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失ったことで与えられていたことに気づくこと

Xを見ていたら宇多田ヒカルさんの言葉を切り抜きして紹介していたファンの人がいた。
きっと切り抜き行為の拾い読みなんて
前後のことが全く分からないのだから、
宇多田ヒカルさんには失礼だとは思う。
だけどその言葉を切り抜きしてでも伝えたいって思った人の気持ちはわかったし、あれだけ素敵な詩を書く彼女だからその言葉の真意はわからないけど、
その言葉には惹かれた。
だからその言葉の後追いする文章を書く私を許してほしい。

「25年、みんな色んなことがあったと思うけど、楽しかったことも辛かったことも全部、一歩ずつ自分をここに連れてきてくれたと思ったら

"悪くないじゃん”って思えるようになる。

生きてると、実は自分の望んでいたものが必ずしも自分にとっていいことだとは限らないし、望まなかったことが自分をすごく成長させてくれたりすると分かる。

何かを失ったときも、"失った”ってことは与えられてたんだなって気づかされたり、失ったものはずっと心の一部になるって知ったりする」

宇多田ヒカルさん


とてもうなづける言葉たちだし、
特に最後の一文はとても心に残る言葉だった。
人生の中で何度か失意の中にあることがある。

それは彼女の言うように、もしかしたら振り返ってみないとその失意が自分にとってどういうことだったのか、わからないってことはあるかもしれない。

わかってもらえるかわからないけど
私にもひとつエピソードがある。

結婚した時に自分が子供を持つことができるのかと、とても疑問だった。
どちらかというと子供は好きだけど存在は苦手。
しかも実の親と普通の関係で育たなかった環境だったのでイマイチ普通の親子って自信がなかった。

けれど幸運なことに子供たちはやってきて
思い切って親になってみた。
何十年か過ぎてある日気がついてみたら
あんなに私を追っていた彼らは、
もうどこにもいなくてすっぱり巣立っていた。

親になる前はあんなに親になることが不安だったのに
巣立っていってしまえばこんなにあっけないものだったんだなと思った。
そしてこれが私自身で毎回驚くことなのだけど、
私はそのことの本質に、過ぎてしまって気がつくようなのだ。

子供がそばにいなくなった自分が意外なほど落ち込んだ。
きっとそばにいる人たちにはわからなかったかもしれないし、子供たちも知らないことだ。
どうしてこんなに自分が寂しいのか
自分でもよくわからなかった。
子供が自立する子育てが私の子育ての目標で、
そのための何十年かだったのに。

ある日、図書館で雑誌を読んでいたら、
私のような人が寂しさを訴えていて回答者がこう答えていた。

「失うことがつらいほどあなたの子育ては楽しかったのですね」

単純なんだけど「あーそうだったんだなあ」て、
とっても納得した。
あんなに不安だったのに私、楽しかったんだなあって。
そしてそんな時間が持てたことにとても感謝した。

実は宇多田ヒカルさんの言葉を読んでいちばん最初に思ったことは、やっぱり春馬くんのことだった。

喪失感がなくならないってやっぱり存在感があったから。
私たちは彼からいっぱい「与えられて」いたのだ。
失ってしまったからたくさん与えられていたことに
気がついたのだって。
4年経ってしまったけれど、彼は心の一部になってずっといる。
そして春馬くんに伝えたい。
「あなたがそばにいることが楽しくて自然だったから今でもやっぱり会いたいよ。どうか幸せでいてほしい。そしてね 本当に楽しかったんだよ。」

いま 伝える言葉は、感謝しかない。


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