失われた〝飢餓感〟と浮いた時間の行方―読書月記56

(敬称略)

前回、「人はなぜ本を読まなくなるのだろうか」というタイトルで現在の読書状況について思うところを書いた。きっかけは、三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)。ただ、「人はなぜ~」を書いた段階では同書の「まえがき」しか読んでいなかった。その後、本文もすべて読み終えた。そして、しばらくいろいろと考えていた。そのことを書いてみたい。

人類の歴史を振り返ると、読書をする環境は現在が一番いい。何よりも本が入手しやすい。日本だけに限っても、江戸時代の版木による版本や写本との比較はもちろんだが、印刷による紙の本の価格も、収入から考えると明治や大正、昭和初期と比較しても相対的に安く、文庫などの登場もそれを後押ししている。紙の本については都市と地方で入手しやすさに弱冠の差があるが、流通も良くなり、ネット書店の登場で格差は格段に減少している(電子書籍に関しては、全く差がない)。以前は書店の店頭にない本を探し当てるのが難しかったけど、現在はネット書店で検索すると類書がリストアップされることもあるので、見逃しも減少している。
新刊書だけでなく古書も同じだ。インターネット以前は直接古書店に実際に足を運ぶか古書店が送ってくれるカタログ、デパートなどで行われる古書市が頼りだったが、今は日本中の古書店の在庫から検索できる。古書は、古書店やブックオフなどの新古書店に加え、ヤフオクやメルカリなどの個人出品からも入手できるようになった。
それに、昭和の初期までは電気代が相対的に高く、夜に本を読むことを禁じられたりしていたがそれもない。女性や農家・職人には学問も読書も不要みたいなことを言う人もほぼいない。SNSやゲームなどを楽しむ人が増えているので、読書に関して言えばスマホを敵視する人もいるが、スマホは電子書籍にもなるので、ツールとしては読書を助けてくれる場合もある(多少、読みにくいけど)。
なのに、本の売り上げは減少し、本を読む人も減っている可能性が高い。図書館などの利用者が増えている可能性があるので、本が売れない=本を読まない、と言い切るのは難しい。それでも、本を読む人が増えている、とは考え難い。

スマホやコンピュータを媒介として得られる情報や娯楽が豊富であることは間違いない。ネット以前を知る私などには、夢の時代である。また、スマホが当たり前の世代にとっては、スマホ登場以前の不便さは想像できないのかもしれない(その手のことをテレビが番組にしていた)。
しかし、便利になったと同時に、失われたものがある。〝飢餓感〟である。面白いものを知りたい、いろいろと情報が欲しい、といった欲望こそが、かつてはあらゆることの原動力だったとも言える。そして、ネット登場以前は様々な工夫や知恵を絞って、そういった欲望を満たしていた。それを支えたのが、〝飢餓感〟だった。

思い出してみると、ネットで古書が買えるようになるまで、月に1度は、休日を使って神保町と高田馬場の古書店街を歩き回った。出張などで地方に行くたび、飛行機や電車の待ち時間を使って地元の大きな古書店に足を運んだ。
それが、楽になった。暑い日でも寒い日でも、家のパソコンで検索でき、注文すれば、家まで送られてくる。重い本を持ち帰った日が嘘のようだ。
しかし、そうやって浮いた時間を、使わなくて済んだ体力を、有効に使っているのだろうか?
(以前、ある人が(お名前は忘れてしまった)、江戸時代に比べ移動時間が格段に短くなっていることを指摘し、その時間を現代人は有効に使えているのか、と疑問を呈していたことを思い出す)。

知への〝飢餓感〟を知らないことは幸福なのか?
どんどん時間が浮くようになっているのに、なぜ有効に使うことは難しいのか?

いいなと思ったら応援しよう!