この本がこの時期に出たのも、私がこの本をこの時期に読んだのも、“偶然とは思えない”―『カタストロフ前夜―パリで3・11を経験すること』(関口涼子/明石書店)

奥付の刊行日は、2020年3月11日。副題にも「3・11」とあるように、収められた3つの文章は、いずれも東日本大震災と関わっている。2019年12月20日に書かれた「あとがき」によると、3つともいずれもフランス語で書かれ、フランス語で刊行されており、邦訳はいずれも著者自身によるもの。ただし、邦訳時点ではほぼ手を加えていないということ。2番目にある「声は現れる」のみ、「文學界」2017年3月号に邦訳が掲載されている。

全体の2分の1を占めるのは冒頭の「これは偶然ではない」。
“前夜”である3月10日から始まり、11日の午前零時には電話で友人から4月に東京に戻る際に買い物を頼まれる。しかし、朝になってフェイスブックを開き、地震があったことを知り、状況は一変する。日本の家族に連絡がつかない。徐々に事態の重大さが理解できるようになったこと、いち早く原発の問題に気付いた友人がいたことなどが、淡々とした筆致で綴られていく。在仏日本人、日本と関わりの深いフランス人たちなどに関して様々に記されている。単なる自然災害と思われていた地震が、原発事故を伴うことで、フランスにおける風向きが変わったことなどもリアルだ。4月初旬に著者は予定通り東京に戻って、文章は4月30日で終わる。
海外に住んでいた日本人が当時の状況をこのような形で描く文章を読むと、改めて考えさせられる。

残りの二つは「声は現れる」と「亡霊食―はかない食べものについての実践的マニュアル」でほぼ同じ分量である。
前者は、ラジオ文化が充実したフランスに住む著者ならではとも言えるが、二人の近親者をなくす経験がベースになったもの。二度と声を聞くことができない人と声のアーカイヴが残された人、二人の人間の不在を巡る考察だ。
後者は、「作家にならなければ、料理人になっていた」と書くほど食べる行為に取りつかれた著者が「はかない食べもの」をキーとして、食について様々な角度から切り込んでいるが、もっとも重要なのが表題にもなっている“亡霊食”。ちょっと怖い文章である。

やはり「これは偶然ではない」が強い印象を残す。書名の“カタストロフ”という言葉が「これは~」の中に幾度となく出てくる。また、それよりは少ないが“前夜”という言葉も多い。
「わたしたちはいつでも、カタストロフの後か、常に来るべきカタストロフの前夜にいる」という文章には、ドキリとさせられた。平穏な日常の合間に“カタストロフ”が来るのではなく、カタストロフの合間に、平穏な日常があることを思い知らされる。

今度は、新型コロナウイルスの世界的感染というカタストロフについての著者の文章を読んでみたい。

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