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いいものが作れているか確認する

帰宅途中、駅のホームでふと広告のマンガ絵に目が留まった。
別に下手な訳でもなかったのだが、この描き手は楽しい気持ちで描けたのかと考えてしまった。
あまりに忙しいと、なんでも効率よく捌くことに意識が向いてしまう。
そんな描き手の気持ちが薄ら感じられた。
モヤモヤ考えている内に、あれ、俺はちゃんといいものが作れているのか、と思った。
よし、文章化して気持ちを整理しておこう。

例えば今まで書いてきた日記を振り返って、本当にこの内容がいいと思って投稿できているかと自分に問うと、見事にできていないものが多い。
ちょっと急だけど、仕事のことも振り返ってみた。
気付けば10年経っているオフィスの設計をしていて、自分が納得できるものが作れるようになるまでは時間が掛かった。
「よし、もう作れるぞ!」と思っても、誰かの言葉によってその自信は崩されて、みたいなことを何度か繰り返して、ようやく自分自身が「よし!」って思えるレベルのものが作れるようになったと思っている。

でも日記はどうだろう。
「これだったら読み手にも“面白い”って感じてもらえそうだ」って思えるものは、全然まだ書けない。
今、勢いのままに書いているが、今回の日記はまぁまぁいい線をいっているように思う。
あくまでもいつもよりってだけだ。

この「いい線いってる」と何故感じるかというと、「書き起こしてモヤモヤを整理したい」と自分自身を救おうとしているからだ。
自分を救おうとするものは、共感を得やすいんじゃないかなぁって思う。
自分のためになっていないと、誰かのためになる可能性が0%かもしれないが、自分のためになっていれば、地球上で少なくとも自分だけは味方になる。
もし自分が味方になっていれば、町とかで周りを見渡してほしい。
みんな「人」という同じ生物なのだから、パンダはみんな笹が好きなように(しょうがなく食ってるだけかもしれないが)、人も感じ方が共通しているところがある。
だから、自分のためになっていれば、それは誰かのためになるのだ。

あ、でもふと大事なことに気付いた。
自分のために作ったりする時に「楽しい」という気持ちを置き去りにしてはならない。
『自分の「楽しい」のため』に行う。
心のモヤモヤが日記によって晴れていけば、当然楽しい。
晴れていかなければ楽しくない。
自分の楽しい気持ちがあれば、さっき書いた通り、誰かも楽しいと感じるのだ。

ただ注意しなくちゃならないのは、何かを生み出した瞬間だけはよくて、少し時間が経ったら、なんだこりゃってなることがある。
それをその時に判断するのは難しい。
でも、いい方法がある。
「これを明日以降も見返したい?」
と自問自答をするのだ。
「はい」と答えられるんだったら、きっとそれは誰かにも伝わるはずだ。

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