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知り合いと他人のはざま
人どうしはどこから「知り合い」になるのか。
またどうでもいいことを考え始めている。
知り合いであれば、それほど親しくはなかったとしても、会釈をしたり、「どうも」とあいさつしたりできて、すっきりはできる。
ただ、毎日顔を見ているのにもかかわらず、「そういえばこの人を知り合いだと思ってはいけないんだった」と毎度ハッとさせられるような人が私にはいる。
それが、毎日行くコンビニの店員さんだ。
コンビニ店員と客は、レジでのやりとりに限定された人間関係だ。
「真ん中のレジどうぞ」
「コーヒーMサイズで」
「400円のお返しです。ありがとうございました」
こういうコンビニでのあたりまえのやりとりを、何度続けても私と店員さんの間には何も積み重ならない。関係が深まったりはしない。
2年同じコンビニに通ったからって、店員さんに得意顔で、
「ちょっと負けろよ。親友だろ」
とか言う客は気持ちが悪い。こんな奴はダメである。
コンビニの店員さんとは、毎回関係性がリセットされる。
それが客とコンビニ店員との健全な距離感だ。
しかし、そのような、ある意味での「安定」を脅かす場面が日常には実は存在しているのだと気づかされる時がある。
それが、「出勤時の私服のコンビニ店員さんを信号待ちの向こう側で見かけてしまうとき」である。
「あれ?あの人どこかで見たことあるな。一応、あいさつしておこうかな」
と、目を合わせにいって会釈しかけるその瞬間に思い出すのだ。
「この人、コンビニの人だ」
そして、あわてて目をそらし、何にも気づいていなかったかのような能面顔で店員さんとすれ違うのだ。
危険な瞬間である。会釈してしまったらもう「知り合いゾーン」に片足をつっこんでしまうことになりかねない。気持ちよく、さばさばと「店員と客」の関係を続けることが困難になってしまう。やはりあの制服が重要なんだろうなあ。店員と客のやりとりの儀式化にユニフォームは一役買うんだなあ。
知り合いと他人の境界線にいるコンビニ店員さんは、そういう意味で稀有な存在である。