龍虎の拳1大会を見て、対戦ゲームの楽しさを見出した話
5年前の動画ですが、突然オススメに出てきて見入ってしまっていました。
1992年発売、32年前のゲーム「龍虎の拳」の大会模様です。
「こ、このゲームで大会……!?」
というのが、正直な感想でした。
「対戦」を意識して作られていないゲーム
一年前に、これの続編である龍虎2大会を見て…という記事を書いています。これより遥か前の大会でしたが、認知したのは昨日です(笑)。この龍虎の拳、主人公キャラ2名以外は基本的に一人用モードの敵キャラとして作られており、対戦モードでのみ使用可能となっていました。それゆえに持ち技が極端に少なく、一人のキャラ以外は投げ技を持っていない…という風に、「対戦格闘ゲーム」としては未完成品に近かったんですね。
そもそもこのゲーム、ネオジオの「100メガショック!」を謳ったソフト第一弾として発売されまして、ズームイン、ズームアウトを使った大きなキャラを売りにしていました。バランスやゲーム性よりも、見た目の派手さや爽快感を重視していた作品だと言えます。
「誘拐された妹を救出に向かう兄と、その親友の物語」
というストーリーが強調されていて、街でストリートファイトをしながら情報を集め、誘拐事件の真相に迫っていく…という「格闘アドベンチャーゲーム」的な趣きがありました。当時中学生だった私はこの世界観に惹かれ、なんとしてもエンディングが見たい!とやり込んでいた作品です。
そんな内容なので、ゲーム雑誌でも主に一人用の攻略が重視され対戦プレイについてはあまり触れられていませんでした。実際、このゲームで対戦をやっていたゲームセンターはほぼ見たことがなかったですね。これは、対戦重視にシフトしたはずの続編でも、そうだったのですが(汗)。
そして令和の世になり、レトロゲームを重宝しているゲーセンで大会が行われているという、まさかの未来を感じておりました。それで優勝が、一人用で2番目に戦うジャック・ターナーというインパクト。
そういえば1人目の敵である藤堂も対戦では強キャラだったそうで、この大会でも活躍しています。続編の2でただ一人消えたことで散々ネタにされたオッサンですが、主人公の父親と因縁があるという設定なのでもっと大事にされても良かったキャラだとは思いますね。
格ゲーは「不自由を楽しむ精神」を持とう
今回観たこの「龍虎1大会」ですが観る前に、
「主人公二人(リョウ・ロバート)禁止のルールかな?そうでなければこの二人だらけの大会になるでしょ?このゲームは」
などと思っていたんですね。ところが禁止されているでもなく、かといって参加キャラが主役二人ばかり、にもならず選択可能な8キャラ全てが出ています。全8キャラ(条件を満たせばあと2人増えますが)とは随分少ないですが、それでも彩りのある大会になっているんですね。
これほど、対戦ゲームとして不公平感の強いゲームもなかなか無いと思いますが…どの試合もなかなかの好勝負。ダメージにランダム性があるので(というか、いい加減とも言う)、ハチャメチャながら見応えのあるものになっていますね。
このゲームの対戦模様を見ていると、こんなに凸凹なキャラ達だからこそ、対戦は面白いのだという原理を感じ取ることができます。
現在、絶賛大流行中のスト6で持ちキャラに対し
「ああしてくれ、こうしてくれ、あの技を付けてくれ、この技をこうしてくれ」
というものや相手キャラの技を変えろ、消せといった声は無尽蔵にネット上に溢れています。
ですが、それらの要望が仮にすべて通って、自分の持ちキャラがあらゆる場面に対処できるパーフェクトキャラになったとしたら…それはそれで、面白くなくなるのではないでしょうか?
私がスト6初年度のルークにまるで魅力を感じなかった理由がそれで、メーカーが用意した初心者向けの「全てが揃ってるキャラ」に見えたからなんですね。そういうキャラで勝っても、「勝たせてもらった」としか思えない、自身の性格的な面が大きいのですが。
持ちキャラは強みも弱みもあるからこそ面白い、弱みが出る場面を切り抜け、強みを活かせる局面で勝負をものにする、これこそ醍醐味ではありませんか。
自分のキャラを強くしろー、他のキャラを弱くしろー、これはストレスを無くせと同義ですがそれと同時に、「勝つ喜び」も削いでいく考え方です。
私はメインキャラ、マノンの強化案をnoteに書いたことはありますが、現状マノンを使っていてストレスがあるとか、そう感じたこともありません。楽しい部分を享受してもいるからなんですね。
持ちキャラの「不自由な部分」も受け入れつつ、楽しんで参りましょう。
……エドはナーフしてください。
それにしても動画冒頭の、
「参加者なんと23人!どこにいたんだ?」
は笑いました。大会になると出てくる隠れ猛者、いいですよね。