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【モチーフ小説】東京


東京に来て3年も経つというのに、一向に都会での生活に慣れる気配は無かった。

春子は今日もベランダで高層ビルに埋め尽くされた空へ向ってため息をつく。

また彼と喧嘩をしてしまった。

春子を東京の街へ招いたのは彼だった。

人混みや喧騒が苦手で、彼に東京での同棲の話を持ちかけられた時は、どうしても明るい表情を見せる事が出来なかった。

それでも、彼だから、と。

彼とだったら、辛い暮らしも乗り越えられると思い、決心したのだった。

きっかけすら忘れてしまうほど些細な喧嘩だった。

春子の器が小さかったせいもあるが、それは彼も同じであった。

苦しい都会で唯一、彼との生活だけが春子にとってオアシスだった筈なのに、それすらも砂漠に変わっていってしまう事を思い、春子は泣いて、泣いて、疲れて眠った。


どれくらい経ったか、携帯電話の着信音で彼女は目を覚ました。

電話に出ると、ベランダに出るように彼の声が告げた。

はじめ色の塊だったものが、段々と広がって、散り散りになって、空へ上がっていって、灰色の東京の空を鮮やかに染めた。

風船だった。

電話の向こうで彼の声が聞こえる。

春子は砂漠に満ちた東京で、瑞々しく映える一瞬のオアシスを見た。

風船はもう消えてなくなっていた。

でも心にしまったから大丈夫。

東京の砂漠は本当に容赦がない。

弱みを見せた人間から先に飲み込んでいく。

でもオアシスを見つけられた春子の表情は明るかった。

これからだって数えきれない不安や不幸はきっと待っていて、その度に私達は喧嘩を繰り返す。

でも、それでも、良いと思った。

オアシスを見つけた私は強いのだ。

辛くたって苦しくたって何だって、私は彼とやっていこう。

今はそう思う。

今は、今は、それでいい。

春子は履き慣れたサンダルを履いて玄関から飛び出した。

早く、彼に会いたいと思った。


ーーーーーーーーーー


彼女と些細な事で喧嘩をして家を飛び出した。

同棲を始めて3年。

人当たりの強い東京の風を浴びて徐々に削れていく彼女に、秋文は見て見ぬ振りをしていた。

自分のことで精一杯だったこともある。

お互いを思いやる余裕なんて、すっかり無くなっていた。

彼女を東京に呼んだのは自分なのに。

秋文の側で屈託なく笑う彼女は、まさにオアシスそのものだった。

だからこそ、彼女には側にいて欲しかった。

しかし今では、そんな笑顔すら見ることができない。

自己中心性の権化であるような秋文は、彼自身で彼のオアシスを壊してしまった。

それがたまらなく情けなくなって、家を飛び出した。


行くあてもなく彷徨っているうちに、気づくと商店街に辿り着いていた。

いつの間にか、夜は明けていたらしい。

秋文は普段なら決して目に止まらないような、昔懐かしい駄菓子屋の前に立っていた。

そこに売られていた風船に、秋文の目は釘付けになった。

子供の頃みたく、純粋無垢な気持ちで風船を飛ばせたら、僕の憂鬱も少しは晴れるだろうか。

その景色を彼女に見せてあげたら、どうだろうか・・・。

彼は走った。買った風船を握りしめて。

向かうは公園だ。

そこだったらベランダからも見える筈だ。

彼女に見せてあげられる。

こんなもので解決出来るなんて思わないが、それでも良い。

僕が彼女のオアシスになりたい。

素晴らしい景色を見せてあげたい。

公園に着いて無我夢中で風船を膨らませた。

そんな姿を、周りで遊ぶ子供達が不思議そうに見つめる。

恥じらう気持ちなんてとっくに無くしていた。

1つ、2つ、3つ。

全て膨らませてから電話を掛けた。

やがて、彼女がベランダに現れる。

今だ・・・。

秋文が放った風船が東京の空に咲き乱れる。

周りの子供達は、その様子を眺めてはしゃいでいる。

砂漠で咲く花は、こんなにも綺麗なのか。

風船が空に消えるまで、まじまじとそれを眺めた後、自分の憂鬱さえ消えていることに気がついた。


そして、とにかく、今は。

目の前のマンションへと走りだす。

早く、彼女に会いたいと思った。


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