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考える。
毎日投稿21日目。今年も残り11日。
毎日投稿を始めてから3週間が経ちました。早いですね、、
今年も残り10日楽しむぞー!!
「忘れものしました。なので走ります」
今日サッカーの練習前に中2の選手に言われた。
はにゃ??????
どういうこと??????
忘れ物をしたことと走ることに何の因果関係があるのだろうか。私の頭にははてなマークがたくさん浮かんだ。
1週間前から新たなカテゴリーで指導しており、最近関わり始めた選手から発せられた言葉だ。
きっと、前のコーチは忘れ物などがあれば罰として「走る」ということをさせていたのだろう。
一昔前のいわゆる”昭和の指導”では当たり前だった。
忘れ物をすれば「罰」があり、負ければ走らされ、赤点を取れば坊主にさせられた。
今の時代であれば、「パワハラ」と言われる指導も一昔前では当たり前だった。
自分の中学時代を振り返ってみても、「罰」があった。
個人のミスを連帯責任だと言われ、全員で罰を受けることも多々あった。
何かのミスに対して、「罰」を与える方法は、確かに外発的動機付けとして即効性があり、ミスが減ることも考えられる。
しかし、私はそれを上回る弊害があると思う。
それは、「考える」ことを放棄してしまうこと。
ミスを起こしたら罰を受ければよいと学習する。
そうすれば、自分がどうしたいか、どのような対処法があるかなどを考えなくなってしまう。
「罰」を受けることで、本質であるはずの問題解決ができなくなってしまうのだ。
最初の中学生の例で考えれば、
忘れ物をした事実に対して考えるべきは、
忘れ物をしたという事実を受け止め、どうすれば良いか、どう対処するかである。
忘れ物をしてしまったという”問題”と向き合い、解決していくことが求められるのだ。
しかし、忘れ物をしたという問題に対して「罰」を受けることで、問題解決ができなくなってしまう。
考えるべき視点(問題の本質)は、
「なぜ忘れてしまったのか」
「次から忘れないためにどうするか」
「忘れ物をどう代用するか」
などである。
忘れ物をしてしまったから「どうするのか」が重要なのだ。
人に借りることができるかもしれない。
代用できるものを見つけられるかもしれない。
社会に出ても同じではないだろうか。
何かミスをしたときに、まずは謝罪し、どうするのかを考える。
ミスをしたからと言って、きついことをしても、坊主にしても何の問題解決にもならない。
「罰」に逃げることは思考を停止させてしまうということだ。
大事なのは問題にどう向き合うか。
答えは何通りもある中で、どう考えるか。どう考えさせるか。
ここに教育的価値があるのではないだろうか。
罰に逃げることは簡単だ。
しかし、ミスと向き合い、どう対処するかを”考える”ことに意味がある。
ミスに対して怒鳴るのではなく、対処法を導き出してあげることが指導者に求められる。
考えを引き出してあげられる指導者になりたい。