No.76 暇と退屈に向き合うこと
みなさんこんばんわ。Dai/Frelanです。
今日は(これからは)余計な前段をなくして、本題に入る形式に変えようと思います。では早速ですが、今日は「暇と退屈に向かうこと」について。
なぜ「暇と退屈に向き合うこと」を書くのか?
まずは、「暇と退屈に向かうこと」について書こうと思ったきっかけから。
前回も取り上げたので、またかと思われるかもしれませんが、こちらの本を読んでいるためです。
少し小難しい話になってしまうのですが、暇と退屈の倫理学では「退屈を誰の生活にも訪れる(すぐ身近にある)もの」と説明しています。電車を待つ時間はもちろん、充実してるように見える会食でさえ退屈をしている。と。(これ以上はネタバレになってしまうので、このへんにとどめますね)
そしてこの文章を読んで、私は「満たされないなにか」に照準をあわせられた気がしました。
ストレスに感じるあれもこれも「暇と退屈」が関係している
そして私は、身近にあるストレスのほとんどに「暇と退屈」が関係しているのではないかと思っています。
「上司が自分のことを評価してくれない」という思いも、「なんとなく力になれていない」という無力感も、「友人が予定を急にキャンセルしてきた」という孤独感もすべて、暇と退屈な時間がなければ発生しえません。(前段で触れたように暇と退屈が生じ得ない人がいないため、こういったネガティブに出会わない人がいない)
「暇と退屈」への向き合い方
非常に稚拙な結論にはなりますが、私は「暇と退屈を如何に受け入れるか」が大切だと思います。
私の経験をもとにすると、「なかなか実力を発揮できていない」という思いが稀に訪れます。そして、こういったネガティブな感情が生じないように、もっともっと実力を積むこともできるでしょう。
ただし問題なのは、「また新たな暇と退屈が訪れ、ネガティブな感情が生じ得る」ということです。私は割と効率的に物事を考えてしまうほうなので、その都度対策を講じることには否定的です。
そして、「暇と退屈は受けれてしまう」ことが重要なのではないかと考えています。受け入れてしまえれば、「ああ、この感情ね。知ってる知ってる」といった感じで受け流せると思うのです。
では今日はこのへんで。
調子がいい日があれば、うーんなんだかうまくいかないなという日もありますよね。
あまり深く考えず、散歩でもして寝ましょう!今日もお疲れ様でした。
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