【読書記録】ローマ人の物語ⅩⅤ ローマ世界の終焉 / 塩野七生 ①
塩野七生先生の「ローマ人の物語ⅩⅤ ローマ世界の終焉」を読み終えました。
このnoteでは東西ローマの分裂から西ローマ帝国滅亡までの要約を記録します。
西ローマ崩壊後については、別のnoteに記録したいと思います。
要約
テオドシウス帝の死後
キリスト教を帝国の国教にしたテオドシウス帝は、帝国の東半分を長男アルカディウスに、西半分を次男ホノリウスに継がせて紀元395年にこの世を去りました。
これまでも帝国の分割統治には前例がありましたし、テオドシウス帝も完全に分裂させるつもりはなかったと考えられています。
しかしこの後、ローマ帝国が統一されることはありませんでした。
これ以降、後世に生きる人々からは「東ローマ帝国」、「西ローマ帝国」と区別した呼び方をされるようになります。
ホノリウス治世下の西ローマ帝国
ホノリウス帝は16歳のときにテオドシウス帝から西ローマ帝国を引き継ぎました。
正直あまり有能な皇帝とは言えず、政治面は官僚が牛耳り、軍事面ではスティリコという将軍が支えていました。
スティリコは父がヴァンダル族、母がローマ人のため「反蛮族」と陰で呼ばれていたそうです。
しかし当時のローマ社会において誰よりもローマ人らしかったと塩野先生は言及しています。
彼は西ゴート族との戦いに幾度も勝ち、またアフリカの反乱鎮圧を成功させます。
しかし皇帝の側近であった宦官オリンピウスの陰謀により、死刑に処されます。
(ちなみにオリンピウスも後に処刑されます。)
スティリコの死により族長アラリックに率いられた西ゴート族は勢いづき、ついにはローマが包囲・封鎖されてしまいます。
アラリックはローマを恐喝し、莫大な財産の受け渡し、ゲルマン系奴隷の全開放という要求を飲ませます。
さらにその後、アラリック配下の西ゴート族は再びローマを包囲し、紀元410年に「ローマ劫掠」と呼ばれる蛮行を行います。
この事件では10万人のゴート族が5日間に渡って、ローマ市内での略奪行為を行ったと言われています。
西ローマ帝国は幾度も蛮族に痛めつけられ、なす術もない状態に陥ったのでした。
ヴァレンティニアヌス3世治世下の西ローマ帝国
ホノリウス帝の死後、西ローマ帝国はヴァレンティニアヌス3世(当時6歳)に引き継がれました。
幼齢であったため、実権は母のガッラ・プラチディアが握りました。
この時代には2名の軍人が並び立ちました。
一人が北アフリカ軍司令官のボニファティウス、もう一人はガリア軍司令官のアエティウスです。
ある時期に、ボニファティウスが北アフリカ独立を企んでいるという噂がガッラの耳に入ります。
真偽不明にも関わらず、ガッラはボニファティウスに召喚命令を出しますが、ボニファティウスはこの命令を拒否します。
スティリコが殺されたとき、召喚命令に応じたところ即処刑となった前例があり、ボニファティウスにとっては丸腰で皇宮に馳せ参じることは多大なリスクが伴ったと考えられます。
ガッラはこれに怒り、ボニファティウスのいる北アフリカに討伐軍を送ります。
ボニファティウスはこの軍を懐柔すると共に、現在のスペインに居着いていたヴァンダル族と交渉して兵力増強を図りました。
ヴァンダル族はこれを好機と見たのか、10万人で北アフリカに渡ってきました。
流石にまずいと思ったボニファティウスは討伐に乗り出そうとしますが、北アフリカで根強い信者を抱えていたキリスト教一派であるドナートゥス派も蛮族の味方に付き、手がつけられない状態になります。
ボニファティウスは結局アフリカの地を放棄し、イタリアに逃げます。
イタリアに逃げてきたボニファティウスを、ガッラ・プラチディアは責めもせず許しました。しかも「貴族」の位を与えています。
この時期、ガッラにとってはアエティウスの方が嫌な存在であり、ボニファティウスに討伐させようと企んでいたのです。
北アフリカがヴァンダル族に奪われ、その他にもブリタニア、ガリア北部・中部、ヒスパニアの大部分が多様な蛮族に奪われてボロボロの状態でした。
そんな中でローマ帝国は内戦に踏み出したのです。
内戦は2年続いた後、両大将の決闘で勝敗を決めることになりました。
決闘にアエティウスが勝利し、ボニファティウスは亡くなりました。
そしてボニファティウス配下の兵士は全員アエティウス軍に吸収されました。
アエティウスは皇帝位につくこともできる実力を持っていましたが、そうはせず、逆にガッラに許しを乞いました。(形式上は)
そうして「軍総司令官」に任命されたのでした。
アエティウスにとっては当時の西ローマ帝国で皇帝になることは、リスクが多すぎる割にメリットが感じられなかったのかもしれません。
フン族とアッティラ
ローマ帝国の衰退期はゲルマン系の蛮族に荒らされまくった時代でしたが、その元凶となったのはアジア系のフン族と言われています。
元々ゲルマン系の蛮族は、ローマ帝国領内で略奪しては自分達の土地に帰っていくというスタイルでしたが、いつしかローマ帝国内に居着くようになりました。
というのも自分達の土地もフン族に荒らされ奪われていたため、押し出されるような形で移住を余儀なくされていたのです。
フン族は「蛮族の中の蛮族」と呼ばれ、ゲルマン系民族からも大変恐れられていました。
そしてこのフン族がいよいよローマ帝国内に侵入し、幅を利かせるようになってきました。
族長アッティラに率いられたフン族はまず、東ローマ帝国を荒らしまくります。
首都コンスタンティノープルに迫ったアッティラは法外な要求をします。
当時の皇帝だったテオドシウス2世はこの要求を全部飲みます。
そんな状況の中、西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌス3世の姉ホノリアがアッティラに求婚します。
アッティラはヴァレンティニアヌス3世に使節を送り、ホノリアとの結婚を申し入れますが、当然西ローマ帝国はこれを拒否します。
これにより、アッティラの次なるターゲットは西ローマ帝国になります。
アッティラは西ローマ帝国に侵入し、荒らし回りながら西へと進みます。
対する西ローマ帝国はアエティウスを軍総司令官とし、対抗します。
「カンピ・カタラウニチの会戦」という決戦にて、アエティウス軍はアッティラ軍を破ります。
しかしこの戦闘の決着後、アエティウスはアッティラ追い詰めることができたはずなのに、取り逃しました。
その理由は判明していません。
一度は逃げたアッティラでしたが、翌年また西ローマに侵入してきます。
今度は北イタリアを荒らしまくります。
略奪を繰り返しましたが、今度はアエティウスは動けませんでした。
彼が本拠地にしているガリアにて、蛮族をうまく動かせなかったからと推測されます。
結局講和には元老院とキリスト教会が乗り出すこととなります。
額は不明でしたが多額の金で解決したと思われます。
しかし、法皇レオ1世が説得したということになり伝説になっています。
その後アッティラは突然死し、後継者争いによりフン族は弱まり霧散してしまいます。
ヴァンダル族によるローマ劫掠
アッティラの死後、西ローマ帝国は自壊の道を進みます。
ヴァレンティニアヌス3世は首都ローマに訪問しましたが、そこにアエティウスもやって来ました。
アッティラに好き勝手やらせていた上に謝りもしないアエティウスに怒ったのか、ヴァレンティニアヌス3世はアエティウスを剣で刺し殺します。
こうして有能な軍人がまた一人ローマから消えます。
ヴァレンティニアヌス3世も翌年、アエティウス配下で軍務に携わっていた兵士二人に殺害されます。
そんな折、北アフリカを手中に収めていたヴァンダル族がイタリア半島のオスティアに姿を表します。
オスティアからはオスティア街道とテヴェレ河でローマに繋がっているため、ここに蛮族が現れたということはローマ市民にとって大変な脅威でした。
この蛮族との交渉に向かったのは、アッティラとも交渉を行ったレオ1世でした。
彼は以下の条件を提示し、ヴァンダル族は合意しました。
キリスト教の教会とその関連施設は、略奪の対象外とする
抵抗しないものは殺さない
捕虜には、拷問しない
合意の元、ヴァンダル族は実にシステマティックにローマから略奪行為を行いました。
暴力に訴える必要もなく、ローマ市民に指示を出して金品を持ち去ったとされています。
また人質として皇女数名も連れ去られました。
西ローマ帝国滅亡
ヴァンダル族によるローマ劫掠の後、皇帝は入れ替わり立ち替わり状態になります。
その中でマヨリアヌスという皇帝はアフリカ奪取を目論み大規模な造船に乗り出しますが、ヴァンダル族により燃やし尽くされるという悲劇に遭います。
また東ローマ帝国主導の東西連合軍で改めてヴァンダル族撃破を目指しますが、この時も艦隊が燃やされ失敗に終わります。
この東西連合ののち、西ローマ帝国は権力闘争のため内戦状態になります。
何人も皇帝が擁立されては殺されます。
見かねた東ローマ帝国はユリウス・ネポスを西ローマ皇帝として推挙します。
これに対して官僚オレステスを中心にした勢力が反対します。
オレステスは自身の息子ロムルスを帝位に推挙し、元老院に承認させました。
ロムルスは皇帝就任に当たり、ロムルス・アウグストゥスと名乗りました。
なおロムルスはローマ建国の祖と同名であり、アウグストゥスはローマ帝国初代皇帝の名です。
皮肉にも、ローマ帝国最後の皇帝は二人の祖の名前を併せ持ったのでした。
ロムルス・アウグストゥスの皇帝位に反対したのは、西ローマ軍で働く蛮族出身の将軍たちでした。
彼らは自分達にも自由にできる土地を要求していましたが、オレステスに拒否されていました。
彼らはオドアケルを頭目にし、武力闘争に出ます。
結局オレステスは敗れて殺害されます。
ロムルス・アウグストゥスは殺害されず、ただ引退させられました。
その後、誰も西ローマ帝国の皇帝位には就きませんでした。
こうして西ローマ帝国は紀元476年に滅んだのでした。
他国や蛮族による大規模侵略ではなく、内戦の末に帝位が空白のままという状態が続き、誰も知らない間に実は帝国が滅んでいたのです。
建国の都市とされている紀元前753年から数えて、1229年後の出来事になります。
帝国が滅んだとはいえ市民の生活はそのまま続きます。
しかし国を治めるのはローマ人ではなく、蛮族となります。
彼らは皇帝ではなく、ゲルマン人伝統の「レックス(王)」を名乗ることになるのでした。