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「考えるな感じろ」の写真はいいのか

「あ、懐かしいなぁ」『パシャリ』
「なんか、面白いなぁ」『パシャリ』

深く考えずに撮っていた。
何かを感じて撮って終わり、みたいな。
これはただの「反応」である。
「思考」はなかった。
まるで人の家に近づくと防犯用に照明が光るあれみたいに、面白いのに検知してシャッターが自動で押されるイメージだ。

そもそも、何故この内容を書こうと思ったかというと、SNSに写真を載せようと思った時に、その時の気持ちや考えがあまりに少なく、全然書けなかったからだ。
撮ったものを目でちゃんと見ていなかったし、なんで撮りたくなったかを、考えていなかった。
たまには反応して撮るだけでもいいのかもしれないけど、ちゃんと考えて撮るという行為を、当たり前な気もするけど、やらなきゃなぁと思った。


映画「未来を写した子どもたち」を見た。
ぼくの好きな写真家、幡野広志さんの本で紹介されていたからだ。
あらすじは、インド・コルカタの売春窟に暮らす子ども達に、女性写真家がカメラを渡して、写真教室をはじめる。彼女は子ども達を救おうと決意をし、学費を集めるために、子ども達が撮った写真で展示会を開こうと奔走する、といった話だ。

この映画で印象に残ったのは、写真教室で子どもたちに、撮った写真の説明をさせるところだ。
特に子ども達の一人アヴィジットが、まだ10歳ぐらいなのに、写真についての考えを事細かに説明していて、「言葉で考えをしっかりと説明ができると、いい写真に繋がるんだな。」と思った。

少し話は逸れるが、ぼくの仕事、オフィスの内装設計で、インテリアのCGパースを見せながらお客さんに説明するのって難しいよね、と設計部でたまに話題になる。
写真とパースの共通点は静止画という点である。
形や色への身勝手なこだわりをお客さんへ伝えても「で?」ってなるので、お客さんに合わせてカメラアングルや添える説明は変わる。
だから写真も、誰に向けてなのかを考えなくてはならないのかもしれない。

「パース」でも、「写真」でも、人の情緒に触れるものにするためには、やなり「なんとなく」はよくない。
どちらも静止画で、さらに言葉も無い分、その写真に考えを詰めなければならない。
その考えが相手に響けば、写したものにも、写す人にも興味が湧く。
なんでこの写真を撮ったのだろう、というように、
その写真の理由が「いや、なんか面白くて」とか「構図を気にして」とかだと、撮った人に興味が湧かない。
だから写真を撮るぼく自身の考えが必要なのだ。

こんなのを書きつつ、歯を磨きに洗面台に行くと、風呂上がりでパジャマ姿の奥さんが洗面台の前にいた。
化粧水を顔に塗っていたのだが、鏡が曇っていたので、鏡に映る顔に目がいかず、奥さんの手に目がいった。
奥さんはしっかりものだ。
いつも顔に何かを塗る時は、決まった動作を行っているように思う。
単純にゴシゴシではなくて、鼻の下、顎下などもしっかり行き届くように、さらに結構なスピード感で行う。無駄がない。
何度も言うが、奥さんはしっかり者だ。
故に、行動一つ一つに思考が行き届いているように思う。
「イヤホンで音楽を聞くと、考えるのに邪魔で嫌だ」と言っていた。
ぼくも奥さんと出会ってから、音楽を聞く機会が減った。

ちゃんと考える癖をつける、というのは奥さんと写真に学んだことの一つだ。

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