雨宿バス停留所のエンディングについて
始めに
小説や映画、ゲームやアニメに漫画といったフィクションにおいて、エンディングは最も大切であるように思う。
そこに至るまでがどれだけ質の悪い物でも、エンディングが良ければ(最後まで見届けてもらえない事の方が多いとは思うが)それまでの評価が覆るというのはザラにある。逆に、エンディングまでにどれだけの評価を積み上げようとも、そこで躓けば全ては水の泡と化してしまう。
本文
『雨宿バス停留所』というゲームは、エンディング、特にトゥルーエンド(以下、TE表記)によって評価や知名度といったものが驚くほどに引き上げられたと思う。
このゲームにはハッピーエンド(以下、HE表記)も存在しているのだが、正直な所それはおまけ程度のものであり、世界観や登場人物の設定など、ほぼ全ての要素がTEのために用意されたものであり、悪く言えば舞台装置になっている。
ここで“ほぼ”と書いたのは、TEにおける千歳と小鳩の言動は、どうもそれまでに描写されてきたものとは異なるように感じるからである。
千歳の性格を思えば、あの場面で「いいよ」とは言わない、というより言えない上に、小鳩も心を取り戻した後であれば、如何せん誘いに乗るのが早すぎるのではないか。
二人の、特に千歳の事を思うと、共に生きていこうという手の差し伸べ方をするHEの方が、登場人物の心の流れとしては自然であると思えた。
以上が今回、久方ぶりに通しでプレイした感想なのだが、2015年くらいに初めてプレイした時には、TEの衝撃に心を奪われ、これが最良の終わり方だと確信していたことを思い出す。
TEにおいて、二人は満足してあの世へ向かうのだろうが、残された赤音の心情を思えばこれでよかったなどと、今の私は言えなくなっていた。
TEのエンドロール後に挿入される、赤音がいじめられっ子を助けるイベントも、簡単に物事は好転しないことを彼女に突きつけるだけの内容であり、ラストの陰鬱さを補強するだけ。また彼女の妹も、続編ではHE後の良い未来が提示されているだけに何とも歯がゆい。
そして、残された千歳の母親。親子仲は良好な事が示唆されているが、そうでなくとも母子家庭でたった一人の愛娘を失うという悲しみは、他の登場人物とは比にならないものであろう。
私が思うに、雨宿バス停留所のTEがプレイヤーの心に爪痕を残すのは、順当な展開をどんでん返しのように見せることに成功しているからではないか。
HEは三人が星空を一緒に見るシーンで終わるが、これはかなり序盤での千歳と小鳩の口約束を回収したものであり、使用されるスチルもあって締めくくりとして美しいものとなっている。
一方、鷹にまつわる因習や、千歳と小鳩がいじめられている(いた)事、千歳の『他人と自分の人生をシンクロさせる能力』など、少し不自然に思えるような設定で、この物語はある種予定調和的に、TEへ向かうように誘導されている。
一見TEの方がどんでん返しに見えて、実は世界観と登場人物を入念に考えれば、プレイヤーと物語を裏切っているのはむしろ、HEの方なのではないかと思う。
繰り返しになるが、鷹ノ骸とバスや、再度バスを呼ぶ条件、千歳と小鳩の境遇など、物語の設定はほぼ、TEで上手く回収、活用できるように配置されており、そこに物語的な裏切りはない。それでもTEがプレイヤーに衝撃を与えられるのは、二人の死と、いじめによる自殺を想起させる点、そして実際には順当に迎えたにもかかわらず、どんでん返しが起こったように見えることで生まれる「ズレ」に拠るのだろう。
終わりに
このゲームを製作したサークルである、『月の側面』様。他にもいくつかのフリーゲームを製作していますが、『雨宿バス停留所』の知名度は群を抜いており、当時フリーゲームのメディアミックスの流れがあったとはいえ、小説版があるほど。
その小説はもう少しでサッカーチームが組めそうなほどの冊数を所持していますが、改めて今回原作ゲームを遊び直し、記憶の何倍もTEへの導線が引かれていることに気付き、本稿に至りました。
10年という月日に積もる話もありますが、一先ず月の側面様に何らかの動きがあることをほんのり期待する旨のみ記して、締めくくりとさせて頂きます。
お読みいただきありがとうございました。