、今では、そういった作品のような文学的難解さを含んだマンガは減少している気がする。
だから「背伸び」の必要はなくなった。ただ、「背伸び」が一切不要なのか、と問われれば、「不要」と私は言い切れない。あの「背伸び」が成長を呼び起こすことなどない、と言い切れないからだ。

なお、『ビアフラの悲劇』は、現在は「丘けい子の世界」というサイトで公開されていて読むことが可能だ。


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