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WOWOWでの罪と罰

『罪と罰』を鑑賞して、春馬くんのキンキーブーツは、舞台を全部通して観たわけではないから、初めて舞台での三浦春馬という役者に触れた気がした。

もちろん 三浦春馬ではあるのだけれど、

そこに立っている人は罪と罰の主人公である
ラスコーリニコフにしかどんどん見えなくなってくる。

題材が重いうえ、長いお話を板の上だけで
舞台転換も部分的に行いながら
それぞれのシーンを表現していく、
舞台ならではのライブ感がとても面白かった。

人間には、二種類ある
普通の人間が、人を殺めるとそれは罪になるのにチカラのある人間が戦争の場で
沢山殺めることが評価される。

同じ人を殺めることに変わりはないのに
なぜなのか。

のっけからの主人公のセリフが重い。

あるブログで
人が例えば亡くなる時
例えば自らであっても

昔であれば切腹は、名誉を重んじる武士の亡くなり方だと評価されたのに

平和な世では自害することは
悪だと言う言われ方をする。

という言葉が何故か蘇ってきて

なにが正しいのか
なにが悪なのか

時代やそのシュチュエーションで
変わってくる。

物事の本質的な受け取り方は
さまざまで、良いも悪いもない
ということなのだろうかと、つい考えてしまった。

それにしても舞台での春馬くんの熱量や
表現が凄まじくて
3時間半 目を離すことができなかった。

役者ってこんなに心の心情や事の真理を
表すのに全身を動かして仕種、手の置き方や差し伸べ方、目の動かし方であっても
右眼と左眼の動き。瞬き。
こんなに繊細に変わっていくところで表現していくのかと、あまりの情報量に、こころが受け止めきれなくて、いっぱいいっぱいになった。

この舞台を目の前で観ると

おそらくライブ感の熱量が
半端なく、どんどん届いてきたんだろうな。

それを画像で見る。

細かく寄れるから、汗の飛び散り方。
髪の毛の濡れ具合。

伝わる涙。それこそ鼻水さえも
見たことのない 三浦春馬がそこにいた。

映像の中での春馬くんと
舞台での春馬くんは

それぞれの素晴らしさがあるけれど

この瞬間に届けたいと願う 熱量の違いでは
やはり舞台なのだろうなと思った。
やり直しがきかない、            二度とないその瞬間の時間。

舞台後での大島さんとのトークで
「春馬くんの熱量がそれこそ半端ないから
負けないほどの熱量でついていきたいと
そこにいた役者がみんな思っていたと思う」
という言葉に春馬くんが感謝していたけれど

それぞれのチカラも経験もある役者さんたちが
そのように思っていらしたというのは
舞台での彼を見ると確かにそうだろうなと思った。

春馬くんの全身から溢れる熱量が本当に凄い舞台だった。

春馬くんにとって 役者とは仕事であって
表現し続けることは、それこそ
生涯のテーマであったんだろうと思うけれど

最近の私は、三浦春馬の未来が失われたことへの限りない喪失感を嘆くよりも

こんな凄い役者さんを好きになった事で
膨大な彼がやってきた仕事を通して

私の生きている時間のひかりを感じることや
心の晴れ間をもらえることに、ただ感謝したいと思えるように、ほんの少しなった気がしている。

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ろーず
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