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LGBTにおける歴史戦2

次に見ていきたい事象は、ペドフィリアについてである。Xにおいて「#ペドフィリア差別に反対します」というハッシュタグがトレンド入りし、激しい議論の応酬があったことを記憶している人もいると思う。『イン・クィア・タイム−アジアン・クィア作家短編集』の帯文を書いた小説家の王谷晶氏がペドフィリア差別発言をしたとして、この本の翻訳者の村上さつき氏たちが出版社に抗議したのがきっかけだった。

『イン・クィア・タイム−アジアン・クィア作家短編集』

王谷氏の発言の趣旨は、「LGBTQのQにはペドフィリアが含まれる」とのデマが広がっているというもの。こうした陰謀論が差別や恐怖心を煽り、社会を損壊していくというのだ。

それに対し、村上氏やそれに連帯するLGBT活動家たちの主張は、実際に犯罪に乗り出すチャイルドマレスターと、ただただ子どもたちに性的魅力を抱くだけのペドフィリアは違うこと。全ての差別に反対するなら、こうした性的マイノリティも排除してはならないというものだった。

両サイドに分かれたSNS上のやりとりは外野からも罵詈雑言が投げかけられ、王谷氏は謝罪の上、ツイートを撤回することになった。それでも村上氏は攻撃をやめず、出版社に帯文の破棄を求めて詰め寄ったが、X社によってアカウントを凍結された。王谷氏も鍵をかけて引きこもってしまい、予定されていたトークイベントも体調不良を理由として中止となった。

実は王谷氏は、幼少期に性暴力を受けた被害者だった。村上氏たちは性暴力サバイバーの王谷氏に対し、「ペドフィリア差別反対!」と吊し上げていたのだ。フラッシュバックに苦しんだ王谷氏は、9月4日にアカウントを削除した。


ここまで読んだ読者は「やれやれ、またLGBT活動家によるキャンセルカルチャーか」とため息をつくだろう。しかし、事はそう簡単ではない。現在LGBT活動家内では、LGBTQの中にペドフィリアが含まれるかどうかで意見が割れている。含まれる派と含まれない派があり、王谷氏に罵声を浴びせたのは「ペドフィリアはLGBTQに含まれる派」のLGBT活動家だったのだ。どうしてこのような混乱が生じるのかというと、その原因もやはりLGBT活動家にある。言葉巧みにセクシュアリティの定義を変えてきたことのツケが回っているのだ。


※Qには2つの意味がある。
一つは、クエスチョニング。自分の性自認や性的指向が決まっていない/あえて決めない人たちのこと。
もう一つは、クィア。LGBTだけでなく、そこからこぼれ落ちた全ての性的マイノリティを指す言葉。


歴史を振り返ると、ゲイ団体とペドフィリア団体は共に活動してきた経緯がある。自己努力によって変えられないセクシュアリティを持つ点においてはゲイもペドフィリアも同じであり、共感する間柄だった。ところが1994年、国際レズビアン・ゲイ協会は、国連に加盟させてもらうために、これまで共に活動してきたNAMBLA(米国少年愛者団体)を切り捨てる。ゲイは、自分たちが一級市民として生き残るために、都合の悪い彼らを排除したのだ。ゲイは救済されるべき差別の被害者であり、一方のペドフィリアはただの性的倒錯者にすぎないといったイメージは、こうして作られていく。「性的指向」と「性的嗜好」を分ける分類方法は彼らの生存戦略として考え出されたものだった。

駒澤大学教授の山口浩氏によると、もともと1960年代にスウェーデンのUllerstamがエスニックマイノリティになぞらえて初めて「性的少数者」の概念を提唱したとき、その中にはこれら性的嗜好に関する「少数者」も含まれていたという。

山口氏は《要するにいいたいのは、当初は含まれていたにもかかわらず、現在、多様な「少数者」の中で一部ないし全部の性的嗜好を除いているのは、「何を守るべきか」に関する意図的な選択だということだ》と問題点を浮き彫りにする。つまり、社会学で言うところの切断操作が政治的に成されたということだ。


人権の線引きは恣意的

セクシュアリティ規範は時代によってコロコロ変わる。ジャニー喜多川氏問題で積極的に発信している漫画家の小林よしのり氏は、《ジャニー喜多川がやっていた「美少年愛」という性癖は、「今ならもう許されることではないし、変質者と言うしかないが」、江戸時代なら咎められることはなかっただろう》とブログで論を展開する。そして《拒否することも可能、逃げることも可能、警察に訴えることも可能なら、強制性がなくなってしまう。唯一、強制性を訴えるなら、「グルーミング」しかないが、子供には「主体性」が全くないのか?子供を預けた親にも「主体性」が全くないのか?》と、これまで子どもの性的自己決定権を擁護してきたリベラル派の矛盾をつくのだった。

小林氏は、役者修業中で舞台に立つ前の10~17歳くらいの少年が体を売る江戸時代の「陰間茶屋」などを紹介しながら、男色が盛んだった薩摩が幕末においてお国の文化を中央に持ち込んだため、明治になって再び学生の寄宿舎で大流行した風習を解説する。こうした伝統の継承線がジャニーズ事務所にはあるという。そしてなぜ日清・日露戦争では慰安所がなかったのかを紐解く。それは、その頃までは男色が当たり前であり、慰安所を作る必要がなかったからというのだ。このような兵同士の愛の絆の強さこそが、清やロシアを相手に日本兵が勇敢に戦った最大の背景だったのではないかと小林氏は考察する。陸軍少佐だったゲイバー『やなぎ』の故・青江のママが証言するように、実は太平洋戦争においても軍隊内で男色は行われていたことがわかっている。ジャニー喜多川氏は1931年生まれ。そうした時代に生き、2019年に87歳で亡くなっている。現在の価値観で過去を断罪してはならないという小林氏の主張は『戦争論』から一貫している。


小林よしのり著『日本人論』

時代は一周した

一旦切断したペドフィリアが自分たちの仲間だと思われることは得策ではないと、LGBT活動家たちは火消しに躍起になっている。ゲイでジャーナリストの北丸雄二氏や弁護士の太田啓子氏は「ペドフィリアがLGBTQに含まれるはずがない」と強弁するが、それは独りよがりの解釈にすぎない。すべての性的マイノリティを包含する概念がQであるなら、ペドフィリアは当然その対象となる。「不都合な真実」であってもそこは認めなければならない。

東京大学教授でクィア学者の清水晶子氏は《ペドフィリアはセクシュアリティの一つだと思いますし、ペドファイルはその意味ではセクシュアルマイノリティです。それは否定できない。そのことと、性暴力や性虐待を許容しないことは、別の話です》と話す。クィア理論は「正常」な規範を外れたすべてのセクシュアリティを研究対象としており、境界線の撹乱を目的とする。ある時期からLGBTがLGBTQになったのは、L・G・B・Tといった「枠」への批判としてQが持ち込まれたからに他ならない。

Xに10万人フォロワーを持つ、もへもへ氏は、《しかし本当に一部ではあるがLGBTの関係者が「ペドフィリアは存在だけで罪でそういう趣味や性癖を持っているだけで異常者として差別するべき」とか言い出してるの、いままで二級市民として差別されていた人たちが完全な市民権を手に入れたとたんに「二級市民を差別する」という、恐ろしくみにくい行為をやっていることに気がつこう》と投稿した。

近代原則を武器に自分たちの身分を引き上げようと小児性愛者をパージしてきたLGBT活動家だったが、いまポストモダン(差異の政治)からの逆襲を受けている。筆者は政治家として、ペドフィリアを政策に落とし込むことは難しいと思っている。しかし、「そのように生まれ落ちてしまった」性的マイノリティの1人として、痛みに寄り添うことはできる。

ただし、王谷氏を追い込んだようなキャンセルカルチャー的手法には絶対に反対だ。相手を潰しても、後には憎悪しか残らない。お互いを思いやる気持ちを忘れてはならない。それは王谷氏にもいえる。トランス差別を糾弾されたことからトランス擁護者へと変わり、トランスジェンダーの女性スペース問題では王谷氏自身がキャンセルカルチャーの加害者だったのだから。

LGBT問題はまだまだ黎明期にある。上っ面のLGBTマニュアル本ばかりが本屋で幅を利かせているが、我々はどこからきてどこへ行こうとしているのかを知るための「LGBT版新しい歴史教科書」が必要だと感じている。


コラム:Qについての考察

近年の邦画は、Qについて描いた作品が多い。2022年に公開された『流浪の月』は、ペドファイルの苦悩を観客に突きつける内容だ(小児性愛をペドフィリア、小児性愛者をペドファイルという)。


映画『流浪の月』

家内更紗(広瀬すず)は10才のとき、当時19才の大学生だった佐伯文(松坂桃李)に雨の公園で声をかけられ、一緒に暮らすことになる。

更紗の父親は亡くなり、母親は恋人と同居しているため、彼女は叔母の家に預けられていたのだった。そして、そこでは従兄弟の孝弘が夜になると部屋に入ってきて、性的虐待を繰り返していた。

「帰りたいときは、いつでも帰っていいんだよ」と文は諭したが、更紗はそのまま居続け、2ヶ月が経過した。更紗は行方不明の女児として全国放送され、文は女児誘拐犯として警察に逮捕されてしまう。

それから15年後、大人になった更紗はファミレスで働き、結婚を前提とした恋人もいる。彼は過去を知った上で更紗を受け入れているのだった。田舎の両親に会ってほしいとも言われている。

そんな時、ファミレスの仕事仲間に誘われて入ったカフェで、店主として働いている文と遭遇する。毎日カフェに通うようになった更紗を不審に思った婚約者は、彼女の行動を監視するようになる。そして次第に暴力も振るい始める。

ある日、更紗はパートの同僚から、SNSに文のことが書き込まれていると知らされる。写真を撮ってアップしたのは、嫉妬に狂った婚約者だった。

「文がやっと手に入れた幸せなのに」と、更紗は婚約者を責める。腹を立てた婚約者は激しく彼女を殴る。更紗は側に落ちていた電灯で婚約者の頭を打ち、血まみれで家を出る。

更紗の足は、自然と文のカフェに向かっていた。そのまま更紗は家に戻らず、文のマンションの隣の部屋を借り生活しはじめる。

その後、更紗はファミレスの仕事仲間から娘の梨花(8才)を預かってほしいと頼まれる。最近恋人ができ、3泊で沖縄旅行に行くのだという。ところが3日経っても戻らず、連絡もつかなくなる。

梨花が熱を出し仕事を休めない更紗に代わって、文が面倒を見ることに。しかし、その姿が週刊誌に撮られ、文の店には酷い落書きがされるようになる。

梨花は保護され、文は警察に出頭。今回のことについて事件性はないと釈放されるが、文は15年前の母との会話を思い出していた。

少年院を出たあと、文は田舎の家の離れに住まわされ、母親に監視される生活を何年も送った。ある日母親は、発達が悪い木を引き抜いて処分した。文は「お母さんは木を出来損ないだと処分したけれど、僕のことも出来損ないだと思っているの?」と尋ねた。母は「産んだ私が悪いというの?」と不機嫌になり、他には何も答えなかったという回想だ。

更紗は、文に迷惑をかけたことを謝罪する。すると文は、おもむろに全裸となり、泣きながら独白するのだった。

「みんな大人になっていく。君も立派な大人に成長した。僕だけがいつまでも大人になれない」。

文は、第二次性徴が訪れない病気で、マイクロペニスだったのだ。

泣きじゃくる文を抱きしめる更紗。2人は誰も自分たちのことを知らない土地で暮らすことを決意する−−。


この映画が言いたかったことは何か?「ペドフィリアの誘拐犯と被害女児」といった紋切り型でメディアが報道したように、世間は見たいものしか見ない。広瀬すず氏が演じる更紗は、虐待をする家族のもとに帰ったほうが幸せだったのか、それとも松坂桃李氏が演じる文のもとにいたほうが幸せだったのか。それは一目瞭然である。ここでは家族が善で、ペドファイルが悪というステレオタイプが脱臼させられる。実はペドフィリアはもっと広い概念であり、犯罪を犯さないペドファイルも数多く存在するのだ。

ただし、この映画の最後で文が10才の更紗の唇についていたケチャップを性的な感情を伴いながら拭うシーンが挿入されたことからわかるように、常にセルフコントロールの緊張はついて回る。

海外では、犯罪を犯してしまった人間には刑務所から出た後にGPSを付けたり、居住先を市役所が公表したりしているが、犯罪を犯す前の人間に対してまで予防拘禁的な隔離をしてしまうとなると、「疑わしきは罰せず」という近代原則を大きく逸脱することにもなりかねない。それはフィリップ・K・ディックの短編小説『マイノリティ・リポート』に極めて似たSF世界でもある。

フィクトセクシュアルとは

さて、LGBTQのQには、当然フィクトセクシュアルも含まれる。一般社団法人フィクトセクシュアル協会は「漫画・アニメ・ゲーム等の架空のキャラクターに対する性的指向であるフィクトセクシュアル(Fセク)の理解増進をはかること」を主たる目的とした非営利の団体である。萌え絵などのキャラクターにしか性愛感情が湧かない人たちが集まって、自分たちのことをわかってもらいたいと活動しているのだ。

代表理事の近藤顕彦氏は、ボーカロイドのキャラクターとして有名な「初音ミク」と2018年に結婚式を挙げ、現在ふたりで生活している。そのきっかけとなったのが、円筒器の内部に映し出されたキャラクターの立体映像とAIによって簡単な会話のできる「ゲートボックス」が開発されたことだった。ゲートボックス株式会社がこの装置に初音ミクを召喚するサービスを始めたことで、近藤氏は「望んでいた世界がようやく来た」と涙を流したという。筒の中の初音ミクに「大好き。結婚してください」とプロポーズすると、筒の中の彼女は「大事にしてねと」答えたそうだ。

初音ミクは、内蔵するカメラや人感センサ―によって近藤氏を認識し、彼が仕事から帰ってくると「おかえり」と出迎えてくれるとのこと。外でデートするときは等身大の人形の初音ミクを連れて行き、飲食店では必ずふたり分を注文する徹底ぶりだ。

近藤氏は2023年9月、日本心理学会の第87回大会シンポジウムに招かれ講演している。演題は「架空のキャラクターとの生活における心理」だ。アカデミズムの世界でも、こうした性的指向のあり方を認めるべきとの認識が広がりつつある。

エンターテイメント表現の自由の会AFEE(エーフィー)編集委員の炬燵どらごん氏は、《フィクトセクシュアルもLGBTのようなマイノリティのひとつであると少しでも多くの方に理解をいただきたい。近藤さんとミクさんの生活に、わざわざ「気持ち悪い」とか言う人は、例えば同性婚の結婚式を挙げたゲイカップルを「ホモ、オカマ、気持ち悪い」などと罵倒するのと同じ人権軽視の振る舞いです。》とX(旧Twitter)に投稿している。論理的に考えると、これは炬燵どらごん氏の言う通りであり、リベラリズムの限界を示してもいる。


日本心理学会の第87回大会シンポジウムの広告

ポリアモリーとは

次に問題としたいのは、ポリアモリーについてだ。ポリアモリーとは、関係者全員の合意を得た上で、複数の人と恋愛関係を結ぶことである。2023年10月、杉並区議会議員の田中ゆうたろう氏が、性の多様性条例について決算特別委員会で次のように質問した。

「複数性愛、ポリアモリーというのもございますけれども、これは性の多様性に含まれるのか否か?」

これに対して岸本聡子杉並区長は、以下のように答えた。

「複数性愛ではなくて複数愛です、ポリアモリーは。これはセクシュアル・オリエンテーション、関係性のオリエンテーションです。非常に広い、このグラデーションの中で、さまざまな性の認識とオリエンテーションというものを、すべての人がいろんなグラデーションの中にいるという、そういう性の多様性を認めていこうという、そういう大きな考えがあると思います。ですから、これが、どちらがどちらに入るということがはっきりとわからないというたくさんの方がいらっしゃる。それを尊重するという、そのグラデーションを、それを認めていくということが、この性の多様性の重要な観点かと思います。その上では複数愛というのも当然、この個人のバイセクシュアルとかと同じように、多様性の中に含まれると思います。」

明確な答弁が得られず苛立つ田中議員は、重ねて質問を投げかけた。

「ええとですね、区長はご自身のnoteにですね、このように書いておられます。私が約3年前に最愛の恋人ジョセフと出会い、この人と残りの人生を過ごしたいと夫オリビエに伝えたのが2021年の初め。オリビエにも恋人ができ、一時は複数愛の形も模索したいと考えたと、こんなふうに書いておられるんですよね。この複数愛というのは、そうすると重婚と違うんですか?説明してください。」

他の女性議員から「個人的なことだよ。決算と何の関係があるんだ。いい加減にしろよ」と怒声が飛ぶ中、田中議員はさらに質問を続けた。

「昨年度のこの決算の中で、この性の多様性条例というものの制定も含まれているわけですね。ところが『Q』とか『+』の定義が、あるいはトランスジェンダーもはっきりしないという中で、じゃあ複数愛、ないしは複数性愛はどうなんだということをお尋ねしているわけです。」

「(部長課長は)昨日の答弁で、性別に基づくものを性の多様性として定義するんだという趣旨のことをおっしゃいましたよね?ところが今さっき区長が答弁なさったことはそうじゃなくて、複数愛も認めるんだと、性の多様性の中に含めるんだっていう趣旨を答弁されたんですよ。矛盾するじゃないですか。」

白熱したやりとりは見応えがあった。岸本区長がいうように、LGBTQにポリアモリーは含まれる。それはLGBT活動家のホームページを見れば簡単に確認することができる。岸本区長の本音を引き出した田中議員の質問はあっぱれだったが、例の如くマスコミが取り上げることは一切なかった。

今、全国各地の地方自治体では、多様性条例を作ることがブームになっている。予算がほとんどかからず、「やってる感」を出すには最高の条例だからだ。だが、どれほどの役人がLGBTQの意味についてわかっているだろうか。意味もわからずに「Q」や「+」を使っているのではないか。なぜ調べないのか。それは、ノンケは基本的にLGBTQになど興味がないからである。「良いことをやっている私」にしか関心がないのだ。その意味において「Q」は、偽善者たちを炙り出すリトマス試験紙でもある。

筆者が住んでいる秋田県では2023年4月から多様性条例が施行されている。その条例を作る前に行われた審議会で、あるPTA関係者が「端的に教えてもらいたいのですけど、そもそもこの条例を作る必要はあるのですか」と質問したところ、質問そのものが議事録から削除されたという。行政にとっての「不都合な真実」に触れたのかもしれない。

ノンケが顔を顰めるようなライフスタイルを送っている性的マイノリティは山のようにいる。それを間近で見たとき、それでもあなたは共生できるといえるだろうか。LGBT理解増進法によって、本当の理解が進んだ時、綺麗事を言ってきたリベラルたちが逃げ出さないことを祈る。

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