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BRASIL
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知の集積を少しの間でも忘れると、今まで積み上げてきた知識を無くしてしまうような気がする
日曜日鍛え抜いた身体に月曜日ピザとコーラを入れるみたい
だから、積み上げた知識は何かの形に残さないといけない。
人に見られるかどうかは置いておき、まず自分がいつでも見える位置にそれがあることが重要である。私はただ力の誇示として体力や筋力を結果に残す行為に悲しくなる それは記録でしかないからだ(失われていくものに対しての哀愁)
知識を形に残すということはつまり、知の実践、また他者との共有財産であるという点で社会と連結をする接点を持つということである。
人と人は知識の共有によって繋がり、交流の幅を広げていく。形は何だっていい。工具、料理、紙飛行機の上手い投げ方、言葉、本、レコード。
あるいは、自分の不安の避け方を人と共有するとか。知恵以上知識未満のものも他者と共有し両者の中で正しさを確認したならば、それは知識となり得る。知識の贈り合いはコミュニケーションを図る際非常にスムーズかつ有効な手段となる。
つい最近気づいたのだが、レコードは優れた知識の共有手段だ。プレイヤーとこれだけで、言語、リズム、歴史、または生活環境の一部を知ることができる。また、人に送ったり、不特定多数の集団に一度で共有することが出来る。「読む」のではなく「聴く」のがいい。誰でも模倣が可能であり、回数に制限が無く、大量生産が可能であり、一部の名盤と呼ばれる認知度の高いもの以外、安い。
これほど便利な音盤も、今は別の代替え品が浸透しており手に取られることは少ない。ただ、一時代前の知識だけが残った。「ロック」「フォーク」「テクノ」「ラテン」「ブラジル」に分けられたレコードラックは、少数の文化人達によって受け取られ、小さく人々の記憶に刻まれてゆく。
レコードに針を落とすと、風と光の間に知の巨人が生まれて、僕の耳に足音を残していく。
そんな感覚が好きなのかもしれない。
いつか仕事が終わったら、2人でベネズエラに行こう 何があるか知らないけど
そこにあるレコードを聞いて カリブ海の沿岸で抱き合いたい