「一冊の本」を選ぶ―読書月記27
(敬称略)
私が本を選ぶとき最もお世話になったのは、篠田一士、中村真一郎、加藤周一の3人だが、そのなかでも最初に出会ったのは篠田で、もう40年前のこと。その篠田に「一冊の本」という4ページほどのエッセイがある。初出は『創』1978年3月号で、『読書三昧』(晶文社)に収められている。一時期浮かされたようにヘンリー・ミラーを集め読み漁った篠田が、『マルーシの巨象』を残してすべて手放した話が書かれている。その理由としては、『マルーシの巨象』に感じられた「霊気」が他の作品にないということをあげている。
篠田のように好きになった作家の本をほとんど読むという人がすごく多いとは思わないが、それなりにはいるだろう。私もその一人だ。外国の作家だとバルザックやドストエフスキーは、邦訳で読める小説はほぼ読んだ。日本のだと、夏目漱石や芥川龍之介、中村真一郎、辻邦生、佐藤さとるも小説はたいてい読んでいる。存命の作家では飯嶋和一、有栖川有栖。もちろん小説家に限らず、海外だと著作数は少ないがブルース・チャトウィンで、1冊だけが未読、日本では塩野七生も『ローマ人の物語』まではほぼ読んでいる(読み落としていたとしても1,2冊)。ただ、塩野七生の場合、そこから後は読んでいないし、買ってもいない。さらに言えば、それまでほとんどの著作を持っていたのも処分してしまった。手元に残したのは、単行本では『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』『海の都の物語』『続 海の都の物語』、文庫本では『ルネサンスの女たち』『神の代理人』である。これで充分というのが私の気持ちだ。
このなかでも最も気に入っているのが『チェーザレ・ボルジア~』である。著者自身にとっては若書きの部分もあるようだが、この作品に最も著者の〝熱〟を感じる。篠田の「霊気」とは違うものの、似たところもあるように感じている。
チェーザレ・ボルジアについて書いている人は、それなりにいる。中田耕治の『ルクレツィア・ボルジア』に出てくる(発表は塩野七生の『チェーザレ・ボルジア~』より早い)。あのフランソワーズ・サガンも『ボルジア家の黄金の血』という本を書いている。邦訳されていないだけで、外国にはまだまだあるだろう。マンガでは星野之宣が『妖女伝説』で描いているし、惣領冬実も『チェーザレ・ボルジア』を長きにわたって書いている(今年の1月に全13巻で完結した)。ウィキペディアでは他に4作の名前が上がっている。私が読んだのは、中田、サガン、星野、惣領の作品だけだが、塩野七生を越える人はいないと思っている。それも含め、塩野七生から1冊だけを残すとなると『チェーザレ・ボルジア~』になる。
ちなみに、沢木耕太郎の『敗れざる者たち』にも同じものを感じている。『深夜特急』もいいが、やはり『敗れざる者たち』以上に“熱”を感じる作品はない(『深夜特急』も文庫版は手元に残しているが)。
もちろん、こういったものには個人差があって、“熱”があっても若書きを否定する人もいるだろうし、『マルーシの巨象』にミラーファンの誰もが「霊気」を感じるわけでもないだろう。それでも、自分の好きな作家について、たまにこういった視点から考えてみるのも面白いものだ。年を経るにしたがって、違う作品を選択することもあって、なかなか楽しい時間が過ごせる。
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