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1982年生まれ。自慢もない人の20代前半の頃。



ゲーム会社での仕事

大学1年の冬、2002年2月に就職した僕は、それこそがむしゃらに仕事をしました。

広報PRの仕事

当時は、コンピューターゲームの専門誌が多数出版されていた時代です。出版社・編集部との交渉の末(具体的には飲み)、取扱いゲームメーカーの大特集や別冊出版などに、何度かこぎ着けることが出来ました。作家さん・イラストレーターさんのインタビューやイラストの段取りも、広報部門の仕事です。クリエーターさんは、表現を大切にしますので、誌面上の取扱いに齟齬が無いかをチェックすることに精神を集中していました。

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広報PRセクションの責任者になる

就職して1年後、部署移管と当時の上司が異動することになったため、広報PRセクションの責任者に任命されました。厳密に説明すると、ゲームソフトの予算管理、通信販売、そしてPRをグループ内の新設会社へ移管することになり、その会社の執行役員に就任しました。グループ全体の年商で10億円以上、広告販促予算だけでも年間数千万円~1億円程度はある規模です。責任者として、広報PR計画の策定と実行。雑誌広告やフライヤーの作成手配、入稿。ユーザーイベントの開催など。そして、課員採用とマネジメント。二十歳そこそこの僕には、非常に濃厚で貴重な経験でした。

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電撃姫

しかし、コンピューターゲームはニッチな業界です。果たしてこのままこの業界でキャリアを伸ばすことが妥当であるのか疑問に思っていましたし、出世もして鼻高々な勘違い青年でしたので、他の業界で腕試しをしてみたくなりました。

ホリエモンを知る

2004年。プロ野球球団の買収で名乗りを上げた、あのIT寵児がメディアを騒がせていました。
そうです。堀江貴文ライブドア社長(当時)です。

僕はたちまち彼のファンになりました。切れ味鋭い物怖じしない発言、あれは当時なりの演出があったのかもしれませんが、僕には輝いて見えました。僕もせっかく生きているのだから、彼みたいになりたい。なれないにしても、彼の業界で夢を見てみたい。そう思いました。

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堀江貴文氏の著書(蔵書)

「ヒルズ族」そんな言葉も耳にしました。ならば、六本木ヒルズに入居しているIT企業へ片っ端からエントリーしてみよう。その結果、当時22階に入居していた株式会社サイバードの選考を通過し、採用内定となったのです。


六本木ヒルズ企業への転職

サイバードへの入社

高田馬場の雑居ビル勤めから、六本木ヒルズ勤めへ。ヨレヨレのシャツズボンから、ストライプのスーツへ転換です。前職が部下持ちの責任者から、一番年下の平社員になっちゃいましたけど、なかなか成り上がったなと当時は思っていたものです。

ガラケー時代の仕事

配属されたのは、NTTドコモやKDDI、Vodafone(のちSoftBank)といった通信キャリアとの交渉部門でした。当時はガラケーコンテンツの全盛期であり、公式コンテンツ(i-modeやEZwebなど)に採用されればマネタイズすることが出来たため、コンテンツ企業にとっては、通信キャリアとの関係が生命線だったのです。当時のサイバードは、上場していたもののベンチャー気質のある企業で、経営陣までの距離の近さが良さでした。コンテンツの提案をして通らなかったり、辛いこともありましたが、前職よりはオープンな業界に勤めることが出来たので、常識の補正はよく出来ました。

堀主知ロバート社長(当時)、高木マネジャー(当時)、ありがとうございました!

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20代前半の頃

あの頃を振り返ってみて

20代前半は、自分もいずれはBigになれると根拠もなく信じていた時代でした。25歳のときにあの会社へJOINするまでは。
この先は、また改めるとします。


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